山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年10月18日(土)

伊部~藤井~岡山

                                    晴れ

 7時30分にホテルを出発する。今日も雲ひとつない快晴だ。今回の旅は最後まで天候に恵まれた旅だった。
 昨日に続いて今日も祭りがあるようで、窯元が準備を始めていた。
 右手に「大内神社」がある。ここは元禄16年(1703)以前の創建で、本殿はその棟札から元禄16年に建築されたことが分かると説明されている。
 大内神社
 ここに「香登一里塚」がある。山陽道の南北に一対造られたもので、北塚は神社の境内に周囲を石垣に囲まれて往時の姿を残している。市内の一里塚で当時の姿を残しているのはこの北塚だけだそうだ。
 香登一里塚
 街道の南側にあった南塚は明治20年(1887)頃、塚石を使用して「用心井戸」にしてしまったそうだ。この井戸は今でも残っているが一里塚の面影は全く残っていなかった。
用心井戸
 その先、右手に古い歴史を感じさせる建物があり、「鷹取醤油」という看板が出ている。
 鷹取醤油1
 写真を撮っているとご主人が出てこられたので、お話をお聞きした。二軒続きの建物だが、東側の建物が本家で西側の建物が新屋(新しく建てたという意味)ということで、新屋は本家より屋根が少しだけ低くなっている。鷹取醤油又、奥行きも本家より短く造られているそうで、それは本家に気兼ねをしてのことだったということだ。以前は本家で酒を造っていたのだが今はやめており、現在は新家で醤油を作っているということだった。
 話をしているうちに、この近くを車で案内してあげようといわれたが、歩いていることを告げると、それじゃ又この場所に戻ってくればいいということで、車に乗せていただいた。「明治天皇香登駐輦」碑が民家の庭に立っていた。これは教えていただかなければ見逃していたかもしれない。
明治天皇碑鷹取
 また以前醤油を造っていた実家を案内していただいたり、「かんぬき」といわれる枡形のように左折しすぐ右折する道、更には石長姫神社等を案内していただいた。この方は社長をされていたが、今は息子さんに譲られているということだった。別れ際にもう一枚写真を撮らせていただいて、改めて街道を歩き始める。
鷹取醤油社長
 「石長姫神社」はお祭りがあるということで、ご近所の方が出て、注連縄を作ったり、掃除をされていた。
石長姫神社
 右手に天保10年(1839)の常夜燈が立っている。「金比羅大権現 瑜伽大権現」と刻まれている。
 天保10年常夜燈
 旧道はその先で左へカーブを切って新幹線の下を通り、2号線に合流するが、ここで街道を離れて「備前長船刀剣博物館」へ行ってみた。2号線を横切ったところに「靱負百神社」があり、「天王社刀剣の森」という案内板が立っている。それによるとこの森の松は足利尊氏ゆかりの松で、その昔(1331)新田義貞に敗れ九州に落ちる途中、この地で再起を祈願した尊氏が後に願いが叶ったお礼に、九州日向から持ち帰り寄進した松の子孫とされ、昔から日向松といわれている。 
 天王社刀剣の森
 「備前おさふね刀剣の里」と名づけられた入口を入って見学する。刀を作る行程を写したビデオが流れている。「折れず、曲がらず、よく切れて、美しい」日本刀を表すこの言葉が耳に残った。刀は4kgの玉鋼から不純物等を取り除き、良質の物だけ1kgから作られると説明されている。館内を見て回ったが、武器というより芸術品という趣がある。あまりの見事さに写真を撮りたいと思ったが、撮影は禁止されている。階段のところに瀬戸内刀工会員の方の作品が並べられており、そこには撮影禁止の札がなかったので、事務室におられた女性の方に撮影していいか聞いてみた。そうすると館長と相談してみますといわれて、外出していた館長を呼び出して聞いてくれた。館長に一生懸命に(?)お願いをすると、丁度博物館の隣の店に、展示されている作品の作者がおられるので、その方の許可が得られればいいということになり、その方を紹介していただいた。お願いをすると許可をしていただいたので、早速「長船住盛家」という銘のあるこの刀を撮影をした。この短刀の鞘には闇蒔絵といわれる技法で鞘と同じ色で小さくねずみの絵が描かれていると教えていただいたので、目を凝らしてみると、確かに彫られていることがわかった。残念ながら写真には写っていませんが、刀工青木先生のご配慮に感謝である。
刀剣
 思いがけない収穫があったので、意気揚々と街道に戻る。2号線に合流したすぐのところに、おさふねサービスエリアがあり、そこに「古跡 備前長船造剣の跡」の案内板が立っていた。
 右手に吉井川の大きな流れを見ながら歩き、備前大橋の少し手前で2号線と別れて直進する道を歩く。ただここを渡るには信号も横断歩道もないため、車の流れが途切れたときを見計らって駆け足で横断する。この道の右手に大きな「明治天皇巡幸記念之碑」が立っていた。
吉井川明治天皇碑
 備前大橋を渡ったが、歩道に備前焼が使われていた。伊部を歩いたことで備前焼を少しは見分けられるようになったようだ。(あくまでもそんな気がする・・・・程度です)
備前焼橋
 橋を渡って左折し、一日市の信号から2号線と別れて右手旧道に入るが、ここも横断歩道がない。このような道を歩く人間がいるということを考慮に入れていないようだ。それとも別の道があったのだろうか。
 左手に旧山陽道の標識が立っている。この形の標識はその後何度か見かけた。こうした標識が立っていると道を間違っていないことが分かり安心する。
 一里塚標柱
 その先右手に「一日市宿場跡」の標柱が立っている。ここは正式の宿場ではなかったようだが、吉井川の横にあるので、川を渡る人で賑わったのだろうと思った。
 一日市宿場跡
 その先右手に御休小学校がある。なんと読むのだろう?まさか「オヤスミ小学校」ではないだろうと思いながら歩いていると、ご近所の方らしい男性がおられたのでお聞きすると、「ミヤス小学校」と読むということだった。明治天皇がここで休憩を取られたことからこの名前が付いたそうで、以前はこのあたりを御休村(ミヤスムラ)と呼んでいたそうだ。その方が小学生のころは学校に天皇が座られた椅子が残っていたといわれていた。
 ここから先ものどかな風景が続く。「し~ずかな、しずかな里の秋♪」という歌が自然に口をついて出てくる。特にこれといってみるものもなく、ノンビリと歩いていると、道路に埋めてある消火栓の蓋に桃太郎が描かれていることに気が付いた。岡山は桃太郎伝説の地だ。岡山市水道局も味なことをされるものだと思った。
 消火栓蓋
 250号線を楢原歩道橋で横切って進み、楢原の信号を通り、砂川に架かる船橋を渡って丸山を廻りこんで進む。しばらく先で250号線に合流、沼の信号の手前の右斜めに進む旧道に入り、JRの踏切を渡って左折して進む。更にその先で新幹線の高架をくぐって新幹線の北側に出てこれに並行して歩く。
 左手にJR上道駅を見ながら進むと鉄(クロガネ)集落になり、そこに「安国寺経塔」が立っている。備前の国安国寺は明応年間(1492)頃戦火で焼失した。江戸時代頃(1600頃)までは寺は荒廃していたが、眼室宗安禅師が昼夜無休で経典一万部に近い読経の大事業を遂げ、寺の再建を記念して経塔を建立したと説明されている。
安国寺経塔 
 「総社八幡宮」があり、文化9年(1812)の常夜燈が立っており、天保4年(1833)の鳥居がある。
総社八幡
 その先で藤井宿に入る。ここは岡山城下町に最も近い宿駅がおかれたところで、今でも当時の町並みの面影が残っている。本陣(安井家)がおかれ大変賑わったため、本陣一つでは不便になり、もう一つ創設されて従来の本陣を西本陣、新しくできた本陣を東本陣(西崎家)と呼ぶようになったと説明されている。ところが安井という家が複数軒ある。一族なのだろうが、どれも立派な家なので、どこが本陣跡なのか分からない。丁度人が通りかかったのでお聞きすると、宿場の西の端右側、素戔鳴神社の少し手前にあった。
 藤井本陣
  ここでカウントする。
  13時29分、藤井宿本陣跡を通る。
  片上宿から7時間6分、34457歩、19.7km。

 素戔鳴神社の前に「新往来」の案内板が立っている。それによると幕末、備前藩では長州征伐に赴く諸藩の藩士が岡山城下を通過することを回避するため、一時的に山陽道の岡山城下の通過をやめ、その北方を迂回させた。藩は藤井宿から北に山陽道を付け替え、宿奥、宿矢津、、牟佐、旭川渡りの新往来を建設し、元治元年(1864)7月25日より諸大名をはじめ、全ての山陽道通行者に新往来を通行させるようにしたと説明されていた。
 イザナギ神社
 新幹線と山陽本線を越えると一直線に道が伸びている。途中で一旦右へ曲がっているが、そこから又一直線だ。特に見るべきものもなく、淡々と歩く。この後百聞川に架かる尾島橋を渡るのだが、その前で一旦左折し、突き当たった堤防を右折して歩くようになっている。しかしここで一つ角を早く左折したようだ。更に橋を渡って左折し、その後右折するのだが、ここでも最初に右斜めに下る道があり、この道を歩いてしまったようだ。どうも緊張感が薄らいでいるようだ。気をつけよう。
 ここから又直線に近い道を進んでいくと、右手に「惣門跡」の案内板が立っている。
 それによると「ここは天正元年(1573)宇喜田直家が岡山城下町の入口として惣門番所を設けた跡です。前の道はその時引き入れた西国往来で歴史の古い通りです」と説明されている。
  やがて旭川に架かる小橋、中橋、京橋という三本の橋を渡る。 京橋を渡り終えた左側に「道路元票」があった。
岡山市道路原票
  その先、電車通りの二つ先の通りを右折して進む。アーケード街の中、左手にある吉田書店のあたりが岡山宿の本陣があったところということだ。
岡山本陣
 ここでカウントする。
15時49分、岡山宿を通る。
 藤井宿から2時間20分、14311歩、9.9km。

  直進し、アーケードを抜けたところで左折して進み、大通りの一つ先の角から右折して進むと右手に「金刀比羅宮」がある。
 ここは岡山の入口にあたり、昔は博労町といっていたが、金刀比羅宮の崇敬広まるとともに、丸亀町と改めて昭和に至り、近年町名整理で野田屋町となった。創建は天正年間で、寛政年間に類焼、又昭和20年にも戦火で炎上したため、昭和58年に再建、復興したと説明されている。
金刀毘羅宮
 JRの線路をガードで横切って進む。
 今日の宿は西口にあるのでここから街道と分かれて、16時35分に旅館に入る。
 今日の岡山は「備前焼祭り」等の影響で宿が中々取れずに大分探したが、なんとか確保できてホッとした。
 今日も一日快晴で暑い一日だったが、さすがに真夏の暑さとは違うので疲れが違う。

 本日の歩行時間  9時間5分
 本日の歩数&距離 47158歩、31.5km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん