山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年10月19日(日)

岡山~板倉~JR清音

                                    晴れ

 7時に宿を出て昨日歩いた奉還町のアーケードのところからスタートする。
 その先左手に旧家が五軒並んで建っている。ここを見ていると昔にタイムスリップしたようだ。
 旧家五軒
 右手に「国神社」がある。ここの階段は元禄15年(1702)に作られたもので、岡山市で最も由緒ある石段と説明されている。昭和51年~52年にかけて両側各々50cm程拡幅したとなっているが、確かに両側にその跡が残っている。かなり急な階段を登っていくと前に随神門があり、その上に更に階段が続いていた。階段は三箇所に分かれていて、最初が93段、二番目が35段、最後が30段の合計158段あり、かなりきつかった。ただ上からの眺望はなかなかよかった。
 国神社
  「常福寺」が右手にあり、その先に「延命地蔵」があった。文政9年(1826)の文字が刻まれている。お年寄りが二人お参りをされていたのでお聞きすると、ここは遠くからも参拝者がくるということだった。
延命地蔵尊
 右折して180号線に合流し、その先の厳井富山の信号から坂を上っていくと、左手に階段があり、その上に碑が立っているようだったのでいってみた。町内の方がおられ、今日はこの場所の掃除の日ということで掃除をされていた。旧道題目石ここには以前万成公民館が立っていたそうだが、今はなくなっている。ただ、大きな題目石がいくつも立っていて、その中の一つが備前藩主の池田侯が立てられたということだ。これらは皆このあたりにあったものだが、車道を造る時に、下から上へ上げてここに集めたということを教えていただいた。
 ここには細い道が通っており、これまで私が歩いてきた道は旧国道で、この上の細い道が昔の山陽道だと教えていただいたので、これを歩いていく。
  「北向八幡宮」がある。たしかに北を向いて立っており、横に大正15年の「皇太子殿下行啓記念櫻樹」の碑が立っていて、境内には櫻が植えられていた。
北向神社
 八幡宮から街道へ出た右手に「八九間空で雨降る柳かな」という芭蕉の句碑が立っていた。
芭蕉句碑
 その先に「矢坂本陣」という標柱が立っている。ここは間宿だったようだ。標柱が立っている家は新しい家だったが、そのすぐ横に古い立派な家が立っていた。
 矢坂本陣
 その先で笹瀬川を渡って180号線を歩いていくと、左手に「吉備津神社参道道標」があったが、ここから歩くことはせず、その先の吉備津彦神社の信号から左折して進むと、「吉備津彦神社」がある。 ここには「安政の大石燈籠」が左右に立っている。これが大きい。これは六段造り、高さは11m、笠石は八畳敷の広さがあり、日本一といわれている。文政13年と安政4年に地元有志が発起し、広く寄進を募った結果、1670余名が寄付し、総額5676両(約1億3千万余円)にもなったと説明されている。それだけ地元の人に深く信仰されていたということなのだろう。大石戸売ろう
 社殿は荘厳で歴史を感じさせる造りとなっている。最も古い建物は元禄10年(1697)に建立されているそうだ。
吉備津彦神社
 御神木となる平安杉は樹齢約1200年といわれており、先日延命治療を施したと説明されている。今日は丁度秋季例大祭が行われる日で11時から流鏑馬もあるようだったが、まだ時間があるので先へ進む。ここの狛犬も備前焼だ。(この頃には一応備前焼は見分けられる様になりました。)
 ご神木
 街道に戻ると左手に一宮村道路元票が立っていた。
 180号線を進み、突き当りを左折して進む。その先で左斜めへ進む180号線と分かれる場所の左手に「従是備前国」という国境石が立っていたが、うっかり見過ごして直進し「真金一里塚」まで行ってしまった。見落としに気がついて分岐点まで戻り確認をしたが、車の流れが途切れないので道路を渡ることができず、道路のこちら側から撮影する。
備前国境石
 「真金一里塚」は山陽道を挟んで塚を二つ築き、北塚に松、南塚に榎が植えられていたそうで、現在の木は後世のもの。昭和3年に国の史跡に指定されたという説明がされていた。
真金一里塚
 この先で「吉備津神社」へ続く松並木があるので、左折しJRの踏切を越えて神社へ向かう。
松並木
 境内の入口に「矢置石」がある。この近くに温羅という凶暴な鬼神が住んでいて住人を苦しめていた。大吉備津彦命は「吉備の中山」に陣取り、鬼神と互いに弓矢を射ると両方の矢が空中で衝突して落ちた。この戦いのとき、大吉備津彦命はその矢をこの岩の上に置いたので矢置石と呼ばれていると説明されている。
矢置石
 ここは第10代崇神天皇のころ、四道将軍として吉備国に派遣された吉備津彦命を祭神として、古来吉備地方の総氏神として崇敬されている。現在の本殿・拝殿は応永32年(1425)に完成、本殿は比翼入母屋造または吉備津造と呼ばれる、独創的大建築で、拝殿とともに国宝に指定されている。
吉備津神社本殿
 また、延文2年(1357)再建の南随神門と天文12年(1543)再建の北随神門はともに国の重要文化財に指定されている。
南随神門
 ここからJR吉備津駅へ行く。ここに「明治天皇御駐車跡」碑が立っていた。
 天皇駐車跡
 うまい具合に電車がまもなく来たので、これに乗って次の駅、備中高松駅へ行く。街道から離れるが豊臣秀吉の高松城水攻めの場所だ。
 「舟橋」がある。高松城は平城で三方を堀に囲まれていたが、この南手口は具足の武士がようやくすれ違うことができるほどの細い道があった。開戦直前、ここに八反堀を掘って外濠とした。そこに舟を並べて舟橋とし、城内より進攻の際はこれを利用し、退くときには舟を撤去できる仕組みにしていたと説明されている。
船橋
 「高松城」は天正10年(1582)の中国役の主戦場になった城跡で有名だ。城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず、土壇だけで築城された「土城」だ。城の周辺には沼沢があり、これが天然の外堀をなしていたようだ。城ということで石垣をイメージしていたので、何もない平地だったのがちょっと意外な気がした。高松城跡公園記念館があり、ここで詳しく説明をしていただいた。ここを攻撃した羽柴秀吉は高松城の周囲2.6kmに僅か12日間で堤防を築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ、水攻めにした。記念館には足守川氾濫時の写真があり、当時の高松城の姿が想像された。篭城一ヶ月を経て、城兵が飢餓に陥ったまさにその時、本能寺の変が起きたので、秀吉は城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、高松城を落城させたのだ。この水攻めという策は黒田官兵衛の進言によるものということだが、有能な部下の進言を採用し、実行に移してこれを成功させ、しかも丁度そのときに主君信長が暗殺されるという事態に直面する、秀吉は天下取りの運命を持っていたのだろうと思った。
高松城
 城跡から道を隔てたところに「高松城主清水宗治 自刃之跡」碑とお墓が立っていた。自らの死で城兵の命を救うという行動は、当時と現在とでは死生観が大きく異なるとは思うものの中々できることではないと思う。
 清水墓
 城跡から少し離れたところに「蛙ガ鼻築堤跡」が残っているということだったので行って見た。基底部幅が24m、高さ8m、上幅12mの大堰堤だったそうだが、今では僅かにその面影を残すのみである。
蛙が鼻
 日本三大稲荷のひとつといわれている最上稲荷の大きな鳥居があり、行ってみようかと迷ったが、結局行かなかった。
 駅の近くの踏切までくると、警報機が鳴っているので、大急ぎでこれを渡り、駅に向かって走る。30分に一本しか電車がないので、これを逃すとしばらくすることもなく、駅で次の電車を待たなければならないのだ。 なんとか間に合って飛び乗ったので往復ともに極めて効率的で時間のロスがなかった。ヤレヤレと思っているときにひょっと妻からよく「そんなに効率、効率といわないで、もっとゆっくりすればいいのに」といわれていたことを思い出した。このせっかちな性格は一生直りそうにない。
 松並木の入口の街道まで戻って、GPSをセットしなおして歩き始める。従って高松城周辺を歩いた記録は残っておらず、今日歩いた距離にも算入されていません。
 西川に架かる板倉大橋という名前は大きいが小さな橋を渡ると板倉宿に入る。ここの鯉山コミュニティハウスが本陣跡だ。
 板倉本陣
 ここでカウントする。
 12時10分、板倉宿を通る。
 岡山宿から3時間19分、18596歩、10.3km。

 昼になったので食事をしようと思ったが店がない。ここから先の地図を見てもありそうにない。どこかで何か食べ物を調達しなければと思っていると人がおられたので、食堂かコンビニがないかお聞きすると、街道沿いにはこの先何もないが、板倉の信号から右手に行ったところにうどん屋があると教えていただいたので行き、無事昼食を食べることができた。ここから先はしばらく食堂もコンビニもなかったのでここで昼食を食べて正解だった。しばらく直線の道が続く。やがて足守川に突き当ったところで左折して堤防を歩く。その先にある矢部橋を渡るのが山陽道なのだが、この辺りに惣爪塔跡があるはずと思い、通りかかった方にお尋ねすると、橋を渡らず、直進したところに少し小高くなっている場所があり、そこが明治天皇野立所だと教えていただいた。行ってみると「明治天皇惣爪御野立所」の碑が立っていた。
天皇野立
 この碑のすぐ左側に「史蹟 惣爪塔跡」の碑が立っていた。古来「石の釜」と呼ばれている、塔の中心柱の礎石で、奈良時代前期、この礎石の上に建っていた塔のほか、金堂、講堂などの建物が並び、一大伽藍が営まれていたことが想定されていると説明されていた。
惣爪塔跡 
 元に戻って橋を渡り、右折、その先で左折して進む。ちょうど川の向こう側の旧道の延長線上を進むことになる。
 右手に「鯉喰神社」がある。吉備津彦命が村人達を苦しめていた温羅と戦った時、天より声がして命がそれに従うと、遂に温羅は矢尽き、刀折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。すぐに命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの地で捕食した。それを祀るために村人達はこの地に鯉喰神社を建てたと説明されている。この話は桃太郎伝説のもとになったという。ここの狛犬も備前焼だった。
 鯉喰神社
 この先、高速道路のガードをくぐって進むと、右手に「造山古墳」が見えてきたので行ってみた。ところがそこに先ほど明治天皇惣爪野立所の場所を教えていただいた方がおられたので、一緒に古墳に登ってみる。この古墳は全長360mの前方後円墳で5世紀前半頃に築造され、全国でも第4位の規模の古墳で、自由に立ち入りできる古墳としては全国第1位という事だ。その規模から被葬者は畿内政権と肩を並べるほど力を持っていた、吉備の大王の墓と想定されていると説明されていた。
 造山古墳
 ご一緒させていただいたこの方は近所の方で、散歩中ということだったが、このあたりのことにとても詳しかった。このあたりでよく耳にする温羅に関しても、言い伝えでは悪人となっているが、実際はそうではなく、温羅は百済と新羅の戦いで敗れた朝鮮の王子がここまで逃げ延びてきて、この地に住み着いた。温羅はとても素晴らしい人物で周辺の人々に慕われていたが、それを快しとしない中央政府が温羅を滅ぼしてしまい、温羅を悪人として作り上げてしまった、桃太郎伝説もその延長線上にあるという話など、とても興味深い話をしていただいた。またここから先もしばらく道案内をしていただくなどとてもお世話になった。
  「備中国分尼寺跡」がある。ここは奈良時代に聖武天皇の発願により造営された備中国の尼寺の跡で寺域は東西108m、南北216mあり、築地土塀で囲まれた境内には南から北へ南門・中門・金堂・講堂などの建物が一直線上に置かれた伽藍配置を持っていたと説明されているが、今では何も残っておらず、林になっている。
国分尼寺
 その近くに「こうもり塚古墳」がある。この古墳は6世紀後半に自然の丘陵を利用して作られた全長約100mの前方後円墳で、内部の石室は巨石を用いた横穴式石室だ。この古墳は大きな墳丘や内部の石室、石棺に見られるように、多くの労働力を集めることができた支配者層の墳墓と見られている。ここの中は真っ暗なので、お世話をされておられる方が明かりを掲げて内部が見えるようにしてくれていた。
 こうもり塚
 「備中国分寺」がある。ここは国分尼寺とともに天平13年(741)に聖武天皇の勅願によって建てられた官寺で、中世には廃寺になったが、江戸時代中期に日照山国分寺として再興された。現存する伽藍は全て再興後に建てられたと説明されていた。ここの五重塔は江戸時代後期、文政4年(1821)から弘化年中まで二十数年かけて建立されたもので総高約34mあり、遠くからもよく見えて、威風堂々とした雰囲気は見事だ。この塔の写真を撮るために秋になるとカメラマンが数多く押しかけて来るそうだ。
 国分寺五重塔
 このあたりは「宿」という地名で旧山陽道の宿場町として栄え、街道沿いには今も当時の名残をとどめる屋号の残る家があり、町並みも当時の雰囲気を残している場所が多い。
 宿の町並み
 ここまで一緒に歩いて色々とご案内していただいた方と270号線と旧道が分岐するところでお別れする。とても親切に、詳しくご案内をしていただいたこの方はそこから自宅まで7kmほどあるそうで、随分遠くまでご一緒していただきありがたかった。初めて訪れた土地で、その土地の方と知り合うという旅の醍醐味を味あわせていただいたその方に感謝である。 
 その先左手に「角力山古墳」がある。この古墳は古墳時代中期五世紀頃に築かれた全国でも珍しい方型古墳で、かって地域の支配者であった豪族の墓陵といわれている。古くから古墳の西側に土俵を設け、氏神・御崎神社の秋祭りの最終日に奉納角力が行われ、戦前まで続いていたことから角力取山といわれるようになったと説明されている。
角力山古墳
 この横に高さ20m、樹齢400年といわれる黒松が立っていた。昭和5、6年ごろまでは4本の巨木があったが今では一本が残るのみという。
 その横に「ギリギリ山古墳」がある。これは本村西郡下山田上に築かれていたものを、昭和54年県道建設のとき、発掘してここに復元した六世紀中葉の円墳で七世紀中葉には二人以上が追葬されていたと説明されている。
 ギリギリ山古墳
 左手に「旧山陽道一里塚」というまだ新しい石碑が立っていた。ここには大きな松が立っていたが、昭和30年ごろに枯れたということだ。
 一里塚新碑
  ここから先で270号線に合流、一旦別れて旧道を歩いた後、再び270号線に合流する。左手に清音小学校があり、その少し先、右手に総社市指定文化財に指定されている「藤原為貞宝篋印塔」が立っている。
藤原宝印塔
 ここから川に突き当たり、川土手を歩くようになるのだが、いつものように歩道がなく、しかも車の交通量が多い。見ると土手を上る横に並行して道があったので、そちらを歩いたのだが、途中で行き止まりになっており、仕方がないので左折、右折を繰り返して16時40分、JR清音駅に到着。ここからJRで倉敷駅まで出て、今日の宿に入る。

 本日の歩行時間  9時間40分。
 本日の歩数&距離 48340歩、29km(高松城見学距離は除外)。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん