2008年12月03日(水)
JR大野浦~玖波~関戸~御庄~JR岩国
曇り
7時47分に小倉駅を出発し広島駅に着くと、人身事故があってダイヤが乱れているという放送があった。今日は朝一番に用事を済ませて出発したため、スタートがいつもより遅かった。そのためこれ以上遅れるのはイヤだなと思っていたが、幸いなことに30分遅れの電車が丁度出発しようとしていたので、それに乗ることができ、定刻より少し遅れた程度で大野浦駅に着くことができた。9時半に出発する。
しばらく車道を歩き、車道が右にカーブをするところから直進して旧道が伸びているので、これを歩く。案内板が立っており、それによると「この道は平成3年度に石畳発掘調査を行い、ここには当時の街道づくりの苦心が偲ばれる石畳道があるので、現在保存のための仮舗装をしています」と書かれている。
この坂道を上っていき、再び舗装道路に出た先に、細い山道の旧道が伸びているのでこれを歩く。ここにも短い距離だが石畳の道がある。
二股に分かれているところがあり、これを右折すると右手に「浪の上に 藻塩焼くかと 見えつるは あまの小舟に たく火なりけり」と刻まれた今川貞世(了俊)の碑が立っている。
このあたりは草道と舗装された道が交互に現れる。広島岩国道路の下まできてこれに併行して進んでいく。左手には海が広がっており、その向こうには宮島が見える。
左手に「宮浜温泉 海望の源泉地」の石碑が立っていて、昭和40年に開設したと説明されている。
右手に「残念社」の標識があり、その先で右折して高架下を通って進む。このあたりには「残念さん」と書かれた案内板が数多く立っており、それに従って歩く。かなりの坂道でこのあたりを四十八坂と呼ぶようだ。
やがてY字路があり、ここには案内板が立っていない。迷ったがとりあえず右手へ上っていくと鉄塔が立っており、左下にダムが見える。この道はこの鉄塔のためにつけられた道のようだったので、引き返して左手の道を下っていく。右手に先ほど鉄塔のところから見たダムの堤防が見える。
そこからすぐ先の右手に「残念社」があった。慶応2年(1866)長州征伐の際、丹後宮津藩士依田伴蔵が軍師として長州陣営に赴く途中、ここ四十八坂で長州軍に幕府の戦闘員と間違われて狙撃されてしまった。伴蔵は「残念」の一言を残して死んでしまったので、村人はこれを悼み、「残念様」と呼んで「依田神社」としてその霊を祭っている。
その先に「吉田松陰腰かけ石」がある。江戸に護送される途中、この岩に腰を掛けてはるか故郷の大島を望みながら、父母の恩愛に感激をし、「この場こそ三県一望の地」であると、故郷にも別れを告げた場所だと説明されている。つい先日薩摩街道を歩いたとき、西郷さんの腰掛石があり座ってみたばかりだ。石は西郷さんの石よりこちらのほうがかなり大きかった。ここでも座ってみたが、昨夜来の雨でまだ濡れており、しっとりとした冷たさが伝わってきた。
三県一望の地ということだが、現在は木が繁っていて、眺望は開けていなかった。
ここから上へ登る道があり、「依田神社」があった。
街道に戻り下っていくと、「区民ふれあい道路」の標識があり、左折するように矢印がついていたが、ここは直進する。この「区民ふれあい道路」の標識は「区民ふれあい道路 西国街道」と二種類あるようだった。山陽道は「西国街道」と書かれたほうになるがちょっと間違いやすい。
八坂墓苑があり、ここを左折して進む。ここでも左折して高架下を通って進む道があるが直進して進み、その先に突き当たりがあるのでここを左折して、広島岩国道路の高架下を通って進む。前方に海が見え、その向こうに煙たなびく工場群が見える。左手に鳴川保育園があり、その先で何ヶ所か分岐する道があるが、基本的に直進する。
坂を上ると道が急に狭くなるが、その細い道を登っていくと、ここが「鳴川の石畳」だ。
ここに「史跡 西国街道」の案内板が立っている。それによると、この街道は毛利時代に次いで福島時代から漸次整備され、浅野時代に入って寛永10年(1633)幕府の巡見使派遣、同12年(1635)参勤交代制の確立が契機となって画期的に整備された。この坂を上った鉾ノ峠に一里塚があったと書かれている。
ここから完全に山の中に入っていく。かなり草が繁っているが、一応細い道が続いているのでこれに従って歩いていくと、左右に分岐するところにでる。直進する方角にもなんとなく道がありそうだったので、とりあえず直進してみたが、すぐに道がなくなったので、引き返してもう一度周囲を見回し、地図を見直してみた。どうも右へ下るようだと思って右折していくと、かなり急な下り坂になり、その先で右手下にJRの線路が見え、その上を金網のフェンスで仕切られた細い道が続いている。JRのトンネルの入口の真上を歩くようになっているので、これを通っていくと国道2号線に合流した。
この間、草が生い茂っている道を歩いたので、ズボンは膝から下がびしょ濡れだ。2号線に出て右折すると、すぐに玖波随道を通る。これを抜けると玖波の町だ。旧家らしい、歴史を感じさせる家が並んでいる。
右手に「高札場跡と角屋釣井」がある。この井戸は宿の飲料水として、また最近まで西山社行者堂の寒行の水垢離にも永く使用されてきた共同井戸の一つと説明されている。
JA玖波支店のあたりが本陣があったところということなので、ここでカウントする。
11時18分、玖波宿を通る。
廿日市宿から5時間16分、29935歩,17.8km。
そのすぐ先で右折しなければいけなかったのだが直進してしまい、途中で気がついて元に戻って右折し、JRのガードをくぐって進む。このあたりは道が分かりにくかった。お好み焼き屋があったので昼食にしたが、ここのご主人の話ではこのあたりは旧道がかなり失われてしまっているといわれていた。
その先向田橋を渡り、坂道を上っていくと広島岩国高速道路の下に出るので、これの下を併行して歩く。左手に玖波中学があり、その先から左折して車道に出、そこから右折して進む。天膳川に架かる黒川橋を渡り、「もりすぎ酒店」が左手にあるのでここを左折して進む。2号線にでる一つ手前の道で右折して進み、突き当たりを右折、すぐ先で左折して進む。
右手に「けごろもの碑」が立っている。 案内板には「けごろも」は難しい漢字で記されており、その字を打ち込んだが、うまく印刷されないというメッセージが出たのでひらがなで書いておきます。「けごろも」は毛皮で作った防寒用衣服のことで普段着という意味もあるようだ。芭蕉の百五十年忌の天保14年(1859)に近辺の俳句同好の人たちによってこの碑が立てられたと説明されていた。
突き当りを右折、広島岩国道路の下まで行って左折、御園出会橋を渡ってすぐに右折して高架下を通り、すぐに左折して高速道路に沿って進むと、右手に「橋姫神社」がある。これは年代、由来は不詳だが、セキ、ゼンソクまた交通などの守護神として広く尊崇されてきたという説明文が台座のところに刻まれていた。
舗装された坂道を上っていくと左手からきた道と合流する。その前方に「全面通行止」の標識が置いてあるがそのまま進み、右手にある階段を上っていく。階段の上り口に「無断立入り禁止 苗木が痛んで非常に困ります」という看板がかかっている。ここは事前の調査で大竹市役所生涯学習課の方に電話を入れて、地主さんに了解を取っていただいていたので気兼ねなく入ることができた。
畑の中を歩いていくと通れないように間仕切りがしてあるので、これをはずして中に入り、また元に戻しておく。3枚このような場所があった。
細い道が畑の中に続いているのでそれに従って上っていくと、猪除けのトタン板で仕切られている所に出るのでこれを跨いで畑の向こう側に出ると、そこに旧道が伸びていた。草道だがしっかりとした道が続いている。これが「苦の坂」だ。
やがて頂上に出ると案内板が立っている。
それによると大竹市を通っている西国街道では「鳴川の石畳」とこの「苦の坂」が往時の面影を残しており、安政の大獄で囚われの身になった吉田松陰は安政6年(1859)5月にこの峠を越えて江戸へ送られた。またここは幕府軍と長州軍が戦った長州役の戦跡で、幕府軍は長州軍に敗れたという説明がなされていた。
ここは竹林の中の道で歩いていて気持ちがいい。下りになって道に石が沢山散らばっている。石畳の跡かなと思ったが、左手の山を見ると岩があちこちに見えており、これが削られて落ちてきたのだろうと思った。
下ったところに「ちぎり池神社」がある。ここは厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸へ移るとき、苦の坂へ差し掛かった。幼子を背に負っていたので息もきれぎれとなり、ここまで大切に持っていた「ちぎり」(機織の縦糸を巻く道具)を坂の上から麓の池に投げ捨て、身を軽くして苦の坂を越えていった。後にその池を埋めて社殿を建てたので「ちぎり神社」であると説明されている。
左手高いところに「大元神社」がある。鉛筆で書かれた縁起があったが、字が薄れておりよく読めない。天正年間〈400年前)創建という文字を辛うじて読むことができたが、他は読み取ることはできなかった。
西国橋があり、街道はこれを渡って進むのだが、そのまま直進すると「木野川渡し場跡」がある。小瀬川(木野川)は洪水が起きるたびに川の流れを変えていた。このため安芸では洪水から村を守るために「福島堤防」と呼ばれる「まき石護岸」やその上流に「小林三角和久」と呼ばれる三角形の石垣の堤防を築いたと説明されていた。
西国橋まで戻ってこれを渡り、すぐに左折して川に沿って進む。その先、川とそれに沿った道路が左にカーブする曲がり角右手に「夢路にも かえらぬ関を 打ち越えて 今をかぎりと 渡る小瀬川」と刻まれた吉田松陰歌碑が立っている。安政6年(1859)5月28日籠で護送されながら小瀬川に差し掛かり、防長二州と最後の別れをされたときの歌で、同年10月27日に伝馬町の獄舎で処刑されたのである。山陽道の沿線各所にこうして吉田松陰に関する諸々のものが残されているが、囚われて処刑の場へ向かう旅の道中、それぞれの地で松蔭はどのような思いでいたのだろう。
舗装された坂道をしばらく上っていくと左手に「歴史の道 旧山陽道」の白い標柱が立っているので、そこから左へ伸びる草道を歩く。
少し上ると舗装された先ほどの道の延長上に合流する。しばらく坂を上るが人はもちろん、車も一台も通らない中、一人黙々と歩く。
峠のほぼ頂上あたりで右手に先ほどと同じ「歴史の道 山陽道」の標柱が立っているので、これを上っていく。
ここは先ほどの道より細く険しい。入口を入ってすぐ先で右折して進むと二股に分かれているのでこれを左に進む。
更にその先でもう一度二股に分かれている。
右手の道は若干上っており、左手は下っている。 旧道に入るときにほとんど頂上に来ていたので、ここは下りだろうと思って下っていく。倒木があったり草が生えていたりして歩きにくくはあるが、それでも道が続いているのでそれに従って下っていくと舗装されている道路に出た。10分ほどと距離は短かったが、急坂だったので汗をびっしょりかいてしまった。
やがて坂を下っていくと関戸宿に出てくる。右手に関戸公会堂があり、その前に関戸宿本陣跡の案内板が立っている。
ここでカウントする。
15時9分 関戸宿本陣跡を通る。
玖波宿から3時間51分、18509歩、11km。
その奥に客神社がある。ここも坂の上だ。
やがて2号線に合流し右折して進む。左手に岩国コンクリートの工場があるところで、右手の金網に「旧山陽道 岩国往来」という標識がかかっていた。みるとコンクリートの壁の隙間に一人の人間が辛うじて入ることができる空間が開いている。中を覗いてみると道が通っているので金網が邪魔をして入りにくかったがなんとか入ってみた。
やがて急な崖があり、そこにロープが張ってある。これをつかんで登れということだろうと思って、左手に地図を持ちながら右手一本でロープをつかんで登ろうとした。しかし崖はかなり急で一本の腕では登れない。仕方がないので地図をカバンに入れ、両手でロープを握って崖をよじ登った。登りながら本当に昔の人はこんな急な崖を登ったのだろうか、馬や駕籠はどうしたのだろうという疑問が湧いたが、ここが旧山陽道ということなのでとにかくよじ登った。
上に出ると「忠魂碑」があり、左手に階段があるのでこれを下っていった。
階段の途中で矢印がついていて右折するようになっていたので、それに従って下っていくと藤河郵便局の横に出た。ここで2号線に合流して歩き始めたが、しばらく行って多田一里塚を見ることを忘れていたので引き返す。
郵便局のすぐ前の広場に「多田一里塚跡」の標識が立っていた。
その横に「多田渡り場跡」への矢印がある標識が立っていたのでそれに従って歩いていったが、錦川まで出るのに意外と時間がかかった。既に夕暮れが迫ってきており、なんとか今日は最低限御庄駅まで行かなければアクセスがないのだ。もともと気が焦っているところに一里塚を見忘れて戻ってきており、焦りは更に倍加している。そこに思ったよりも渡り場まで時間がかかったので、余計に遠くに感じたのかもしれない。とにかく急いだ。 「多田渡り場跡」は川岸に小さな標示板が立っており、ガードレールの向こう側にコンクリートで作られた階段状のものがあるだけで、遺構は何も残っていなかった。
街道に戻り先を急ぐ。御庄駅のJRの時間は16時51分、その次は18時33分までないのだ。17時を過ぎると急速に暗くなるのでなんとか51分に間に合わせたいと急ぐ。
