山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年12月16日(火)

JR小倉~JR厚狭~蓮台寺峠~吉田~長府~JR小倉

                                  晴れ

 7時23分に小倉を出て8時35分、厚狭駅から歩き始める。このあたりの道は道は広く一直線になっているが、桜川に架かる寝太郎橋を渡ると急に道が狭くなる。その先で大正川に架かる石丸橋を渡って進むが、このあたりは道が交叉していて分かりにくい。二股になっているところがあるが、左側の道を進む。一旦家並が途切れるが、その先で七日町の集落に入る。
やがて再び二股に分かれているところにくるが、ついそのまま左の道を進みかけた。しかし分岐点のところに道標が立っていることに気がついたので見てみると、「右 吉田道 左 はぶ道」「明治10年」と刻まれていたので、ここは右へ進む。
分岐 
右手に明治3年9月吉日と刻まれた「幸神」の碑がある。文字が深く掘られているが、このあたりにはこうした碑が多い。
幸神 
その先に再び二股に分かれている道があり、ここを右に進むと右手に「山野井神社」がある。丁度石段の工事がされており、工事関係者の方が数名おられたが、皆さん「おはようございます」と挨拶をされてとても気持ちが良かった。
 山野井神社 
 街道に戻って右手に八幡宮の森を見ながら進み、2号線を横断して進む。その先左手に庚申塚があり、その向こうに石垣で囲まれた広い庭の家があったので、ご近所の方にお聞きすると、昔酒屋さんだったということだった。
 左手に永福寺があり、その先坂道を上って行き、二股に分かれているところを右へ進むと金錆第2踏切でJRを横断、すぐ左折して線路に沿って進み、その先の石炭跨線橋で左折して再び線路を跨ぎ、右折して線路に沿って進む。
 JRのトンネルがあり、道はトンネルの上へ右折して、弧を描くようにして左へ進み、トンネルの出口で再び線路の左側に出て、線路に沿って進む。
 右折して境国第2踏切で再び線路を横断すると前方に「福田八幡宮」がある。寛政3年(1791)と刻まれた鳥居が立っている。
福田八幡 
 この先で道は大きく左へカーブを切るが、その曲がり角に「右 吉田道 左 埴生道」と刻まれた道標があり、ここを右折して進む。
吉田道道標 
 すぐ先、正面に家が立っており、それを挟んでY字路になっているので左に進む。左手に田んぼを見ながら進んでいき、突き当りを左折、その先で道なりに右折して進む。
 山の中へ入っていくが、二股に分かれているところ左手に中国電力の「お願い!下記作業をされる方はご連絡ください」と書かれた看板が立っているのでここを左折して進む。
分岐4 
 やがて右手は山、左手は田んぼというところに道は伸びている。平坦で歩きやすい道だ。
平坦な道 
 やがて道に生えている草が次第に深くなり、道が大きく削られている場所があり、周囲はぬかるみ道となる。少し右手に迂回して進むと、ぬかるみ道はすぐに終わって、かなり草が生えてはいるものの、さほど歩きにくくはない道を進む。
 ぬかるみ1
 その先でもう一度ぬかるみ道があったが、ここもものの10mから20mほどの距離で、すぐに普通の草道になる。このあたりは雨が降った後などはかなりひどいぬかるみ道になるのかもしれないが、今回の場合はそれほどひどくはなかった。
 山道を進んでいくと、左手に高圧線の鉄塔が見え、その線の真下あたりに二股に分かれるところがあり、左へ進む道は左方向へカーブを切っており、もう一方は右斜めに進む道になっている。
分岐5 
 旧道はこの右手の道を進むが、ここを入ると完全な藪道になる。いよいよ最後の難関、蓮台寺峠だ。
 かすかに道の痕跡が残っているので、それを頼りに藪をかきわけ、かきわけ登っていく。ここは竹と笹薮の道だ。竹の切り株があるので、誰かがここで竹を切ったのだろう。
藪道1
 やがて左手に猪除けのトタン板で作った塀が出てくる。
トタン板
 ただ、所々トタンが倒れており、最近はあまり人がきていないようだ。ここから次第に歩きやすくなってくる。
 やがてT字路に突き当たるが、その角に庚申塚と伊藤初五郎と辛うじて読める石碑が立っている。ここから右折して進む。
伊藤初五郎石碑  
 男性の方がおられたので、蓮台寺への道をお聞きすると、この先に右へ上る道があるので、それを登っていけばいいと教えていただいた。その先で右折する舗装された道があったのでこれを登っていく。かなりの急坂だ。十字路を右折して階段を上っていくと「不許葷酒山門」の石碑が立っており、これを左折していくと蓮台寺の山門にたどりつく。
蓮台寺階段
 「蓮台寺」は今から千年前一條帝の勅使が九州筑紫へ向かって航行中、関門海峡で嵐に会い、遭難した。勅使が航海の無事を祈願すると突然、この山の上空に白蓮の花が咲き、間もなく嵐が静まった。勅使の上奏を受けた花山法皇は驚いて、この地を調べたところ,山上に白蓮が咲いていた。
 法皇はこの白蓮こそ観世音の化身だとしてここに蓮台寺を建て、十一面観音像を安置すると共に、この山を白蓮山と名づけたと説明されている。この十一面観音像は永観2年(984)花山天皇の作といわれており、この観音の堂前に掛けられていた永和4年(1378)に作られた銅製の鰐口とともに下関市指定文化財になっている。
蓮台寺観音堂
観音堂内部

 ここはかなりの高さがあるようで、眺望が広がっている。山陽道最後の難所、蓮台寺峠を越えたという安堵感もあり、庭もきれいに掃き清められていたので気持ちがよく、ここでしばらくゆっくりとした時間を過ごす。
蓮台寺風景 
 下りは「哲学の道」と名づけられているという石畳の道を下っていった。
 哲学の道
 山陽道に合流するところに蓮台寺の案内板と「花山法皇御作観音 白蓮山蓮臺寺」と刻まれた石碑が立っていた。坂道を下っていくと二股に分かれるところがあるが、左へ進む。
 広い道路に突き当たったところに「十六羅漢 常関寺 十一面観音蓮台寺」の看板が立っており、その下に「左 川久保 右 蓮台寺」と刻まれた道標がある。ここを左折し、道路のガード下を通って進む。
十一面観音道標 
 その先で道は突き当たるが、右手に二つの道標が立っている。古い道標には「右 上方道 左 萩道」と刻まれており、新しい道標には「吉田旧街道」と刻まれ、「旧山陽道の街道筋にあり、江戸時代毛利本藩の所領として吉田宰判の判管所や本陣も置かれ、宿場町として栄えた」と刻まれている。
 上方道道標

  突き当たりに「蛭子神社」があり、その横に高札場跡の案内板が立っている。
蛭子神社
 ここを左折して進むと、左手に「長慶寺」がある。ここは永禄10年(1567)京都で松永久秀と戦って敗れた三好長慶の子信之が父の死後、吉田へたどり着き、廃寺となっていた香積寺を再興し、真宗に改宗して長慶寺としてその開祖となったところだ。明治33年焼失したが、明治45年に再建された。幕末時代には奇兵隊の屯所の一つで隊の病院として使用されていたと説明されている。
長慶寺
 その先、大きな交差点にでるが、左手に「三界万霊」の大小二つの地蔵尊が立っている。そのすぐ横に吉田一里塚がある。
三界満霊 
 ここから街道を離れ、左折していくと左手入った所に「吉田宰判勘場御茶屋跡(御本陣)」がある。土塀と土壁の家が残っている。
吉田本陣 
 ここでカウントする。
 12時15分 吉田宿本陣跡を通る。
 船木宿から5時間6分、29561歩、18.4km。

 藩政時代、萩藩毛利の領地は18の宰判に分かれて統治されており、吉田宰判もその一つだった。50人ほどの役人がいて業務を行っていた。お茶屋は勘場に隣接し、公儀の役人や参勤交代途中の大名の宿泊所であったが、幕末には奇兵隊の屯所としても使われていたと説明されている。
 更に進んでいくと、「東行記念館」があり、「高杉晋作の墓」がある。晋作は天保10年(1839)に長州藩士の長男として生まれ、松下村塾で吉田松陰に師事。文久2年(1862)幕府貿易視察団に加わって上海を訪問したが、ヨーロッパの半植民地と化した街を見て衝撃を受け、下関を外国艦隊から守るため、文久3年(1863)奇兵隊を結成、薩長同盟締結などを推進し、慶応2年(1866)幕府の長州再征軍を小倉で撃破したが、下関で結核のため27歳8ヶ月という短い生涯を閉じた。遺言によって吉田清水山に土葬されたということで、奇兵隊の参謀、軍監だった福田公明の墓と並んでその地に墓が立っていた。
 晋作の墓 
 また、伊藤博文が高杉晋作を評していったという「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」という文字が刻まれた高杉東行(晋作)顕彰碑が立っている。
晋作顕彰碑
 またこの地には晋作の側室おうのの墓や奇兵隊無名戦士の墓が数多く並んでいる。
無名戦士の墓
  ここを出て街道に戻るが、街道を横切って進むと「奇兵隊陣屋跡」が右手にある。慶応3年(1867)奇兵隊は兵舎、稽古場、講堂などを配した陣屋をこの地に造営し、約400人の志士がここで生活をしていたということだが、今は遺構は残ってなく、石碑と案内板が立っているのみだ。
奇兵隊陣屋跡
 街道に戻って木屋川に架かる吉田大橋を渡って川沿いの道を進む。しばらく歩き、上木屋のバス停の先、前方に新幹線の橋が見えるところ、川が緩やかに左へカーブしているところの右手に地蔵堂があり、その横から上り坂になった旧道が伸びている。
川沿い道 
 坂を上り、金網を張っている道を歩くと新幹線の高架の下で再び車道に合流して川沿いに進む。その先、前方に橋が見えてくるところで、再び右斜めに旧道が伸びているのでこれを通る。
 左手に池があり、これに沿って進むと、左手に小月小学校があり、その先で右折すると右手に「小月神社」がある。ここは若宮神社と上の宮神社を併合して小月神社と改称しており、大内義隆公が献納した太刀一腰や旧清末藩主毛利元平公寄進の社名額などがある。
 小月神社
 ここから左折して進んでいくと、「大きな庚申塔」が右手に立っている。これは小月神社の御旅所に立っており、高さ2.63m、ご神体の回り3.4m、重量は7tあるという日本一ともいうべき巨大な塚で、庚申の2文字のくぼみに米粒を入れると2斗入ると説明されている。
 巨大庚申塚
 浜田川に架かる庚申橋を渡り、その先突き当りを左折したところ左側に「小月の一里塚碑」がある。
 小月一里塚
 その次の信号を右折するとすぐのところに「見廻り通り」という石碑が立っている。「下市から茶屋入口までの山陽道の一部で、下市は宿場街、茶屋町は歓楽街で栄えたため、武士が庶民の暮らしや治安を見て廻った」と刻まれている。
見廻り通り
 右手に「孝行塚」がある。政という非常に孝行な娘がいて、幼くして父を亡くしたが、長く母と暮らし、結婚してからも母や夫にもよく仕えたので殿様から度々褒められていた。明治4年に46歳で病死したが、その生涯の行為を讃える者が多く、募金をしてこの碑を建てたと説明されている。
孝行塚 
 その横で道は二股に分かれており、左の道を進むと左手に「孝女 政宅跡」の石碑が立っていた。今は空き地になっていた。
 右手に「清末護国神社」がある。明治13年に清末神社として創建、昭和33年に清末八幡宮に合祀され、清末護国神社になったと説明されている。
清末護国神社 
 右手に橋本家長屋門がある。大分修理が施されているが、それでも歴史を感じさせる建物だ。
橋本家長屋門 
 神田川に架かる神田橋を渡るが、渡り終えたところに文化8年(1811)と刻まれた昔の石橋が残されている。
 神田橋
  その先十字路を直進し、道なりに左へカーブしながら進み、車道を横断して進むと、左手に「宇部一里塚跡」碑が立っている。赤間関まで3里と刻まれている。本当にもう一息の所まで来たのだという気持ちが湧いてくる。
宇部一里塚
 その先で「才川踏切」でJRの線路を渡り、道路のガード下を通って進むと長府駅が見えてくる。
 16時23分に長府駅に着いたので、今日はここまでとし、ここから電車で小倉へ帰る。

 本日の歩行時間   8時間12分。
 本日の歩数&距離 44717歩、28.6km。

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歩人
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