2008年10月13日(月)
西宮~兵庫津~須磨~JR西明石
晴れ
小倉駅を6時17分の新幹線で出発。新神戸駅経由で西明石に着き、ここで荷物をロッカーに置いて身軽になり、在来線と阪神電車を乗り継いで西宮に到着。9時43分、西宮神社から歩き始める。
今日は雲ひとつない快晴、爽快だ。少し前まではこんな天気であれば暑くて歩くのが大変だったが、今日は気温もさほど高くなく、歩きやすい。
西宮神社の南門前を出発する。
神社が途切れたところ、園満寺の前に右斜めに進む旧道があるのでこれを歩く。香櫨園の先で阪神電車の踏切を渡って北側に出るが、踏切を渡る前の道を直進すると浜街道になる。
「阿保親王廟 是ヨリ五丁」という石碑が右手に立っている。阿保親王は桓武天皇の嫡系の子孫で、藤原行平、業平の父親として知られており、弘仁元年(810)薬子の変に連座して大宰権帥に左遷されるが、嵯峨天皇によって入京を許された人物だ。
左手に芦屋打出小槌郵便局がある。なんとも縁起のいい名前で、預けるだけでお金がどんどん増えていきそうだ。更に歩いていると、打出小槌町内会のお祭りがあるようで、神輿が出ており、法被姿の子供や大人が集まっていた。この町名であれば、何をやっても縁起がいいと感じてしまうから不思議だ。
宮川に架かる西国橋の手前に「白露地蔵尊」があり、女性が何か一心にお参りをされていた。
茶屋之町北の信号の先で2号線に合流、その先にある芦屋川に架かる業平橋を渡って進む。
道路の右手に神戸森郵便局があり、その横に地蔵尊がある。その先、これも右手に稲荷神社の大きな赤鳥居がある。今日は気温はさほど高くはないようだが、天気が良いため、日差しはまだかなり強い。そのため建物の日陰ができる道路の左側を歩いているのだが、道路の右側にこうして色々なものが見えている。ただ、国道を歩いているので丁度いい場所に信号がなくて道路の横断が面倒なため、左側から眺めるだけにしておく。
「国道地蔵尊」がある。かなり大きなお地蔵様だ。これも右側にあったが、近くに信号があったため、これを渡って右側に行く。交通安全を願って昭和7年に建立されたが、阪神大震災で壊れたため、平成10年に再建されたと説明されている。
2号線に沿って歩いていると右手に「三王神社」があり、丁度神社の方が出てこられたので、この神社の由来をお聞きすると、ここは大山咋神という男性の勇壮な神様を祀っているということだった。旧道は本来ならば、この少し手前にあった天上川を渡ったところから斜めに通っていたが、今はかなり失われていること、それでも一部は残っていてこの裏を通っていることなどを教えていただいた。
教えていただいたとおり、2号線から分岐して神社の横から北側へいくと、旧道があったのでこれに合流、左折して歩いていく。その先に「くび地蔵」という首だけのお地蔵様が右手にあった。ここには以前から首から上の病気に霊験あらかただったという「花松地蔵」があり、大正6年、地域の人々によって建立された「くび地蔵」を花松地蔵に納め、「花松くび地蔵」と名付けたと説明されている。ここも女性の方が一心に拝んでおられた。
ここから左折して、2号線のガードをくぐったところの右手にある階段を登って2号線に合流する。
「有馬道 是ヨリ北九十丁」という道標が立っている。江戸時代、六甲を越えて有馬へ行く道は魚屋道であったが、明治7年大坂~神戸間の鉄道が開通し、住吉に駅が設置されると住吉川沿いに山中に入り、魚屋道に合流する道が利用されるようになった。これが住吉越えの「有馬道」であると説明されていた。
このすぐ前に「本住吉神社」がある。神功皇后が三韓征伐からの帰途、船が進まなくなり、神託によって住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡」がこの地で、住吉三神鎮祭の根源とされているということだ。住吉三神とはいざなぎの神が黄泉の国から戻ってみそぎをした時に生まれた神で,この時水の底の方に潜った時に生まれたのが底津綿津見神・底筒之男命、中ほどにいた時生まれたのが中津綿津見神・中筒之男命、水の表面で生まれたのが上津綿津見神・上筒之男命といい、この三柱をまとめて住吉三神という。いずれも海神だ。
神社内に大正9年(1920)に神社から約100m程西の旧役場前にあった住吉村道路原票が移転されて立っている。
御影中町2の信号から左に入るところに旧道が残っているが、僅かの距離で途切れており、その先御影小学校の先から左折、最初の角を右折すると再び旧道に入る。この角に「旧 西國街道」の新しい碑が立っている。
御影小学校の手前、天神川に一里塚橋という名前の橋が架かっている。このあたりに一里塚があったそうだ。
右手に「徳川道起点」の案内板が立っている。徳川道は慶応3年(1867)に幕府が兵庫港を開港するにあたって、開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や武士との衝突を避けるために作られた迂回路で約34kmあったと説明されている。
ここから左折し、その先の石屋川に架かる西国橋を渡る。
その少し先、左手角に「処女塚」の案内板と碑が立っているので、左折して行ってみた。処女塚の築造は4世紀頃と考えられている。ここには言い伝えがあって、はるか昔、一人の美しい乙女に2人の若者が求婚、生田川の水鳥を弓矢で射抜く勝負をするも決着がつかず、 思い悩んだ乙女がとうとう生田川に身を投げ、二人の男も後を追って亡くなった。 若く儚い3人の亡骸を弔い、建てられたのが3つの塚。真ん中を処女塚、その両側を求女塚と呼ばれているそうで、これは、平安時代中期に成立した「大和物語」の「処女塚伝説」に記載されており、万葉の昔から知られた有名な古墳ということだ。大正11年に国の史跡指定を受けている。
街道に戻り、都賀川に架かる下河原橋を渡って右折、2号線に合流するが、そこの左手に「厄除東向八幡宮 南一丁」という石碑が立っている。
この先、西灘の信号で左斜めに進む2号線と別れ、直進して進む。このあたりは道が分かりにくかったが、道路が高架になっている横の道を進むと、左手に「灘のタカハシ」が架かっていて、その下に線路の跡が残っている。ここは明治7年に大坂~神戸間に鉄道が開通し、明治40年、現在のJR灘駅の約300m東にあった旧灘駅から中央区の小野村にかけて臨港線のレールが敷かれた。その時この鉄道を跨ぐ橋として建設されたということで、震災前までは作られた当時の赤レンガが一部残っていたと説明されている。
生田川に架かる雲井橋を渡ったところに「澄覚法親王の歌碑」が立っていた。このあたりも真っ直ぐな道になっている。
三宮駅に突き当たり、ガードを抜けて駅の北側に出、左折して進むと「生田神社」が右手にある。ここは本住吉神社と同様に神功皇后の三韓外征の際に建てられたもので、延喜式神名帳に記載されている式内社で、官幣中社である。ここは延喜18年(800)の大洪水の際、社の周囲に松の木が植えられていたが、洪水を防ぐことが全くできなかったので、今でも生田の森には1本の松も植えられていないそうだ。
生田神社を出て「IKUTA ROAD」と名づけられた道を進んで線路を越えた先で右折すると、右手に「三宮神社」がある。ここは「三宮事件」があった場所だ。慶応4年(1868)備前藩の行列の前をフランス兵が横切ろうとしたことから騒動が起きた。死者はいなかったが、明治新政府となって初めての外交事件であったため、銃撃を指揮した岡山藩士滝善三郎は後日列強外交官の前で切腹をさせられたという事件だ。
元町のアーケード街を進むと左手、少し入ったところに「走人神社」がある。ここは昔、走水村に間人(はしうど)という古代姓の村人が住んでおり、ここから走人神社という名前が付けられたという説と、近くを流れていた宇治川が度々氾濫する「走る水」によるものという二説があるということだ。境内には大きな筆塚が立っている。
アーケード街は距離も長く、休日ということもあって人通りが多くて活気が感じられる。
アーケードを抜けたところ、右手に「兵庫県里程原票」が立っている。
やがてJR神戸駅前へ来る。駅の横に何本も道が通っていて分かりにくい。左から数えて4本目の道を進むが、その先JRの線路を越えるあたりが特に分かりにくく、下調べの段階で市役所の方に確認を取って、それを元に歩いたのだが、自分が歩いた道が本当に旧道だったかは疑問です。この道のことで一生懸命で、つい{湊川神社」を見ることを忘れてしまった。宿について整理をしていて気がついたが後の祭りでした。少々残念!
「湊八幡神社」がある。ここは兵庫津宿の東惣門ということなので、ここから以降の道は間違っていないと思います。ここの境内には「迷い子のしるべ建て石」が立っている。警察機能がなかった昔はこうしたものを迷い子探しの方法としていたようで、神社塀外に立っていたそうだ。戦災で破損したため昭和46年に復元されたものも並んで立っていた。
その先で道は高速道路に遮断されており、信号のところまで回り道をして、その先へ進むと曲がり角に「札場の辻跡」の案内板と道標が立っていた。
ここを右折するとそのすぐ先が「兵庫津宿本陣」があった場所だ。今は何も残っておらず、標識もないが、「ラ・メール神戸」というマンションが立っている場所が本陣跡だ。
ここでカウントする。
15時27分、兵庫津宿を通る。
西宮宿から5時間44分、30847歩、19.9km。
その先右手に「神明神社」がある。ここは起源は不明だが、古くから兵庫の町の守護神としてこの地に祀られており、元禄5年(1692)の寺社改帳では神明の宮二社、即ち東の方社、外宮、西の方社、内宮と記されており、伊勢神宮と同じ形式の二社が祀られていたということだ。
その先左手に「柳原蛭子神社」がある。創建時期は不明だが、ここも元禄5年(1692)の寺社改帳に記載されている古い神社だ。ここに兵庫津宿の西惣門が置かれ柳原惣門といわれていた。
真っ直ぐに伸びている2号線を歩いていく。夕暮れが迫ってきており、急激に寒くなってきた。今日は荷物を置いてきているので上着を着ることができない。とにかく須磨寺までは行きたいと思い道を急ぐ。今回の旅の中で今日が一番寒い夕暮れだった。
ようやく「須磨寺」の参道に着き街道から右折して進む。須磨寺は仁和2年(886年)に光孝天皇の勅願寺として聞鏡上人が創建したもので、真言宗須磨寺派の大本山、正式には福祥寺という。源平合戦ゆかりの地として知られており、境内は広く、歴史を感じさせる。本堂は豊臣秀頼が慶長7年(1602)に再建している。
また「敦盛の首塚」がある。 この首塚(五輪塔)は、寿栄3年(1184)年2月7日に起きた一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩堤を弔う為に建立されたもので、須磨浦公園にある『敦盛塚』には胴体が祀られていると説明されていた。また敦盛の首を洗ったという首洗い池もあった。境内には熊谷四郎直実と平敦盛の一騎打ちを再現した「源平の庭」などもあるが、これはいかにも作り物という感じで、歴史を感じさせる境内になんとなくそぐわないと思うのは私だけだろうか?
須磨寺を出てJR須磨駅へ向かう途中に「現光寺」がある。光源氏が逗留したということだが、既に17時を過ぎており、門が閉まっていたので中を見ることはできなかった。
17時27分に須磨駅に着き、ここから西明石駅まで行って、駅の近くの宿に入る。
本日の歩行時間 7時間44分。
本日の歩数&距離 45719歩、29.3km。
小倉駅を6時17分の新幹線で出発。新神戸駅経由で西明石に着き、ここで荷物をロッカーに置いて身軽になり、在来線と阪神電車を乗り継いで西宮に到着。9時43分、西宮神社から歩き始める。
今日は雲ひとつない快晴、爽快だ。少し前まではこんな天気であれば暑くて歩くのが大変だったが、今日は気温もさほど高くなく、歩きやすい。
西宮神社の南門前を出発する。
神社が途切れたところ、園満寺の前に右斜めに進む旧道があるのでこれを歩く。香櫨園の先で阪神電車の踏切を渡って北側に出るが、踏切を渡る前の道を直進すると浜街道になる。
「阿保親王廟 是ヨリ五丁」という石碑が右手に立っている。阿保親王は桓武天皇の嫡系の子孫で、藤原行平、業平の父親として知られており、弘仁元年(810)薬子の変に連座して大宰権帥に左遷されるが、嵯峨天皇によって入京を許された人物だ。
左手に芦屋打出小槌郵便局がある。なんとも縁起のいい名前で、預けるだけでお金がどんどん増えていきそうだ。更に歩いていると、打出小槌町内会のお祭りがあるようで、神輿が出ており、法被姿の子供や大人が集まっていた。この町名であれば、何をやっても縁起がいいと感じてしまうから不思議だ。
宮川に架かる西国橋の手前に「白露地蔵尊」があり、女性が何か一心にお参りをされていた。
茶屋之町北の信号の先で2号線に合流、その先にある芦屋川に架かる業平橋を渡って進む。
道路の右手に神戸森郵便局があり、その横に地蔵尊がある。その先、これも右手に稲荷神社の大きな赤鳥居がある。今日は気温はさほど高くはないようだが、天気が良いため、日差しはまだかなり強い。そのため建物の日陰ができる道路の左側を歩いているのだが、道路の右側にこうして色々なものが見えている。ただ、国道を歩いているので丁度いい場所に信号がなくて道路の横断が面倒なため、左側から眺めるだけにしておく。
「国道地蔵尊」がある。かなり大きなお地蔵様だ。これも右側にあったが、近くに信号があったため、これを渡って右側に行く。交通安全を願って昭和7年に建立されたが、阪神大震災で壊れたため、平成10年に再建されたと説明されている。
2号線に沿って歩いていると右手に「三王神社」があり、丁度神社の方が出てこられたので、この神社の由来をお聞きすると、ここは大山咋神という男性の勇壮な神様を祀っているということだった。旧道は本来ならば、この少し手前にあった天上川を渡ったところから斜めに通っていたが、今はかなり失われていること、それでも一部は残っていてこの裏を通っていることなどを教えていただいた。
教えていただいたとおり、2号線から分岐して神社の横から北側へいくと、旧道があったのでこれに合流、左折して歩いていく。その先に「くび地蔵」という首だけのお地蔵様が右手にあった。ここには以前から首から上の病気に霊験あらかただったという「花松地蔵」があり、大正6年、地域の人々によって建立された「くび地蔵」を花松地蔵に納め、「花松くび地蔵」と名付けたと説明されている。ここも女性の方が一心に拝んでおられた。
ここから左折して、2号線のガードをくぐったところの右手にある階段を登って2号線に合流する。
「有馬道 是ヨリ北九十丁」という道標が立っている。江戸時代、六甲を越えて有馬へ行く道は魚屋道であったが、明治7年大坂~神戸間の鉄道が開通し、住吉に駅が設置されると住吉川沿いに山中に入り、魚屋道に合流する道が利用されるようになった。これが住吉越えの「有馬道」であると説明されていた。
このすぐ前に「本住吉神社」がある。神功皇后が三韓征伐からの帰途、船が進まなくなり、神託によって住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡」がこの地で、住吉三神鎮祭の根源とされているということだ。住吉三神とはいざなぎの神が黄泉の国から戻ってみそぎをした時に生まれた神で,この時水の底の方に潜った時に生まれたのが底津綿津見神・底筒之男命、中ほどにいた時生まれたのが中津綿津見神・中筒之男命、水の表面で生まれたのが上津綿津見神・上筒之男命といい、この三柱をまとめて住吉三神という。いずれも海神だ。
神社内に大正9年(1920)に神社から約100m程西の旧役場前にあった住吉村道路原票が移転されて立っている。
御影中町2の信号から左に入るところに旧道が残っているが、僅かの距離で途切れており、その先御影小学校の先から左折、最初の角を右折すると再び旧道に入る。この角に「旧 西國街道」の新しい碑が立っている。
御影小学校の手前、天神川に一里塚橋という名前の橋が架かっている。このあたりに一里塚があったそうだ。
右手に「徳川道起点」の案内板が立っている。徳川道は慶応3年(1867)に幕府が兵庫港を開港するにあたって、開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や武士との衝突を避けるために作られた迂回路で約34kmあったと説明されている。
ここから左折し、その先の石屋川に架かる西国橋を渡る。
その少し先、左手角に「処女塚」の案内板と碑が立っているので、左折して行ってみた。処女塚の築造は4世紀頃と考えられている。ここには言い伝えがあって、はるか昔、一人の美しい乙女に2人の若者が求婚、生田川の水鳥を弓矢で射抜く勝負をするも決着がつかず、 思い悩んだ乙女がとうとう生田川に身を投げ、二人の男も後を追って亡くなった。 若く儚い3人の亡骸を弔い、建てられたのが3つの塚。真ん中を処女塚、その両側を求女塚と呼ばれているそうで、これは、平安時代中期に成立した「大和物語」の「処女塚伝説」に記載されており、万葉の昔から知られた有名な古墳ということだ。大正11年に国の史跡指定を受けている。
街道に戻り、都賀川に架かる下河原橋を渡って右折、2号線に合流するが、そこの左手に「厄除東向八幡宮 南一丁」という石碑が立っている。
この先、西灘の信号で左斜めに進む2号線と別れ、直進して進む。このあたりは道が分かりにくかったが、道路が高架になっている横の道を進むと、左手に「灘のタカハシ」が架かっていて、その下に線路の跡が残っている。ここは明治7年に大坂~神戸間に鉄道が開通し、明治40年、現在のJR灘駅の約300m東にあった旧灘駅から中央区の小野村にかけて臨港線のレールが敷かれた。その時この鉄道を跨ぐ橋として建設されたということで、震災前までは作られた当時の赤レンガが一部残っていたと説明されている。
生田川に架かる雲井橋を渡ったところに「澄覚法親王の歌碑」が立っていた。このあたりも真っ直ぐな道になっている。
三宮駅に突き当たり、ガードを抜けて駅の北側に出、左折して進むと「生田神社」が右手にある。ここは本住吉神社と同様に神功皇后の三韓外征の際に建てられたもので、延喜式神名帳に記載されている式内社で、官幣中社である。ここは延喜18年(800)の大洪水の際、社の周囲に松の木が植えられていたが、洪水を防ぐことが全くできなかったので、今でも生田の森には1本の松も植えられていないそうだ。
生田神社を出て「IKUTA ROAD」と名づけられた道を進んで線路を越えた先で右折すると、右手に「三宮神社」がある。ここは「三宮事件」があった場所だ。慶応4年(1868)備前藩の行列の前をフランス兵が横切ろうとしたことから騒動が起きた。死者はいなかったが、明治新政府となって初めての外交事件であったため、銃撃を指揮した岡山藩士滝善三郎は後日列強外交官の前で切腹をさせられたという事件だ。
元町のアーケード街を進むと左手、少し入ったところに「走人神社」がある。ここは昔、走水村に間人(はしうど)という古代姓の村人が住んでおり、ここから走人神社という名前が付けられたという説と、近くを流れていた宇治川が度々氾濫する「走る水」によるものという二説があるということだ。境内には大きな筆塚が立っている。
アーケード街は距離も長く、休日ということもあって人通りが多くて活気が感じられる。
アーケードを抜けたところ、右手に「兵庫県里程原票」が立っている。
やがてJR神戸駅前へ来る。駅の横に何本も道が通っていて分かりにくい。左から数えて4本目の道を進むが、その先JRの線路を越えるあたりが特に分かりにくく、下調べの段階で市役所の方に確認を取って、それを元に歩いたのだが、自分が歩いた道が本当に旧道だったかは疑問です。この道のことで一生懸命で、つい{湊川神社」を見ることを忘れてしまった。宿について整理をしていて気がついたが後の祭りでした。少々残念!
「湊八幡神社」がある。ここは兵庫津宿の東惣門ということなので、ここから以降の道は間違っていないと思います。ここの境内には「迷い子のしるべ建て石」が立っている。警察機能がなかった昔はこうしたものを迷い子探しの方法としていたようで、神社塀外に立っていたそうだ。戦災で破損したため昭和46年に復元されたものも並んで立っていた。
その先で道は高速道路に遮断されており、信号のところまで回り道をして、その先へ進むと曲がり角に「札場の辻跡」の案内板と道標が立っていた。
ここを右折するとそのすぐ先が「兵庫津宿本陣」があった場所だ。今は何も残っておらず、標識もないが、「ラ・メール神戸」というマンションが立っている場所が本陣跡だ。
ここでカウントする。
15時27分、兵庫津宿を通る。
西宮宿から5時間44分、30847歩、19.9km。
その先右手に「神明神社」がある。ここは起源は不明だが、古くから兵庫の町の守護神としてこの地に祀られており、元禄5年(1692)の寺社改帳では神明の宮二社、即ち東の方社、外宮、西の方社、内宮と記されており、伊勢神宮と同じ形式の二社が祀られていたということだ。
その先左手に「柳原蛭子神社」がある。創建時期は不明だが、ここも元禄5年(1692)の寺社改帳に記載されている古い神社だ。ここに兵庫津宿の西惣門が置かれ柳原惣門といわれていた。
真っ直ぐに伸びている2号線を歩いていく。夕暮れが迫ってきており、急激に寒くなってきた。今日は荷物を置いてきているので上着を着ることができない。とにかく須磨寺までは行きたいと思い道を急ぐ。今回の旅の中で今日が一番寒い夕暮れだった。
ようやく「須磨寺」の参道に着き街道から右折して進む。須磨寺は仁和2年(886年)に光孝天皇の勅願寺として聞鏡上人が創建したもので、真言宗須磨寺派の大本山、正式には福祥寺という。源平合戦ゆかりの地として知られており、境内は広く、歴史を感じさせる。本堂は豊臣秀頼が慶長7年(1602)に再建している。
また「敦盛の首塚」がある。 この首塚(五輪塔)は、寿栄3年(1184)年2月7日に起きた一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩堤を弔う為に建立されたもので、須磨浦公園にある『敦盛塚』には胴体が祀られていると説明されていた。また敦盛の首を洗ったという首洗い池もあった。境内には熊谷四郎直実と平敦盛の一騎打ちを再現した「源平の庭」などもあるが、これはいかにも作り物という感じで、歴史を感じさせる境内になんとなくそぐわないと思うのは私だけだろうか?
須磨寺を出てJR須磨駅へ向かう途中に「現光寺」がある。光源氏が逗留したということだが、既に17時を過ぎており、門が閉まっていたので中を見ることはできなかった。
17時27分に須磨駅に着き、ここから西明石駅まで行って、駅の近くの宿に入る。
本日の歩行時間 7時間44分。
本日の歩数&距離 45719歩、29.3km。
旅の地図
記録
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2008年10月14日(火)
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2008年10月15日(水)
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2008年10月19日(日)
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2008年12月20日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん