2008年10月17日(金)
JR有年~有年峠~三石~片上~伊部
晴れ
7時丁度に有年駅に到着。今日もいい天気だ。有年峠を越えるに際し、雨だといやだと思っていたが、好天に恵まれてホッとする。駅前から昨日歩いた旧道に入るが、すぐに2号線に合流する。朝早いのだが、車の通行量は多い。ただ、ここは歩道があるので助かる。
左手小川をはさんだ向こう側に「池魚塚」があるので、橋を渡って引き返してみた。 ここは道路改修資金のために売られた池の魚への感謝と供養の塚で、天保7年(1836)の年号が見えると説明されている。
矢野川を渡り、その先で千種川に架かる有年橋を渡るとすぐに左折して旧道に入る。ここを歩いていると近くに中学校があるようで学生に出会うのだが、挨拶をしてくれる生徒が多く、朝から気持ちがいい。
東有年の集落の中を歩くが、どこか左側に入ったところに明治天皇碑と本陣跡があるはずと探しながら歩く。三つ目の細道、前方に中学校の講堂のような建物が見えるところを入っていくと、家の裏の畑に「明治天皇駐輦記念碑」の石碑と「有年宿本陣跡(柳原家宅跡)」の標柱が立っていた。なぜか青いシートが掛けられていた。
ここでカウントする。
7時39分、有年宿本陣跡を通る。
片島宿から3時間36分、22748歩、14km。
街道に戻って進むと右手に空き地があり、そこに「有年宿番所跡(旧松下家宅)」の標柱が立っている。寛永年間(1624~44)頃、東有年に有年宿が移され、赤穂藩役人は出張の際、ここに宿泊し前庭を白洲にして番所として利用した。周囲の人たちは御番所と呼んだと説明されている。
ここから県道に出たところで前方に「東有年沖田遺蹟」が見えたので行ってみる。ここは公園になっており、弥生時代後期、竪穴住居7棟と古墳時代後期の竪穴住居22棟および高床倉庫1棟が密集して検出されたと説明されており、道路を挟んで南側が「弥生時代ムラ」北側が「古墳遺蹟ムラ」という二つのゾーンに分かれて、当時のムラの様子を体験できるようにしていた。ただ、朝が早いので、まだ開館はしていなかった。
この後県道を2号線と勘違いしてしまったことが原因で道を間違えしばらくウロウロしてしまった。今日は有年峠越えがあるので時間のロスはできる限りしたくなかったのだが、早くもここでやってしまった。それでもなんとか2号線の東有年の信号までたどり着くことができた。信号を渡ってすぐ右手に「八幡神社」がある。ここの鳥居は延享元年((1744)に建立されている古い鳥居だ。ここから登っていくと「木製の灯台」が立っていた。ここまでくると視界が開けて見晴らしがよかった。
片山集落の右手に立派な長屋門の「有年家」がある。有年家はこの地で大庄屋を勤めた家柄で、市内に残る江戸時代の長屋門は赤穂城内にある「大石良雄宅跡長屋門」と「近藤源八宅跡長屋門」、それにこの「有年家長屋門」のみであり、主家と一体になって赤穂藩の庄屋の屋敷構えを残す貴重な文化財であると説明されている。
その先、道路を挟んで右手に老人施設、左手に幼稚園が立っているところを進むと、「西有年宮東遺蹟」の標柱が立っている。ここは平安時代(1200年前)末から鎌倉時代(約800年前)の掘立柱建物跡が多数見つかり、一緒に壷や皿などが出土したと説明されていた。
長谷川を渡って進むと右手に「大避神社」と「須賀神社」という二つの神社が並んで立っている。同じ境内にこうして二つの神社が並んで立っているのは珍しいので、近くにおられた方にお聞きすると、「大避神社」は昭和11年に建てられた新しい神社で、「須賀神社」はずっと昔からあると教えていただいた。
ここにおられた三人の方々はご近所の皆さんで、しばらくお話をさせていただいた。これから有年峠を登るというと、「今は道がなくなっていて登ることができない、イノシシが多いし、それに9月、10月はマムシが最も危険な時期なので、迂回することになるが2号線を歩いたほうがいい、先日もご近所の方がマムシに咬まれたばかりだ」と何度も云われ、履いている靴を見て、そんな靴だとマムシの歯は鋭いから咬み破られてしまうと散々脅かされてしまった。それでも「一応行ける所までいって、だめだったら引き返してきます」と言うと、一人の方が「じゅあ、もし何かあったら家に電話をください。主人にすぐに助けに行ってもらうから」といって電話番号を教えていただいた。電話番号を控えながらひょっと思いついて、「携帯は圏外ではないのですか?」と聞くと、「あら、そうだ、あそこは圏外だわ、でもまぁ、とにかく電波が通じるところまで出てきて、それから電話をしてちょうだい」と言われてしまった。それでもこういったご親切は本当にありがたく心に沁みる。「なにかあればご連絡させていただきます。もし連絡がなければ無事越えたと思ってください」と言って別れる。
2号線を横断した先、左手に「西有年向山の五輪塔」が立っている。
これは花崗岩でできており、鎌倉時代から南北朝時代に建立されたと考えられているそうだ。
その先、右手に「西有年宝篋印塔」が立っている。
これは花崗岩製石造りで鎌倉時代末期かまたは南北朝時代初期(約600年前)に作られた。もとは近くの街道脇にあったが、平成5年(1993)西有年圃場整備の際、取り払われ、平成7年(1995)現在地に移されたと説明されている。
「一里塚」の標柱が立っている。有年横尾からここまでが一里で、現在ではこの塚跡を塚の元と呼んでいると説明されている。
上組橋を渡ると右手に「立場跡(三村家)」が立っている。宿場と宿場の間の休憩所となっており、駕籠が縦に並ぶように、軒下を深く、縁側を細くしていると説明されている。
ここを見ていると、通りかかったおじさんが「峠を越えるつもりか」と声をかけてきた。「そのつもりです」と答えると、「今は誰も通らないので道がなくなっており、歩くことはできないよ。それより2号線を歩いたほうがいい。向うに見える車が通っている道が2号線だよ」と教えてくれた。この方は峠の登り口に住んでおられるそうで、「年に何人か峠を登る人を見かけるが、そのほとんどが冬場か春先で、マムシが危ないこんな時期に登る人はめったにいない。それに結局道が分からなくて引き返してくる人もいるよ」と言われる。「だれか草を切ってくれるような人はおられないのですかね」と聞くと、「そんな奇特な人はいないね」と一蹴されてしまった。ここでも「一応行ける所までいって、だめなら引き返してきます」と同じ返事をすると「まぁ、どうしてもいくというなら,それはあんたの自由だがね」というおじさんとその方の家の前で別れる。確かに峠の入口の家だった。それにしてもこれだけ同じことを何度も繰り返し言われると、有年峠は「藪がビッシリ密生して足の踏み入れ場もないようになっており、いたるところにマムシがいて、こちらを伺っている。時としてイノシシが突進してくるかもしれない」というイメージが私の頭の中に完全に出来上がっていた。さすがにあまりいい気がしないが、「まぁ、なんとかなるだろう、だめだったら引き返そう」と思って進む。
峠に差し掛かるとゲートがあり閉まっている。ただこれは鍵がかかっていないので、簡単に開けることができる。
中に入り、これまでと同じようにかんぬきを中から閉めておく。時間は9時56分だ。左手に坂折池が見える。道は舗装こそされていないが、きれいに整備されており歩きやすい。車も人も通らないので国道を歩くよりはるかに快適だ。つい鼻歌が出てくる。この快適な道はしばらく続き、左手先のほうに森林組合かなにかの建物がある場所まではこの状態の道が続いている。
ここで道は二手に分かれており、左手に行くとその建物の方へ行くようなので、そのまま直進する。ゲートからここまで17分かかっている。ここで手袋を出したり、杖兼マムシと戦う際の武器となる木の枝を捜してきて、これからの道に備える。道は草道になるが、まだきれいな道だ。これを18分ほど行くといよいよ道がなくなる。ただなんとなく道の痕跡のようなものが残っているところが所々あるので、これを伝っていくが、すぐにそれもなくなってくる。
完全な森の中だ。目印がないので自分がどの方向に進んでいるのかわからない。
このときGPSが威力を発揮した。日ごろは自分が歩いた道を記憶させ、HPの地図を作成するための道具として持っているだけで、これを見ることはないのだが、こうして目標物が何もない森の中に入ったことで初めてこれを使ってみた。そうすると画面の上のほうにゴルフ場が表示されている。これで一つ目標物ができた。これは助かった。少し進んでは画面をチェックする。
森の中は当初想像していた藪が密生していて、足の踏み入れ場もないということはなく、木が茂っているので下草があまり生えていない。これは歩く上で非常に助かった。もっとも倒木が数多くあり、木の枝や蔓が行く手を邪魔しているし、イノシシがいたるところを掘り返していたりして真っ直ぐにはなかなか歩くことはできなかった。
そうしているうちに森の中で歩きやすそうな場所を選んで歩いていると、どうしてもゴルフ場の方向へ進んでしまうことがわかったので、注意をしながら進む方向を微調整して進む。ただ、幸いにしてイノシシにもマムシにも出会うことはなかった。こうして歩いていると引き返すなどという気持ちは全く消えてしまっており、ただひたすら前へ進んだ。やがて道が下り坂になるところに来た。峠を越えたのだ。道がなくなって23分が経過している。
ここからは少し道らしいものが付いているので、これを歩いているとゴルフボールが落ちていた。峠の上のほうにゴルフ場があり、そこから転がって落ちてきたのだろうが、それにしても随分距離があるようなので、どのようにしてここまでころがってきたのだろうか。
やがて道は益々しっかりとしたものになってきた。 もう大丈夫だと思いながら進んでいくと、金網で柵をしている所に出る。道の両側にも柵がめぐらされており、迂回して進むということができそうにない。しかしこれを何とかして通り過ぎなければ、下ることができない。柵をよく見ると針金と紐で何ヶ所も留めてあるので、これを上から順にはずしていったが、一番下に留めている針金は相当に強く留められており、手ではずすのは困難だ。さて、どうしよう。折角ここまできて、たった一箇所の針金をはずすことができなくて通り抜けできないのはなんとも残念だ。そこで一番下の針金を留めたまま柵を押してみると上のほうが向こう側に傾き、隙間ができた。この隙間を通り抜けるしかないと思い、まず荷物をその隙間から向こう側へ放り投げた。次に身体をその隙間に入り込ませる。あまり無理をすると柵を壊してしまいそうだし、かといって手加減をしていると通り抜けることができない。注意深く身体を移動し、なんとか通り抜けることができた。スマートな私(?)だからできたが、メタボな人だと通り抜けるのは大変だろうなと思った。それにしてもこのように頑丈に柵をしているところを見ると本当に通っても良かったのだろうかと思う。この疑問は現在でも解決していません。無事通り抜けることができたので、柵の針金と紐をそれまでと同じように固定し現状回復をして下っていく。最初のゲートを入ってここまでで1時間9分が経過している。
ここから先は道もきれいに整備されているし、もうルンルンだ。 そして11時15分遂に峠の出口にきた。有年峠を無事越えたのだ。やったぜ!と思わず叫ぶ。
早速先ほど心配をして電話番号まで教えてくれた方に電話で無事峠を越えたことを報告する。結局峠越えに要した時間は1時間19分で、そのうちそれなりに道があった部分が56分間、道が失われていてさまよった部分は23分間だった。
ここから2号線を横切り、その先の道を左折して進む。気合を入れて臨んだ有年峠だっただけに、何か一気に気が抜けてしまったような感じで、気持ちがすっかり弛緩してしまっている。
左手に梨ヶ原・宿遺跡の案内板が立っている。それによると梨ヶ原・宿遺跡は中世から近世にかけての集落の跡で多くの建物跡や井戸跡、遺物が平成4年の発掘調査で出土しているということだ。また現在残る「宿」の字名等からもこの遺跡のまわり一帯が中世山陽道(近世西国街道)沿いにおこった「宿」と呼ばれる町の一つ、「梨原宿」として山陽道を行き交う人々でにぎわったものと思われると案内されている。
「船坂神社」が右手にある。
「明治天皇駐輦之碑」が立っている。ここも明治18年に巡幸された際のものだ。
普通の民家ような建物の祠が立っており、「本尊不動明王」と書かれていた。
一旦、2号線に合流するが、すぐに分かれ、右手JRの梨ガ原国道踏切を越え、Y字路を左に進むと船坂峠に差し掛かる。ここはきれいな道が付いており、有年峠に比べると天国だ。
丁度登りきったところに「縣界 東宮殿下行啓記念 岡山縣」という県境の碑が立っている。
やがて2号線に合流ししばらく歩いた後、右斜めに分かれている旧道に入り第一船坂踏切でJRを越えて進む。
川向こうにJR三石駅が見えるあたりに備前市教育委員会が立てた「三石一里塚跡」の案内板が土手の上にある。
その先10分ほど歩いたところに、もう一つ「三石一里塚跡」の真新しい石碑が立っていた。どちらが本来の位置なのだろうか?
右手に「三石神社」がある。ここは三石明神又は孕石神社と呼ばれている。今から一千有余年の昔、神功皇后がご懐妊の御身で当地お立ち寄りの際、この社にある大きな岩の上でご休息になり、それ以来境内の岩や石は皆白い小石を孕んでいるようになったと伝えられている。今も遠近から子宝に恵まれたいと願うご夫婦の方がよく参拝されているという説明がなされていた。
三石郵便局があり、その先の左手角の家が三石宿本陣があったところだ。
ここでカウントする。
12時41分、三石宿を通る。
有年宿から5時間2分、24641歩、12.2km。
その先、JRのガードをくぐる前、右手に「光明寺」があり、大きな「明治天皇行在所」碑が立っていた。ここの本堂は明和5年(1768)に建立されている。
やがて弟坂、兄坂と呼ばれる坂を越える。
高速道路のガード下左手に「明治天皇八木山御小休所跡」碑が立っており、そのすぐ横に「八木山一里塚跡」碑が立っている。 ここは道の右手を歩いており、左手に移動できる交差点がなかったので、道路の反対側からズームアップして写真を撮る。
ここからしばらくは2号線を歩くが、ここは歩道があって歩きやすい。
左手に八木山下公民館があり、その先同じく左手に「神田宮の鳥居」が少し入ったところに立っている。
ここを右折して2号線から分かれて進み、往還橋という小さな橋を渡って広高下という集落の中を歩く。 山間の静かな集落だ。
左手入ったところ、ちょっと分かりにくかったが「淨光寺」があり、その先に「藤ヶ棚茶屋跡」の標柱が立っている。ここは江戸期、備前藩主の休憩所があり、湯屋も作られたという説明がされていた。
左手に大池があるところで2号線に合流、その少し先で右手に伸びている旧道に再び入る。
旧道をしばらく歩き、右手に天神宮のあるところで2号線を横断して進み、新幹線のガード下をくぐって進む。
すぐにY字路があるがこれは左手を直進して進む。
右手に「法鏡寺」がある。藤原審爾住居跡の案内板が立っている。藤原家は大庄屋であった。秋津温泉は出世作となり、「罪な女」で直木賞を受けられ、晩年はこの地で暮らすつもりであったと書かれている。
境内の奥のほうに元治元年(1864)の鳥居が解体して置かれていた。このままずっとこのままにしておくのだろうか?
「宇佐八幡宮」があり備前焼狛犬がある。右側の阿形には「文政九丙戌年九月吉日 備前窯元 森五兵衛尉正統」、左側の吽形には伊部細工人 森五兵衛尉正統 服部章兵尚芳」と刻銘されており、台座には天保五年(1834)前川氏が寄進したと刻まれている。宇佐八幡宮は建武三年、延元元年(1336)足利尊氏が多々良浜(現福岡)の戦いで大勝し、九州制覇ができたのは豊前の宇佐八幡宮に参籠して武運長久を祈願したお陰だと勧請し、足利の守護神にしようとした。しかし帰路おおしけに遭い、神のお告げで潟神村(片上村、現備前市)に祀ることにした。その後天保3年(1646)に現在地に遷宮したもので十万石の格式が与えられていたと説明されている。焼物にはとんと関心がない私はこのとき初めて備前焼というものを意識した。
左手に「刀工備州祐高造之宅跡」の標柱が立っている。「鉄砲の銘、「備前長船住横山杢左衛門祐高」刀鍛冶との兼業、弟子は2,30人を数えたという。又鉄砲鍛冶と京都から帰った祐高は東片上木場で作刀に励む」と説明されている。
流川に架かる宝永橋を渡って片上商店街のアーケード街に入る。
これを抜けたところにアルファビゼンが立っているが今は営業をやっていないようだ。この前に片山宿脇本陣の標柱が立っている。 その先で街道は右折するのだが、ここを左に行ったところに「片上宿本陣小国氏邸跡」の碑が立っている。案内文によると足利尊氏が観応元年(1350)福岡(長船町)駐屯の途次、小国家の先祖が片上へ出迎えたとき、尊氏より枇杷をもらったが、受けるものがなかったので扇に受けた。そこでこれを家紋としたというようなことが書かれていた。
ここでカウントする。
16時3分、片上宿本陣跡を通る。
三石宿から3時間22分、18891歩、11.9km。
右手に「お夏墓地」がある。右はお夏の追悼碑で左がお夏の墓と案内が出ていた。
ここから葛坂峠を登っていくと「お夏茶屋跡」の案内が立っており、お夏は天性の美貌と知れ渡った評判の店は随分はやった、と書かれていた。
伊部に入ると備前焼祭りがあっていたが、時間が遅く、どこも店じまいをしているところだった。焼物に興味がないので備前焼など知らなかったが、この備前焼祭りは大掛かりで、翌日岡山で宿を取る際、どこも満員で苦労した。それは備前焼の観光客が大勢きている影響だったようだ。
「天津神社」がある。ここは応永18年(1411)以前の創建で、天正7年(1579)に現在地に遷宮した。境内には備前焼瓦で葺いた門、現代備前焼作家の陶印入り陶板をはめ込んだ塀、備前焼陶板を敷き詰めた参道などが配置されている。
今日のホテルは街道に面した場所にあった。17時10分にホテルに着く。
本日の歩行時間 10時間10分。
本日の歩数&距離 53369歩、33.6km。
7時丁度に有年駅に到着。今日もいい天気だ。有年峠を越えるに際し、雨だといやだと思っていたが、好天に恵まれてホッとする。駅前から昨日歩いた旧道に入るが、すぐに2号線に合流する。朝早いのだが、車の通行量は多い。ただ、ここは歩道があるので助かる。
左手小川をはさんだ向こう側に「池魚塚」があるので、橋を渡って引き返してみた。 ここは道路改修資金のために売られた池の魚への感謝と供養の塚で、天保7年(1836)の年号が見えると説明されている。
矢野川を渡り、その先で千種川に架かる有年橋を渡るとすぐに左折して旧道に入る。ここを歩いていると近くに中学校があるようで学生に出会うのだが、挨拶をしてくれる生徒が多く、朝から気持ちがいい。
東有年の集落の中を歩くが、どこか左側に入ったところに明治天皇碑と本陣跡があるはずと探しながら歩く。三つ目の細道、前方に中学校の講堂のような建物が見えるところを入っていくと、家の裏の畑に「明治天皇駐輦記念碑」の石碑と「有年宿本陣跡(柳原家宅跡)」の標柱が立っていた。なぜか青いシートが掛けられていた。
ここでカウントする。
7時39分、有年宿本陣跡を通る。
片島宿から3時間36分、22748歩、14km。
街道に戻って進むと右手に空き地があり、そこに「有年宿番所跡(旧松下家宅)」の標柱が立っている。寛永年間(1624~44)頃、東有年に有年宿が移され、赤穂藩役人は出張の際、ここに宿泊し前庭を白洲にして番所として利用した。周囲の人たちは御番所と呼んだと説明されている。
ここから県道に出たところで前方に「東有年沖田遺蹟」が見えたので行ってみる。ここは公園になっており、弥生時代後期、竪穴住居7棟と古墳時代後期の竪穴住居22棟および高床倉庫1棟が密集して検出されたと説明されており、道路を挟んで南側が「弥生時代ムラ」北側が「古墳遺蹟ムラ」という二つのゾーンに分かれて、当時のムラの様子を体験できるようにしていた。ただ、朝が早いので、まだ開館はしていなかった。
この後県道を2号線と勘違いしてしまったことが原因で道を間違えしばらくウロウロしてしまった。今日は有年峠越えがあるので時間のロスはできる限りしたくなかったのだが、早くもここでやってしまった。それでもなんとか2号線の東有年の信号までたどり着くことができた。信号を渡ってすぐ右手に「八幡神社」がある。ここの鳥居は延享元年((1744)に建立されている古い鳥居だ。ここから登っていくと「木製の灯台」が立っていた。ここまでくると視界が開けて見晴らしがよかった。
片山集落の右手に立派な長屋門の「有年家」がある。有年家はこの地で大庄屋を勤めた家柄で、市内に残る江戸時代の長屋門は赤穂城内にある「大石良雄宅跡長屋門」と「近藤源八宅跡長屋門」、それにこの「有年家長屋門」のみであり、主家と一体になって赤穂藩の庄屋の屋敷構えを残す貴重な文化財であると説明されている。
その先、道路を挟んで右手に老人施設、左手に幼稚園が立っているところを進むと、「西有年宮東遺蹟」の標柱が立っている。ここは平安時代(1200年前)末から鎌倉時代(約800年前)の掘立柱建物跡が多数見つかり、一緒に壷や皿などが出土したと説明されていた。
長谷川を渡って進むと右手に「大避神社」と「須賀神社」という二つの神社が並んで立っている。同じ境内にこうして二つの神社が並んで立っているのは珍しいので、近くにおられた方にお聞きすると、「大避神社」は昭和11年に建てられた新しい神社で、「須賀神社」はずっと昔からあると教えていただいた。
ここにおられた三人の方々はご近所の皆さんで、しばらくお話をさせていただいた。これから有年峠を登るというと、「今は道がなくなっていて登ることができない、イノシシが多いし、それに9月、10月はマムシが最も危険な時期なので、迂回することになるが2号線を歩いたほうがいい、先日もご近所の方がマムシに咬まれたばかりだ」と何度も云われ、履いている靴を見て、そんな靴だとマムシの歯は鋭いから咬み破られてしまうと散々脅かされてしまった。それでも「一応行ける所までいって、だめだったら引き返してきます」と言うと、一人の方が「じゅあ、もし何かあったら家に電話をください。主人にすぐに助けに行ってもらうから」といって電話番号を教えていただいた。電話番号を控えながらひょっと思いついて、「携帯は圏外ではないのですか?」と聞くと、「あら、そうだ、あそこは圏外だわ、でもまぁ、とにかく電波が通じるところまで出てきて、それから電話をしてちょうだい」と言われてしまった。それでもこういったご親切は本当にありがたく心に沁みる。「なにかあればご連絡させていただきます。もし連絡がなければ無事越えたと思ってください」と言って別れる。
2号線を横断した先、左手に「西有年向山の五輪塔」が立っている。
これは花崗岩でできており、鎌倉時代から南北朝時代に建立されたと考えられているそうだ。
その先、右手に「西有年宝篋印塔」が立っている。
これは花崗岩製石造りで鎌倉時代末期かまたは南北朝時代初期(約600年前)に作られた。もとは近くの街道脇にあったが、平成5年(1993)西有年圃場整備の際、取り払われ、平成7年(1995)現在地に移されたと説明されている。
「一里塚」の標柱が立っている。有年横尾からここまでが一里で、現在ではこの塚跡を塚の元と呼んでいると説明されている。
上組橋を渡ると右手に「立場跡(三村家)」が立っている。宿場と宿場の間の休憩所となっており、駕籠が縦に並ぶように、軒下を深く、縁側を細くしていると説明されている。
ここを見ていると、通りかかったおじさんが「峠を越えるつもりか」と声をかけてきた。「そのつもりです」と答えると、「今は誰も通らないので道がなくなっており、歩くことはできないよ。それより2号線を歩いたほうがいい。向うに見える車が通っている道が2号線だよ」と教えてくれた。この方は峠の登り口に住んでおられるそうで、「年に何人か峠を登る人を見かけるが、そのほとんどが冬場か春先で、マムシが危ないこんな時期に登る人はめったにいない。それに結局道が分からなくて引き返してくる人もいるよ」と言われる。「だれか草を切ってくれるような人はおられないのですかね」と聞くと、「そんな奇特な人はいないね」と一蹴されてしまった。ここでも「一応行ける所までいって、だめなら引き返してきます」と同じ返事をすると「まぁ、どうしてもいくというなら,それはあんたの自由だがね」というおじさんとその方の家の前で別れる。確かに峠の入口の家だった。それにしてもこれだけ同じことを何度も繰り返し言われると、有年峠は「藪がビッシリ密生して足の踏み入れ場もないようになっており、いたるところにマムシがいて、こちらを伺っている。時としてイノシシが突進してくるかもしれない」というイメージが私の頭の中に完全に出来上がっていた。さすがにあまりいい気がしないが、「まぁ、なんとかなるだろう、だめだったら引き返そう」と思って進む。
峠に差し掛かるとゲートがあり閉まっている。ただこれは鍵がかかっていないので、簡単に開けることができる。
中に入り、これまでと同じようにかんぬきを中から閉めておく。時間は9時56分だ。左手に坂折池が見える。道は舗装こそされていないが、きれいに整備されており歩きやすい。車も人も通らないので国道を歩くよりはるかに快適だ。つい鼻歌が出てくる。この快適な道はしばらく続き、左手先のほうに森林組合かなにかの建物がある場所まではこの状態の道が続いている。
ここで道は二手に分かれており、左手に行くとその建物の方へ行くようなので、そのまま直進する。ゲートからここまで17分かかっている。ここで手袋を出したり、杖兼マムシと戦う際の武器となる木の枝を捜してきて、これからの道に備える。道は草道になるが、まだきれいな道だ。これを18分ほど行くといよいよ道がなくなる。ただなんとなく道の痕跡のようなものが残っているところが所々あるので、これを伝っていくが、すぐにそれもなくなってくる。
完全な森の中だ。目印がないので自分がどの方向に進んでいるのかわからない。
このときGPSが威力を発揮した。日ごろは自分が歩いた道を記憶させ、HPの地図を作成するための道具として持っているだけで、これを見ることはないのだが、こうして目標物が何もない森の中に入ったことで初めてこれを使ってみた。そうすると画面の上のほうにゴルフ場が表示されている。これで一つ目標物ができた。これは助かった。少し進んでは画面をチェックする。
森の中は当初想像していた藪が密生していて、足の踏み入れ場もないということはなく、木が茂っているので下草があまり生えていない。これは歩く上で非常に助かった。もっとも倒木が数多くあり、木の枝や蔓が行く手を邪魔しているし、イノシシがいたるところを掘り返していたりして真っ直ぐにはなかなか歩くことはできなかった。
そうしているうちに森の中で歩きやすそうな場所を選んで歩いていると、どうしてもゴルフ場の方向へ進んでしまうことがわかったので、注意をしながら進む方向を微調整して進む。ただ、幸いにしてイノシシにもマムシにも出会うことはなかった。こうして歩いていると引き返すなどという気持ちは全く消えてしまっており、ただひたすら前へ進んだ。やがて道が下り坂になるところに来た。峠を越えたのだ。道がなくなって23分が経過している。
ここからは少し道らしいものが付いているので、これを歩いているとゴルフボールが落ちていた。峠の上のほうにゴルフ場があり、そこから転がって落ちてきたのだろうが、それにしても随分距離があるようなので、どのようにしてここまでころがってきたのだろうか。
やがて道は益々しっかりとしたものになってきた。 もう大丈夫だと思いながら進んでいくと、金網で柵をしている所に出る。道の両側にも柵がめぐらされており、迂回して進むということができそうにない。しかしこれを何とかして通り過ぎなければ、下ることができない。柵をよく見ると針金と紐で何ヶ所も留めてあるので、これを上から順にはずしていったが、一番下に留めている針金は相当に強く留められており、手ではずすのは困難だ。さて、どうしよう。折角ここまできて、たった一箇所の針金をはずすことができなくて通り抜けできないのはなんとも残念だ。そこで一番下の針金を留めたまま柵を押してみると上のほうが向こう側に傾き、隙間ができた。この隙間を通り抜けるしかないと思い、まず荷物をその隙間から向こう側へ放り投げた。次に身体をその隙間に入り込ませる。あまり無理をすると柵を壊してしまいそうだし、かといって手加減をしていると通り抜けることができない。注意深く身体を移動し、なんとか通り抜けることができた。スマートな私(?)だからできたが、メタボな人だと通り抜けるのは大変だろうなと思った。それにしてもこのように頑丈に柵をしているところを見ると本当に通っても良かったのだろうかと思う。この疑問は現在でも解決していません。無事通り抜けることができたので、柵の針金と紐をそれまでと同じように固定し現状回復をして下っていく。最初のゲートを入ってここまでで1時間9分が経過している。
ここから先は道もきれいに整備されているし、もうルンルンだ。 そして11時15分遂に峠の出口にきた。有年峠を無事越えたのだ。やったぜ!と思わず叫ぶ。
早速先ほど心配をして電話番号まで教えてくれた方に電話で無事峠を越えたことを報告する。結局峠越えに要した時間は1時間19分で、そのうちそれなりに道があった部分が56分間、道が失われていてさまよった部分は23分間だった。
ここから2号線を横切り、その先の道を左折して進む。気合を入れて臨んだ有年峠だっただけに、何か一気に気が抜けてしまったような感じで、気持ちがすっかり弛緩してしまっている。
左手に梨ヶ原・宿遺跡の案内板が立っている。それによると梨ヶ原・宿遺跡は中世から近世にかけての集落の跡で多くの建物跡や井戸跡、遺物が平成4年の発掘調査で出土しているということだ。また現在残る「宿」の字名等からもこの遺跡のまわり一帯が中世山陽道(近世西国街道)沿いにおこった「宿」と呼ばれる町の一つ、「梨原宿」として山陽道を行き交う人々でにぎわったものと思われると案内されている。
「船坂神社」が右手にある。
「明治天皇駐輦之碑」が立っている。ここも明治18年に巡幸された際のものだ。
普通の民家ような建物の祠が立っており、「本尊不動明王」と書かれていた。
一旦、2号線に合流するが、すぐに分かれ、右手JRの梨ガ原国道踏切を越え、Y字路を左に進むと船坂峠に差し掛かる。ここはきれいな道が付いており、有年峠に比べると天国だ。
丁度登りきったところに「縣界 東宮殿下行啓記念 岡山縣」という県境の碑が立っている。
やがて2号線に合流ししばらく歩いた後、右斜めに分かれている旧道に入り第一船坂踏切でJRを越えて進む。
川向こうにJR三石駅が見えるあたりに備前市教育委員会が立てた「三石一里塚跡」の案内板が土手の上にある。
その先10分ほど歩いたところに、もう一つ「三石一里塚跡」の真新しい石碑が立っていた。どちらが本来の位置なのだろうか?
右手に「三石神社」がある。ここは三石明神又は孕石神社と呼ばれている。今から一千有余年の昔、神功皇后がご懐妊の御身で当地お立ち寄りの際、この社にある大きな岩の上でご休息になり、それ以来境内の岩や石は皆白い小石を孕んでいるようになったと伝えられている。今も遠近から子宝に恵まれたいと願うご夫婦の方がよく参拝されているという説明がなされていた。
三石郵便局があり、その先の左手角の家が三石宿本陣があったところだ。
ここでカウントする。
12時41分、三石宿を通る。
有年宿から5時間2分、24641歩、12.2km。
その先、JRのガードをくぐる前、右手に「光明寺」があり、大きな「明治天皇行在所」碑が立っていた。ここの本堂は明和5年(1768)に建立されている。
やがて弟坂、兄坂と呼ばれる坂を越える。
高速道路のガード下左手に「明治天皇八木山御小休所跡」碑が立っており、そのすぐ横に「八木山一里塚跡」碑が立っている。 ここは道の右手を歩いており、左手に移動できる交差点がなかったので、道路の反対側からズームアップして写真を撮る。
ここからしばらくは2号線を歩くが、ここは歩道があって歩きやすい。
左手に八木山下公民館があり、その先同じく左手に「神田宮の鳥居」が少し入ったところに立っている。
ここを右折して2号線から分かれて進み、往還橋という小さな橋を渡って広高下という集落の中を歩く。 山間の静かな集落だ。
左手入ったところ、ちょっと分かりにくかったが「淨光寺」があり、その先に「藤ヶ棚茶屋跡」の標柱が立っている。ここは江戸期、備前藩主の休憩所があり、湯屋も作られたという説明がされていた。
左手に大池があるところで2号線に合流、その少し先で右手に伸びている旧道に再び入る。
旧道をしばらく歩き、右手に天神宮のあるところで2号線を横断して進み、新幹線のガード下をくぐって進む。
すぐにY字路があるがこれは左手を直進して進む。
右手に「法鏡寺」がある。藤原審爾住居跡の案内板が立っている。藤原家は大庄屋であった。秋津温泉は出世作となり、「罪な女」で直木賞を受けられ、晩年はこの地で暮らすつもりであったと書かれている。
境内の奥のほうに元治元年(1864)の鳥居が解体して置かれていた。このままずっとこのままにしておくのだろうか?
「宇佐八幡宮」があり備前焼狛犬がある。右側の阿形には「文政九丙戌年九月吉日 備前窯元 森五兵衛尉正統」、左側の吽形には伊部細工人 森五兵衛尉正統 服部章兵尚芳」と刻銘されており、台座には天保五年(1834)前川氏が寄進したと刻まれている。宇佐八幡宮は建武三年、延元元年(1336)足利尊氏が多々良浜(現福岡)の戦いで大勝し、九州制覇ができたのは豊前の宇佐八幡宮に参籠して武運長久を祈願したお陰だと勧請し、足利の守護神にしようとした。しかし帰路おおしけに遭い、神のお告げで潟神村(片上村、現備前市)に祀ることにした。その後天保3年(1646)に現在地に遷宮したもので十万石の格式が与えられていたと説明されている。焼物にはとんと関心がない私はこのとき初めて備前焼というものを意識した。
左手に「刀工備州祐高造之宅跡」の標柱が立っている。「鉄砲の銘、「備前長船住横山杢左衛門祐高」刀鍛冶との兼業、弟子は2,30人を数えたという。又鉄砲鍛冶と京都から帰った祐高は東片上木場で作刀に励む」と説明されている。
流川に架かる宝永橋を渡って片上商店街のアーケード街に入る。
これを抜けたところにアルファビゼンが立っているが今は営業をやっていないようだ。この前に片山宿脇本陣の標柱が立っている。 その先で街道は右折するのだが、ここを左に行ったところに「片上宿本陣小国氏邸跡」の碑が立っている。案内文によると足利尊氏が観応元年(1350)福岡(長船町)駐屯の途次、小国家の先祖が片上へ出迎えたとき、尊氏より枇杷をもらったが、受けるものがなかったので扇に受けた。そこでこれを家紋としたというようなことが書かれていた。
ここでカウントする。
16時3分、片上宿本陣跡を通る。
三石宿から3時間22分、18891歩、11.9km。
右手に「お夏墓地」がある。右はお夏の追悼碑で左がお夏の墓と案内が出ていた。
ここから葛坂峠を登っていくと「お夏茶屋跡」の案内が立っており、お夏は天性の美貌と知れ渡った評判の店は随分はやった、と書かれていた。
伊部に入ると備前焼祭りがあっていたが、時間が遅く、どこも店じまいをしているところだった。焼物に興味がないので備前焼など知らなかったが、この備前焼祭りは大掛かりで、翌日岡山で宿を取る際、どこも満員で苦労した。それは備前焼の観光客が大勢きている影響だったようだ。
「天津神社」がある。ここは応永18年(1411)以前の創建で、天正7年(1579)に現在地に遷宮した。境内には備前焼瓦で葺いた門、現代備前焼作家の陶印入り陶板をはめ込んだ塀、備前焼陶板を敷き詰めた参道などが配置されている。
今日のホテルは街道に面した場所にあった。17時10分にホテルに着く。
本日の歩行時間 10時間10分。
本日の歩数&距離 53369歩、33.6km。
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