2008年12月04日(木)
JR岩国~JR御庄~玖珂~高森~今市~呼坂~周防久保~JR小倉
晴れ
6時54分に岩国駅を出て7時9分に御庄駅に着く。ここは錦川清流線という、いかにも景色のよさそうな名前がついているが、JRの本数が少なく、この次は8時32分までない。
御庄駅から県道1号線に合流し、御庄川に沿って進む。周囲は山で朝霧がかかっているが、車の通行量は出勤時間帯ということもあってかかなり多い。左手川を挟んだ向こう側に桂野駅が見える。岩徳線のガード下を通り、その先で御庄川に架かる下市橋を渡る。このあたりは市という山間の静かな集落だ。
その先、上市橋で再び御庄川を渡って進むと右手に千体仏の案内板が立っている。それによると信者が寺に詣でて法要仏事を営む際、お堂の中にある千体仏の中から亡き人の顔に似た仏像を選び、これを本堂に移した後,位牌とともに仏壇に飾って読経を乞い、帰りに再びもとの位置に納めて退出したと伝えられている。千体仏は江戸中期の作で最初は一千体あったものと思われるが、今は795体が現存しているとされている。ただお堂には鍵がかかっており、中を見ることはできなかった。
その先で15号線を横断して進み、JRのガード下を通って道なりにJRの線路と併行して進む。15号線に一旦接するが、15号線と併行して旧道が通っているのでこれを進む。このあたりは一軒屋、二軒屋という地名になっているが、たしかにたまに民家が立っているという感じの場所だ。やがて15号線のガード下を通って進むと道は上り坂になる。中峠といわれるところだ。左手に15号線の欽明路トンネルの入口が見える。
やがて中峠の頂上に来て下り始める。このあたりは猪がよく出るようで道の端に「このあたり山中には猪足くくりわながあります」という注意書きが下がっており、仕掛けた方の住所、氏名、電話番号がかかれている。
やがてT字路にくるが、ここは左折して進む。その先で少し上り坂になるが、ここが欽明路峠だ。
距離は短くすぐに下り始める。更にその先で直進する道と右折する道の二股に分かれている。このあたりは標識が全くないので判断に迷うが、ここは右折して進むと右手にトンネルがあり、その横にでる。山陽自動車道のトンネルだ。車道に沿って進み、その先の跨道橋「欽明路橋」で山陽自動車道を越えて進み、山を下っていく。右手に「歴史の道 旧山陽道」の案内板が立っている。つい先ほど案内標識がないと思ったばかりだったが、その気持ちを見透かしたようにここにあった。それによると、「古代の山陽道が日本の最も古い道として歴史にでてくるのは、日本書紀によると飛鳥時代の天武14年(685)のことであり、その後大宝令(701)により、時の都大和から全国七道の中では唯一の大路として、筑前大宰府を往来する要路として整備され、野口には駅家も置かれた。豊臣、徳川時代には参勤交代や庶民の街道として玖珂の宿駅と共に利用された。 万葉集に出てくる「周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒しその道」という和歌は奈良時代の天平2年(730)大宰府の少典山口忌寸若麻呂がこの峠が周防国の道筋で最も厳しいところであることを謡ったものと書かれている。
その先右手に「欽明寺」がある。ここは第29代欽明天皇(540-571)が御幸の際、休息され欽明の名を頂いて寺号としたとされる古い歴史を持ったお寺で、欽明路峠はこの寺名にちなんだものである。昭和15年欽明路部落の火災で伽藍を全焼、観音堂は昭和17年武田家16代武田甲斐人が再建、昭和35年に本堂が再建されている。寳當観音菩薩(木像一寸五尺)は行基の作と伝えられ、2000年までは33年毎の開帳であったが、現在は毎月9.19.29日に御開帳されているそうだ。
その先、右手入ったところに「周防源氏武田氏屋敷跡と墓地」がある。戦国時代の天文9年(1540)安芸源氏の武田小三郎は毛利元就の援助により欽明路に移り、周防源氏の祖となった。その後武田氏は明治、大正を通じて郷土の育英事業等に尽力したとされている。
墓地には武田信宗公の宝篋印塔、武田光和公の五輪塔が立っている。
左手に欽明路駅を見ながら進み、上野口第2踏切でJRを越える。その先丈六第5踏切で再びJRを横断して進む。ご近所の方にお聞きすると、突き当たりのところに野口一里塚があったということだが、今は何も遺構は残っていない。ここを左折して進み、左に沿っているJRの線路の三つ目のガードをくぐって進む。
右手に「義民田坂市良右衛門」碑が立っている。市良右衛門は代々町方大年寄の田坂家の三男として生まれた。安政年間(1854-59)玖珂は岩国玖珂吉川藩領の代官所として近隣七カ村を統轄していた。代官は強大な権勢を有し、村民に重税を課し度を越えたぜいたくにふけっていたため、村民の不満は大きくなっていた。市良右衛門はこの窮状を排するため代官に面接し、進言、説得した。しかし代官は怒って彼を牢獄に265日間幽門した。村民有志が市に訴え、市良右衛門は無事無罪となった。その後年寄格に復し、税を軽減するなど善政を行ったため、彼の葬儀には二千人が会葬したということだ。
右手に「祥雲寺」がある。ここは守護大名大内氏の重臣杉氏の菩提寺であり、かっては玖珂町谷津の寺ヶ浴に所在した24坊からなる大寺院だったが、弘治元年(1555)安芸の戦国大名毛利元就一族に攻められた鞍掛合戦で焼失した。元禄14年(1701)に現在地に移転し、元文4年(1739)祥雲寺の寺号を復活し、平成19年に薬師堂が新築された。境内には杉隆泰と父京珊の墓があった。
玖珂宿の本陣は以前の玖珂町役場、現在の玖珂支所と玖珂小学校あたりにあったようなので、ここでカウントする。
10時53分、玖珂宿を通る。
御庄宿から3時間56分、20819歩、13.4km。
その先で水無川に架かる水無川橋を渡って進むと右手に「菅原神社」がある。ここはもともと江戸時代に玖珂本陣の大庄屋であり、杉氏の末裔でもある岡氏が、天災や疫病が続くのは弘治元年(1555)の鞍掛合戦で非業の死を遂げた杉隆泰父子一族郎党の祟りではないかと思い、岡家邸内に防府天満宮から分霊を勧請して天満宮を祀ったことに始まる。明治6年に天満宮から菅原神社と改称され明治13年に現在地へ遷座された。境内にあるモミノキとサカキはともに巨樹で、モミノキは当社の「神木」で、かつ玖珂町の「町木」と説明されていた。
その先右手に妙見道の道標がある。「妙見道 従是」「これよりめうけん乃ふもとまで二十一丁」と刻まれている。
東川に架かる東川橋を渡って進むと、右手入ったところに「椙杜八幡宮」がある。ここの樹林は「自然記念物」として指定されている。宮司さんがおられたのでお話を伺う。ここは蓮華山城主の椙杜正康の祖父大田時直が足利尊氏に従って九州に向かう途中、鶴岡八幡宮を高森に勧請して「泉山八幡宮」と称したのが始まりで、その後正康は筑後から椙杜に移り、椙杜性に改めて大内氏に仕えた。その後泉山神社は椙杜神社と呼ばれるようになったという。本殿横に文久3年(1863)の常夜燈、鳥居には元禄4年(1691)と刻まれていた。
街道に戻って進むと高森宿に入り、左手に本陣跡がある。ここは相川家が本陣を務め、第二次長州戦争の幕府軍と長州軍との休戦協定成立の場となったところだ。
ここでカウントする。
12時35分、高森宿本陣跡を通る。
玖珂宿から1時間42分、5394歩、3km。
右手に報明寺があり、その横少し入ったところに「宇野千代文学碑」が立っている。宇野千代は二歳のときに母トモが亡くなったので、父俊次の生家である高森市中市の宇野家で造り酒屋を営んでいた伯父に育てられたと記されている。
「高森天満宮」が右手にある。防府天満宮、遠石八幡宮と並ぶ周防三天神の一つで天文年間(1736~40)に建立されたという。延喜元年(901)菅原道真57歳のとき、左大臣藤原時平が右大臣道真公を政敵として排除し、九州大宰府へ左遷した。道真公は大宰府への途中、当地梅林で島田川に面した岸辺にコンコンと湧き出る泉で喉をうるおされ、長旅の疲れを癒されたと伝えられている。社殿は昭和36年に改築されたということだ。
島田川の川土手を歩いたが、桜並木がかなりの距離続いており、桜の咲くころはきれいだろうと思った。
右手かなり入ったところに「斎宮神社」が見えたので行ってみた。垂仁天皇皇女倭姫命が伊勢神宮を創始し、初代斎宮となった倭姫命が周防国熊毛郡の三村(相津、中村、末法)を食地とし、その後も歴代斎宮の御領地となった。大同2年(807)、時の斎王が相津の宮地ガ丘に神殿を建立し、三村の産土神とした。これが斎宮神社の創建と説明されていた。
右手に「孝行塚」がある。元文、寛保(1736~43)の頃、差川村の旧家三右衛門につかえ、生家の恩に報いるため、一意専心働いて、生家の没落を救った六松の彰徳碑と説明されている。この説明文を読んで、若乃花が大関昇進の際、その口上として「一意専心」という言葉を使ったことを思い出した。
蛍橋バス停のところから左手草道に入って進む。その先で144号線に合流して進み、長野川に架かる隅名橋を渡る。
その先差川十字路のところが分かりにくく、最初これまで歩いてきた144号線を歩きそうになったが、改めて地図を見直し、右斜めに伸びる142号線を進んでいく。
右手に天保6年(1835)、天保10年(1839)と刻まれた石仏が4体立っている。ご近所の方にお聞きすると昔ここにお寺が建っていたということだったが、詳しいことは分からなかった。
この前で道は二股になっており、左へ下る道を行くと通行できないようなので、右の道を進む。
ここから中山峠を上って行く。緩やかな上り坂だ。頂上少し手前に「御駕籠建場の跡」という案内板が立っている。ここは西国の諸大名が参勤交代や国内巡視などで往来する際、駕籠を止めて休息されたところと説明されている。今では舗装された道路が通っているので楽なものだが、昔は難所だったのだろう。
坂を上りきったところに「従是東玖珂郡」「従是西熊毛郡」の境界石が立っている。ここで岩国市から周南市に入ることになる。
右手に「正覚寺」がある。ここが天明年間から今市宿の脇本陣だった。半里先に呼坂宿があり、そことお互いに補完関係にあったということだ。立派な門が建っている。
今市宿は本陣跡が分からないため、ここでカウントする。
14時52分、今市宿を通る。
高森宿より2時間17分、13296歩、8.5km。
やがて呼坂宿に入る。「寺嶋忠三郎生誕の地」がどこかにあるはずと思いながら歩くが、どこなのかが分からない。店があったのでそこの方にお聞きするがわからないという。丁度その時、オバアさんが通りかかったので、その方に店の方が聞いてくれると案内をしてくれるというのでついていった。右手に「西原集会所」があり、その前に「寺嶋忠三郎誕生の地」碑が立っており、その横に「辞世」碑、更にその横に寺嶋先生碑が立っている。寺嶋忠三郎は、萩の松下村塾に入って吉田松陰に学び尊皇攘夷運動に尽くしたが、禁門の変に際して久坂玄瑞らとともに自刃したのだ。
更にここから少し離れた所にお墓があるといってあぜ道を通ってオバアさんが案内をしてくれた。民家の横、小高いところに墓石がいくつか並んで立っており、ここが寺嶋先生のお墓だという。「寺嶋家先祖累代之墓」と刻まれたお墓があったが新しそうだ。どれが寺嶋忠三郎のお墓なのかオバアさんもよくわからないらしく、結局このお墓のどれかだということしかわからなかった。
街道に戻って進むと左手に呼坂宿本陣跡がある。
ここでカウントする。
15時33分、呼坂宿本陣跡を通る。
今市宿より41分、1496歩、1.5km。
ここは河内家が代々庄屋を勤めていたということだ。
右手に「吉田松陰 寺嶋忠三郎訣別の地」碑が立っている。安政6年(1859)5月松蔭は江戸に送られることになり、25日に檻輿は萩を発し、小郡を経て6月3日に高水村を通過した。忠三郎は当時高水におり、呼坂で師と無言の別れを告げた場所であると書かれており、「かりそめの今日の別れは幸なりき ものをも言ハば思いましなん 松蔭」 「よそに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん 忠三郎」と刻まれた石碑が立っている。
交差点を直進すると道は左に曲がり、次に右に曲がりながら坂を上って行く。古市坂と呼ばれているところだ。やがて突き当たりに地蔵堂があり、ここを右折して進む。2号線に接するところまでくると、2号線に併行して細い道があるのでこれを歩く。山際の道を歩き、上を通る道路のガード下を通って進む。大江踏切を渡り、すぐに左折してまもなく2号線に合流する。周南市勝馬の歩道橋があり、ここから右斜めに伸びる旧道を進む。
右手、2号線の向こうに「熊毛神社」がある。ここは式内神社だが、創立年代は不詳ということだ。奈良時代の天平10年(738)の「周防国正税帳」に「熊毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とあり、安土桃山時代の天正17年(1589)の検地には「田六町五反十歩 畠四反」の神領があったとされている。現在の社殿は本殿を明治19年、拝殿を明治30年に再建したものだ。
遠見の信号から2号線に併行して旧道があるのでこれを歩く。やがて道は次第に狭くなり、竹やぶの中に入っていく。
もう16時30分近くになっており、竹やぶの中は暗いのだが、何とか歩けるので藪を掻き分け掻き分け進むと、JRのガード下に出て、2号線に合流する。
峠(タオ)の信号のところに「東 周防之国熊毛郡 西周防国都濃郡」のまだ新しい道標が立っており、ここから左斜めに伸びる旧道を歩く。
一旦、2号線に合流した後、すぐに今度は右斜めに旧道が伸びているのでそれを歩く。2号線の先に周防久保駅が見えるが、そのまま旧道を歩き、駅のところまで来て左折して17時6分に駅に着く。
気になっていたのが電車の時間だ。先ほどからJRの線路に併行して歩いてきたのだが、電車が通っているのを一度見ただけだ。この駅でしばらく待たされるのではないかと思っていたが、幸い17時28分の電車があったのでホッとする。ここは無人駅。ベンチに腰掛けてカバンを下ろし、靴を脱いで荷物の整理をしていると、徳山行きの電車が入った。時計を見るとまだ17時16分だ。一瞬、駅に張ってある時刻表が間違っているのだと思った。これを逃すと次ぎの電車まで一時間ないので、大慌てで靴を引っ掛け、紐を結ぶ暇もなく、階段を駆け上がって向こう側のホームに停まっている電車に飛び乗った。ヤレヤレと思っていると車内放送があり、「12分間停車します」とのこと。な~んだ、と思うと同時に12分間も時間待ちする電車も珍しいと思った。ここから徳山へ出、新幹線に乗り換えて小倉に帰り着く。
本日の歩行時間 9時間57分。
本日の歩数&距離 49639歩、34.3km。
6時54分に岩国駅を出て7時9分に御庄駅に着く。ここは錦川清流線という、いかにも景色のよさそうな名前がついているが、JRの本数が少なく、この次は8時32分までない。
御庄駅から県道1号線に合流し、御庄川に沿って進む。周囲は山で朝霧がかかっているが、車の通行量は出勤時間帯ということもあってかかなり多い。左手川を挟んだ向こう側に桂野駅が見える。岩徳線のガード下を通り、その先で御庄川に架かる下市橋を渡る。このあたりは市という山間の静かな集落だ。
その先、上市橋で再び御庄川を渡って進むと右手に千体仏の案内板が立っている。それによると信者が寺に詣でて法要仏事を営む際、お堂の中にある千体仏の中から亡き人の顔に似た仏像を選び、これを本堂に移した後,位牌とともに仏壇に飾って読経を乞い、帰りに再びもとの位置に納めて退出したと伝えられている。千体仏は江戸中期の作で最初は一千体あったものと思われるが、今は795体が現存しているとされている。ただお堂には鍵がかかっており、中を見ることはできなかった。
その先で15号線を横断して進み、JRのガード下を通って道なりにJRの線路と併行して進む。15号線に一旦接するが、15号線と併行して旧道が通っているのでこれを進む。このあたりは一軒屋、二軒屋という地名になっているが、たしかにたまに民家が立っているという感じの場所だ。やがて15号線のガード下を通って進むと道は上り坂になる。中峠といわれるところだ。左手に15号線の欽明路トンネルの入口が見える。
やがて中峠の頂上に来て下り始める。このあたりは猪がよく出るようで道の端に「このあたり山中には猪足くくりわながあります」という注意書きが下がっており、仕掛けた方の住所、氏名、電話番号がかかれている。
やがてT字路にくるが、ここは左折して進む。その先で少し上り坂になるが、ここが欽明路峠だ。
距離は短くすぐに下り始める。更にその先で直進する道と右折する道の二股に分かれている。このあたりは標識が全くないので判断に迷うが、ここは右折して進むと右手にトンネルがあり、その横にでる。山陽自動車道のトンネルだ。車道に沿って進み、その先の跨道橋「欽明路橋」で山陽自動車道を越えて進み、山を下っていく。右手に「歴史の道 旧山陽道」の案内板が立っている。つい先ほど案内標識がないと思ったばかりだったが、その気持ちを見透かしたようにここにあった。それによると、「古代の山陽道が日本の最も古い道として歴史にでてくるのは、日本書紀によると飛鳥時代の天武14年(685)のことであり、その後大宝令(701)により、時の都大和から全国七道の中では唯一の大路として、筑前大宰府を往来する要路として整備され、野口には駅家も置かれた。豊臣、徳川時代には参勤交代や庶民の街道として玖珂の宿駅と共に利用された。 万葉集に出てくる「周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒しその道」という和歌は奈良時代の天平2年(730)大宰府の少典山口忌寸若麻呂がこの峠が周防国の道筋で最も厳しいところであることを謡ったものと書かれている。
その先右手に「欽明寺」がある。ここは第29代欽明天皇(540-571)が御幸の際、休息され欽明の名を頂いて寺号としたとされる古い歴史を持ったお寺で、欽明路峠はこの寺名にちなんだものである。昭和15年欽明路部落の火災で伽藍を全焼、観音堂は昭和17年武田家16代武田甲斐人が再建、昭和35年に本堂が再建されている。寳當観音菩薩(木像一寸五尺)は行基の作と伝えられ、2000年までは33年毎の開帳であったが、現在は毎月9.19.29日に御開帳されているそうだ。
その先、右手入ったところに「周防源氏武田氏屋敷跡と墓地」がある。戦国時代の天文9年(1540)安芸源氏の武田小三郎は毛利元就の援助により欽明路に移り、周防源氏の祖となった。その後武田氏は明治、大正を通じて郷土の育英事業等に尽力したとされている。
墓地には武田信宗公の宝篋印塔、武田光和公の五輪塔が立っている。
左手に欽明路駅を見ながら進み、上野口第2踏切でJRを越える。その先丈六第5踏切で再びJRを横断して進む。ご近所の方にお聞きすると、突き当たりのところに野口一里塚があったということだが、今は何も遺構は残っていない。ここを左折して進み、左に沿っているJRの線路の三つ目のガードをくぐって進む。
右手に「義民田坂市良右衛門」碑が立っている。市良右衛門は代々町方大年寄の田坂家の三男として生まれた。安政年間(1854-59)玖珂は岩国玖珂吉川藩領の代官所として近隣七カ村を統轄していた。代官は強大な権勢を有し、村民に重税を課し度を越えたぜいたくにふけっていたため、村民の不満は大きくなっていた。市良右衛門はこの窮状を排するため代官に面接し、進言、説得した。しかし代官は怒って彼を牢獄に265日間幽門した。村民有志が市に訴え、市良右衛門は無事無罪となった。その後年寄格に復し、税を軽減するなど善政を行ったため、彼の葬儀には二千人が会葬したということだ。
右手に「祥雲寺」がある。ここは守護大名大内氏の重臣杉氏の菩提寺であり、かっては玖珂町谷津の寺ヶ浴に所在した24坊からなる大寺院だったが、弘治元年(1555)安芸の戦国大名毛利元就一族に攻められた鞍掛合戦で焼失した。元禄14年(1701)に現在地に移転し、元文4年(1739)祥雲寺の寺号を復活し、平成19年に薬師堂が新築された。境内には杉隆泰と父京珊の墓があった。
玖珂宿の本陣は以前の玖珂町役場、現在の玖珂支所と玖珂小学校あたりにあったようなので、ここでカウントする。
10時53分、玖珂宿を通る。
御庄宿から3時間56分、20819歩、13.4km。
その先で水無川に架かる水無川橋を渡って進むと右手に「菅原神社」がある。ここはもともと江戸時代に玖珂本陣の大庄屋であり、杉氏の末裔でもある岡氏が、天災や疫病が続くのは弘治元年(1555)の鞍掛合戦で非業の死を遂げた杉隆泰父子一族郎党の祟りではないかと思い、岡家邸内に防府天満宮から分霊を勧請して天満宮を祀ったことに始まる。明治6年に天満宮から菅原神社と改称され明治13年に現在地へ遷座された。境内にあるモミノキとサカキはともに巨樹で、モミノキは当社の「神木」で、かつ玖珂町の「町木」と説明されていた。
その先右手に妙見道の道標がある。「妙見道 従是」「これよりめうけん乃ふもとまで二十一丁」と刻まれている。
東川に架かる東川橋を渡って進むと、右手入ったところに「椙杜八幡宮」がある。ここの樹林は「自然記念物」として指定されている。宮司さんがおられたのでお話を伺う。ここは蓮華山城主の椙杜正康の祖父大田時直が足利尊氏に従って九州に向かう途中、鶴岡八幡宮を高森に勧請して「泉山八幡宮」と称したのが始まりで、その後正康は筑後から椙杜に移り、椙杜性に改めて大内氏に仕えた。その後泉山神社は椙杜神社と呼ばれるようになったという。本殿横に文久3年(1863)の常夜燈、鳥居には元禄4年(1691)と刻まれていた。
街道に戻って進むと高森宿に入り、左手に本陣跡がある。ここは相川家が本陣を務め、第二次長州戦争の幕府軍と長州軍との休戦協定成立の場となったところだ。
ここでカウントする。
12時35分、高森宿本陣跡を通る。
玖珂宿から1時間42分、5394歩、3km。
右手に報明寺があり、その横少し入ったところに「宇野千代文学碑」が立っている。宇野千代は二歳のときに母トモが亡くなったので、父俊次の生家である高森市中市の宇野家で造り酒屋を営んでいた伯父に育てられたと記されている。
「高森天満宮」が右手にある。防府天満宮、遠石八幡宮と並ぶ周防三天神の一つで天文年間(1736~40)に建立されたという。延喜元年(901)菅原道真57歳のとき、左大臣藤原時平が右大臣道真公を政敵として排除し、九州大宰府へ左遷した。道真公は大宰府への途中、当地梅林で島田川に面した岸辺にコンコンと湧き出る泉で喉をうるおされ、長旅の疲れを癒されたと伝えられている。社殿は昭和36年に改築されたということだ。
島田川の川土手を歩いたが、桜並木がかなりの距離続いており、桜の咲くころはきれいだろうと思った。
右手かなり入ったところに「斎宮神社」が見えたので行ってみた。垂仁天皇皇女倭姫命が伊勢神宮を創始し、初代斎宮となった倭姫命が周防国熊毛郡の三村(相津、中村、末法)を食地とし、その後も歴代斎宮の御領地となった。大同2年(807)、時の斎王が相津の宮地ガ丘に神殿を建立し、三村の産土神とした。これが斎宮神社の創建と説明されていた。
右手に「孝行塚」がある。元文、寛保(1736~43)の頃、差川村の旧家三右衛門につかえ、生家の恩に報いるため、一意専心働いて、生家の没落を救った六松の彰徳碑と説明されている。この説明文を読んで、若乃花が大関昇進の際、その口上として「一意専心」という言葉を使ったことを思い出した。
蛍橋バス停のところから左手草道に入って進む。その先で144号線に合流して進み、長野川に架かる隅名橋を渡る。
その先差川十字路のところが分かりにくく、最初これまで歩いてきた144号線を歩きそうになったが、改めて地図を見直し、右斜めに伸びる142号線を進んでいく。
右手に天保6年(1835)、天保10年(1839)と刻まれた石仏が4体立っている。ご近所の方にお聞きすると昔ここにお寺が建っていたということだったが、詳しいことは分からなかった。
この前で道は二股になっており、左へ下る道を行くと通行できないようなので、右の道を進む。
ここから中山峠を上って行く。緩やかな上り坂だ。頂上少し手前に「御駕籠建場の跡」という案内板が立っている。ここは西国の諸大名が参勤交代や国内巡視などで往来する際、駕籠を止めて休息されたところと説明されている。今では舗装された道路が通っているので楽なものだが、昔は難所だったのだろう。
坂を上りきったところに「従是東玖珂郡」「従是西熊毛郡」の境界石が立っている。ここで岩国市から周南市に入ることになる。
右手に「正覚寺」がある。ここが天明年間から今市宿の脇本陣だった。半里先に呼坂宿があり、そことお互いに補完関係にあったということだ。立派な門が建っている。
今市宿は本陣跡が分からないため、ここでカウントする。
14時52分、今市宿を通る。
高森宿より2時間17分、13296歩、8.5km。
やがて呼坂宿に入る。「寺嶋忠三郎生誕の地」がどこかにあるはずと思いながら歩くが、どこなのかが分からない。店があったのでそこの方にお聞きするがわからないという。丁度その時、オバアさんが通りかかったので、その方に店の方が聞いてくれると案内をしてくれるというのでついていった。右手に「西原集会所」があり、その前に「寺嶋忠三郎誕生の地」碑が立っており、その横に「辞世」碑、更にその横に寺嶋先生碑が立っている。寺嶋忠三郎は、萩の松下村塾に入って吉田松陰に学び尊皇攘夷運動に尽くしたが、禁門の変に際して久坂玄瑞らとともに自刃したのだ。
更にここから少し離れた所にお墓があるといってあぜ道を通ってオバアさんが案内をしてくれた。民家の横、小高いところに墓石がいくつか並んで立っており、ここが寺嶋先生のお墓だという。「寺嶋家先祖累代之墓」と刻まれたお墓があったが新しそうだ。どれが寺嶋忠三郎のお墓なのかオバアさんもよくわからないらしく、結局このお墓のどれかだということしかわからなかった。
街道に戻って進むと左手に呼坂宿本陣跡がある。
ここでカウントする。
15時33分、呼坂宿本陣跡を通る。
今市宿より41分、1496歩、1.5km。
ここは河内家が代々庄屋を勤めていたということだ。
右手に「吉田松陰 寺嶋忠三郎訣別の地」碑が立っている。安政6年(1859)5月松蔭は江戸に送られることになり、25日に檻輿は萩を発し、小郡を経て6月3日に高水村を通過した。忠三郎は当時高水におり、呼坂で師と無言の別れを告げた場所であると書かれており、「かりそめの今日の別れは幸なりき ものをも言ハば思いましなん 松蔭」 「よそに見て別れゆくだに悲しさを 言にも出でば思いみだれん 忠三郎」と刻まれた石碑が立っている。
交差点を直進すると道は左に曲がり、次に右に曲がりながら坂を上って行く。古市坂と呼ばれているところだ。やがて突き当たりに地蔵堂があり、ここを右折して進む。2号線に接するところまでくると、2号線に併行して細い道があるのでこれを歩く。山際の道を歩き、上を通る道路のガード下を通って進む。大江踏切を渡り、すぐに左折してまもなく2号線に合流する。周南市勝馬の歩道橋があり、ここから右斜めに伸びる旧道を進む。
右手、2号線の向こうに「熊毛神社」がある。ここは式内神社だが、創立年代は不詳ということだ。奈良時代の天平10年(738)の「周防国正税帳」に「熊毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とあり、安土桃山時代の天正17年(1589)の検地には「田六町五反十歩 畠四反」の神領があったとされている。現在の社殿は本殿を明治19年、拝殿を明治30年に再建したものだ。
遠見の信号から2号線に併行して旧道があるのでこれを歩く。やがて道は次第に狭くなり、竹やぶの中に入っていく。
もう16時30分近くになっており、竹やぶの中は暗いのだが、何とか歩けるので藪を掻き分け掻き分け進むと、JRのガード下に出て、2号線に合流する。
峠(タオ)の信号のところに「東 周防之国熊毛郡 西周防国都濃郡」のまだ新しい道標が立っており、ここから左斜めに伸びる旧道を歩く。
一旦、2号線に合流した後、すぐに今度は右斜めに旧道が伸びているのでそれを歩く。2号線の先に周防久保駅が見えるが、そのまま旧道を歩き、駅のところまで来て左折して17時6分に駅に着く。
気になっていたのが電車の時間だ。先ほどからJRの線路に併行して歩いてきたのだが、電車が通っているのを一度見ただけだ。この駅でしばらく待たされるのではないかと思っていたが、幸い17時28分の電車があったのでホッとする。ここは無人駅。ベンチに腰掛けてカバンを下ろし、靴を脱いで荷物の整理をしていると、徳山行きの電車が入った。時計を見るとまだ17時16分だ。一瞬、駅に張ってある時刻表が間違っているのだと思った。これを逃すと次ぎの電車まで一時間ないので、大慌てで靴を引っ掛け、紐を結ぶ暇もなく、階段を駆け上がって向こう側のホームに停まっている電車に飛び乗った。ヤレヤレと思っていると車内放送があり、「12分間停車します」とのこと。な~んだ、と思うと同時に12分間も時間待ちする電車も珍しいと思った。ここから徳山へ出、新幹線に乗り換えて小倉に帰り着く。
本日の歩行時間 9時間57分。
本日の歩数&距離 49639歩、34.3km。
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