御庄大橋を渡ってすぐに左折、新幹線の手前で一旦左折して新幹線に沿って歩き、その先で高架下を通って反対側を歩く。蓮乗寺が右手にあり、住職さんがおられたので本陣跡の場所をお聞きした。自分で探すよりも聞いたほうが早いと思ったのだ。そうすると少し先の右手に木が立っている空き地があり、そこが本陣跡と親切に教えていただいた。
ここでカウントする。
16時46分 御庄宿を通る。
関戸宿から1時間25分、8626歩、4.6km。
ここには遺構もなく標識も出ていなかったので、聞かなければ分かりにくかっただろうと思った。
その先右手に多賀神社がある。ここの鳥居には明和5年(1768)と刻まれていた。
16時46分に御庄駅に着く。なんとか間に合った。ここから岩国まで出て宿に入る。
本日の歩行時間 7時間16分。
本日の歩数&距離 39399歩、24.7km。
7時47分に小倉駅を出発し広島駅に着くと、人身事故があってダイヤが乱れているという放送があった。今日は朝一番に用事を済ませて出発したため、スタートがいつもより遅かった。そのためこれ以上遅れるのはイヤだなと思っていたが、幸いなことに30分遅れの電車が丁度出発しようとしていたので、それに乗ることができ、定刻より少し遅れた程度で大野浦駅に着くことができた。9時半に出発する。
しばらく車道を歩き、車道が右にカーブをするところから直進して旧道が伸びているので、これを歩く。案内板が立っており、それによると「この道は平成3年度に石畳発掘調査を行い、ここには当時の街道づくりの苦心が偲ばれる石畳道があるので、現在保存のための仮舗装をしています」と書かれている。
この坂道を上っていき、再び舗装道路に出た先に、細い山道の旧道が伸びているのでこれを歩く。ここにも短い距離だが石畳の道がある。
二股に分かれているところがあり、これを右折すると右手に「浪の上に 藻塩焼くかと 見えつるは あまの小舟に たく火なりけり」と刻まれた今川貞世(了俊)の碑が立っている。
このあたりは草道と舗装された道が交互に現れる。広島岩国道路の下まできてこれに併行して進んでいく。左手には海が広がっており、その向こうには宮島が見える。
左手に「宮浜温泉 海望の源泉地」の石碑が立っていて、昭和40年に開設したと説明されている。
右手に「残念社」の標識があり、その先で右折して高架下を通って進む。このあたりには「残念さん」と書かれた案内板が数多く立っており、それに従って歩く。かなりの坂道でこのあたりを四十八坂と呼ぶようだ。
やがてY字路があり、ここには案内板が立っていない。迷ったがとりあえず右手へ上っていくと鉄塔が立っており、左下にダムが見える。この道はこの鉄塔のためにつけられた道のようだったので、引き返して左手の道を下っていく。右手に先ほど鉄塔のところから見たダムの堤防が見える。
そこからすぐ先の右手に「残念社」があった。慶応2年(1866)長州征伐の際、丹後宮津藩士依田伴蔵が軍師として長州陣営に赴く途中、ここ四十八坂で長州軍に幕府の戦闘員と間違われて狙撃されてしまった。伴蔵は「残念」の一言を残して死んでしまったので、村人はこれを悼み、「残念様」と呼んで「依田神社」としてその霊を祭っている。
その先に「吉田松陰腰かけ石」がある。江戸に護送される途中、この岩に腰を掛けてはるか故郷の大島を望みながら、父母の恩愛に感激をし、「この場こそ三県一望の地」であると、故郷にも別れを告げた場所だと説明されている。つい先日薩摩街道を歩いたとき、西郷さんの腰掛石があり座ってみたばかりだ。石は西郷さんの石よりこちらのほうがかなり大きかった。ここでも座ってみたが、昨夜来の雨でまだ濡れており、しっとりとした冷たさが伝わってきた。
三県一望の地ということだが、現在は木が繁っていて、眺望は開けていなかった。
ここから上へ登る道があり、「依田神社」があった。
街道に戻り下っていくと、「区民ふれあい道路」の標識があり、左折するように矢印がついていたが、ここは直進する。この「区民ふれあい道路」の標識は「区民ふれあい道路 西国街道」と二種類あるようだった。山陽道は「西国街道」と書かれたほうになるがちょっと間違いやすい。
八坂墓苑があり、ここを左折して進む。ここでも左折して高架下を通って進む道があるが直進して進み、その先に突き当たりがあるのでここを左折して、広島岩国道路の高架下を通って進む。前方に海が見え、その向こうに煙たなびく工場群が見える。左手に鳴川保育園があり、その先で何ヶ所か分岐する道があるが、基本的に直進する。
坂を上ると道が急に狭くなるが、その細い道を登っていくと、ここが「鳴川の石畳」だ。
ここに「史跡 西国街道」の案内板が立っている。それによると、この街道は毛利時代に次いで福島時代から漸次整備され、浅野時代に入って寛永10年(1633)幕府の巡見使派遣、同12年(1635)参勤交代制の確立が契機となって画期的に整備された。この坂を上った鉾ノ峠に一里塚があったと書かれている。
ここから完全に山の中に入っていく。かなり草が繁っているが、一応細い道が続いているのでこれに従って歩いていくと、左右に分岐するところにでる。直進する方角にもなんとなく道がありそうだったので、とりあえず直進してみたが、すぐに道がなくなったので、引き返してもう一度周囲を見回し、地図を見直してみた。どうも右へ下るようだと思って右折していくと、かなり急な下り坂になり、その先で右手下にJRの線路が見え、その上を金網のフェンスで仕切られた細い道が続いている。JRのトンネルの入口の真上を歩くようになっているので、これを通っていくと国道2号線に合流した。
この間、草が生い茂っている道を歩いたので、ズボンは膝から下がびしょ濡れだ。2号線に出て右折すると、すぐに玖波随道を通る。これを抜けると玖波の町だ。旧家らしい、歴史を感じさせる家が並んでいる。
右手に「高札場跡と角屋釣井」がある。この井戸は宿の飲料水として、また最近まで西山社行者堂の寒行の水垢離にも永く使用されてきた共同井戸の一つと説明されている。
JA玖波支店のあたりが本陣があったところということなので、ここでカウントする。
11時18分、玖波宿を通る。
廿日市宿から5時間16分、29935歩,17.8km。
そのすぐ先で右折しなければいけなかったのだが直進してしまい、途中で気がついて元に戻って右折し、JRのガードをくぐって進む。このあたりは道が分かりにくかった。お好み焼き屋があったので昼食にしたが、ここのご主人の話ではこのあたりは旧道がかなり失われてしまっているといわれていた。
その先向田橋を渡り、坂道を上っていくと広島岩国高速道路の下に出るので、これの下を併行して歩く。左手に玖波中学があり、その先から左折して車道に出、そこから右折して進む。天膳川に架かる黒川橋を渡り、「もりすぎ酒店」が左手にあるのでここを左折して進む。2号線にでる一つ手前の道で右折して進み、突き当たりを右折、すぐ先で左折して進む。
右手に「けごろもの碑」が立っている。 案内板には「けごろも」は難しい漢字で記されており、その字を打ち込んだが、うまく印刷されないというメッセージが出たのでひらがなで書いておきます。「けごろも」は毛皮で作った防寒用衣服のことで普段着という意味もあるようだ。芭蕉の百五十年忌の天保14年(1859)に近辺の俳句同好の人たちによってこの碑が立てられたと説明されていた。
突き当りを右折、広島岩国道路の下まで行って左折、御園出会橋を渡ってすぐに右折して高架下を通り、すぐに左折して高速道路に沿って進むと、右手に「橋姫神社」がある。これは年代、由来は不詳だが、セキ、ゼンソクまた交通などの守護神として広く尊崇されてきたという説明文が台座のところに刻まれていた。
舗装された坂道を上っていくと左手からきた道と合流する。その前方に「全面通行止」の標識が置いてあるがそのまま進み、右手にある階段を上っていく。階段の上り口に「無断立入り禁止 苗木が痛んで非常に困ります」という看板がかかっている。ここは事前の調査で大竹市役所生涯学習課の方に電話を入れて、地主さんに了解を取っていただいていたので気兼ねなく入ることができた。
畑の中を歩いていくと通れないように間仕切りがしてあるので、これをはずして中に入り、また元に戻しておく。3枚このような場所があった。
細い道が畑の中に続いているのでそれに従って上っていくと、猪除けのトタン板で仕切られている所に出るのでこれを跨いで畑の向こう側に出ると、そこに旧道が伸びていた。草道だがしっかりとした道が続いている。これが「苦の坂」だ。
やがて頂上に出ると案内板が立っている。
それによると大竹市を通っている西国街道では「鳴川の石畳」とこの「苦の坂」が往時の面影を残しており、安政の大獄で囚われの身になった吉田松陰は安政6年(1859)5月にこの峠を越えて江戸へ送られた。またここは幕府軍と長州軍が戦った長州役の戦跡で、幕府軍は長州軍に敗れたという説明がなされていた。
ここは竹林の中の道で歩いていて気持ちがいい。下りになって道に石が沢山散らばっている。石畳の跡かなと思ったが、左手の山を見ると岩があちこちに見えており、これが削られて落ちてきたのだろうと思った。
下ったところに「ちぎり池神社」がある。ここは厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸へ移るとき、苦の坂へ差し掛かった。幼子を背に負っていたので息もきれぎれとなり、ここまで大切に持っていた「ちぎり」(機織の縦糸を巻く道具)を坂の上から麓の池に投げ捨て、身を軽くして苦の坂を越えていった。後にその池を埋めて社殿を建てたので「ちぎり神社」であると説明されている。
左手高いところに「大元神社」がある。鉛筆で書かれた縁起があったが、字が薄れておりよく読めない。天正年間〈400年前)創建という文字を辛うじて読むことができたが、他は読み取ることはできなかった。
西国橋があり、街道はこれを渡って進むのだが、そのまま直進すると「木野川渡し場跡」がある。小瀬川(木野川)は洪水が起きるたびに川の流れを変えていた。このため安芸では洪水から村を守るために「福島堤防」と呼ばれる「まき石護岸」やその上流に「小林三角和久」と呼ばれる三角形の石垣の堤防を築いたと説明されていた。
西国橋まで戻ってこれを渡り、すぐに左折して川に沿って進む。その先、川とそれに沿った道路が左にカーブする曲がり角右手に「夢路にも かえらぬ関を 打ち越えて 今をかぎりと 渡る小瀬川」と刻まれた吉田松陰歌碑が立っている。安政6年(1859)5月28日籠で護送されながら小瀬川に差し掛かり、防長二州と最後の別れをされたときの歌で、同年10月27日に伝馬町の獄舎で処刑されたのである。山陽道の沿線各所にこうして吉田松陰に関する諸々のものが残されているが、囚われて処刑の場へ向かう旅の道中、それぞれの地で松蔭はどのような思いでいたのだろう。
舗装された坂道をしばらく上っていくと左手に「歴史の道 旧山陽道」の白い標柱が立っているので、そこから左へ伸びる草道を歩く。
少し上ると舗装された先ほどの道の延長上に合流する。しばらく坂を上るが人はもちろん、車も一台も通らない中、一人黙々と歩く。
峠のほぼ頂上あたりで右手に先ほどと同じ「歴史の道 山陽道」の標柱が立っているので、これを上っていく。
ここは先ほどの道より細く険しい。入口を入ってすぐ先で右折して進むと二股に分かれているのでこれを左に進む。
更にその先でもう一度二股に分かれている。
右手の道は若干上っており、左手は下っている。 旧道に入るときにほとんど頂上に来ていたので、ここは下りだろうと思って下っていく。倒木があったり草が生えていたりして歩きにくくはあるが、それでも道が続いているのでそれに従って下っていくと舗装されている道路に出た。10分ほどと距離は短かったが、急坂だったので汗をびっしょりかいてしまった。
やがて坂を下っていくと関戸宿に出てくる。右手に関戸公会堂があり、その前に関戸宿本陣跡の案内板が立っている。
ここでカウントする。
15時9分 関戸宿本陣跡を通る。
玖波宿から3時間51分、18509歩、11km。
その奥に客神社がある。ここも坂の上だ。
やがて2号線に合流し右折して進む。左手に岩国コンクリートの工場があるところで、右手の金網に「旧山陽道 岩国往来」という標識がかかっていた。みるとコンクリートの壁の隙間に一人の人間が辛うじて入ることができる空間が開いている。中を覗いてみると道が通っているので金網が邪魔をして入りにくかったがなんとか入ってみた。
やがて急な崖があり、そこにロープが張ってある。これをつかんで登れということだろうと思って、左手に地図を持ちながら右手一本でロープをつかんで登ろうとした。しかし崖はかなり急で一本の腕では登れない。仕方がないので地図をカバンに入れ、両手でロープを握って崖をよじ登った。登りながら本当に昔の人はこんな急な崖を登ったのだろうか、馬や駕籠はどうしたのだろうという疑問が湧いたが、ここが旧山陽道ということなのでとにかくよじ登った。
上に出ると「忠魂碑」があり、左手に階段があるのでこれを下っていった。
階段の途中で矢印がついていて右折するようになっていたので、それに従って下っていくと藤河郵便局の横に出た。ここで2号線に合流して歩き始めたが、しばらく行って多田一里塚を見ることを忘れていたので引き返す。
郵便局のすぐ前の広場に「多田一里塚跡」の標識が立っていた。
その横に「多田渡り場跡」への矢印がある標識が立っていたのでそれに従って歩いていったが、錦川まで出るのに意外と時間がかかった。既に夕暮れが迫ってきており、なんとか今日は最低限御庄駅まで行かなければアクセスがないのだ。もともと気が焦っているところに一里塚を見忘れて戻ってきており、焦りは更に倍加している。そこに思ったよりも渡り場まで時間がかかったので、余計に遠くに感じたのかもしれない。とにかく急いだ。 「多田渡り場跡」は川岸に小さな標示板が立っており、ガードレールの向こう側にコンクリートで作られた階段状のものがあるだけで、遺構は何も残っていなかった。
街道に戻り先を急ぐ。御庄駅のJRの時間は16時51分、その次は18時33分までないのだ。17時を過ぎると急速に暗くなるのでなんとか51分に間に合わせたいと急ぐ。
御庄大橋を渡ってすぐに左折、新幹線の手前で一旦左折して新幹線に沿って歩き、その先で高架下を通って反対側を歩く。蓮乗寺が右手にあり、住職さんがおられたので本陣跡の場所をお聞きした。自分で探すよりも聞いたほうが早いと思ったのだ。そうすると少し先の右手に木が立っている空き地があり、そこが本陣跡と親切に教えていただいた。
ここでカウントする。
16時46分 御庄宿を通る。
関戸宿から1時間25分、8626歩、4.6km。
ここには遺構もなく標識も出ていなかったので、聞かなければ分かりにくかっただろうと思った。
その先右手に多賀神社がある。ここの鳥居には明和5年(1768)と刻まれていた。
16時46分に御庄駅に着く。なんとか間に合った。ここから岩国まで出て宿に入る。
本日の歩行時間 7時間16分。
本日の歩数&距離 39399歩、24.7km。
旅の地図
記録
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2008年10月13日(月)
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2008年10月14日(火)
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2008年10月15日(水)
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2008年10月16日(木)
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2008年10月17日(金)
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2008年10月18日(土)
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2008年10月19日(日)
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2008年10月20日(月)
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2008年11月10日(月)
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2008年11月11日(火)
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2008年11月12日(水)
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2008年12月03日(水)
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2008年12月04日(木)
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2008年12月10日(水)
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2008年12月11日(木)
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2008年12月12日(金)
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2008年12月16日(火)
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2008年12月20日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん