2008年09月14日(日)
石橋駅~昆陽~西宮
晴れ
朝、皆と別れて阪急烏丸から電車に乗り、8時30分に昨日歩いた石橋阪大下の信号のところに着き歩き始める。
今日は天気が良く、暑くなりそうだ。
正光寺があり、そこに夜泣き石があるということだったので行ってみることにする。街道から少し外れたところにあるようだが、細い道が入り組んでいて分かりにくい。大分無駄足を踏んだようだが、それでもなんとか見つけることができた。
ところが門が閉まっており、中を見ることができない。塀越しに中を見たが、どれが夜泣き石なのかわからなかった。 結局分からないまま街道に戻って先に進む。
「駒の森十二神社」がある。ここは阪神大震災で被災をし、その修理を行っているときにきれいなカラーで描かれた干支の神様が見つかった、とここを管理しているおばさんが言われていた。また境内には昭和18年に作られた防空壕が残っていた。 これは長さ10m、幅3~4m、高さ2mで30名ほどの人を収容することができたということだ。今は危険防止のため内部は埋められている。
ここは176号線がすぐ横を走っており、旧道は失われている。すぐ先にある信号を渡ってそのまま直進していたが、どうもおかしいと思って、歩いている方にお聞きすると間違っていることが分かった。十二神社の横に地下道があり、これを通って道路の向こう側に出るとそこに旧道がつながっているようだった。
この先で2号線と171号線が交わるところも分かりにくかった。一旦2号線に出て橋を渡り、そのすぐ先で左折して進む。
手持ちの資料ではこのあたりで171号線から少し離れて旧道を行くようになっているのだがその入口が分からない。171号線をそのまま歩いていくと左手に「淨源寺」がある。ここにある銀杏はキリ・ムクノキの二種類が寄生している。このような寄生木は県下でも珍しいということで伊丹市の天然記念物となっている。
ただ、資料ではここに来るまでの間に171号線から離れたところに旧道があるようになっており、実際淨源寺の少し前に旧道らしい道が合流しているところを見つけたので、その道を辿って戻ってみた。ところが道はあるのだが、資料とは違う形で道が通っている。結局分からないままだった。
そのすぐ先で「中村家と増田家」という旧家が二軒並んでおり、伊丹市景観形成建造物に指定されていた。
軍行橋で猪名川を渡ってすぐに左折し川岸に沿って歩く。
JR福知山線の踏切を渡って進むと「辻の碑」がある。ここは西国街道と多田街道とが交叉する場所だ。碑は自然石に銘文を刻んだものだ。現在は表面の下部が大きくはがれ落ちているいるが上部に「従東寺拾里」の5文字が残っている。
ちょっとした坂道がある。伊丹坂と名づけられている。案内板によると寛政10年(1796)に刊行された「摂津名所図会」にも描かれているということだ。今は特に感じないが昔は厳しい坂だったのだろう。
街道から左手坂を上ってところに和泉式部の墓と伝えられる「五輪塔」がある。現在では花崗岩製の塔身と一石彫成の請花、宝珠が残っているだけだが、完全であれば総高225cmの比較的大型の五輪塔だったようで、鎌倉時代後期の造立と考えられている。和泉式部の墓は各地にあるが、これは女性の遊行聖が和泉式部の名で各地を回ったことに由来すると考えられていると案内板に記されていた。
右手に大鹿交流センターがある。まだ新しい建物だ。案内板があり、それによると大鹿という名前の由来は平安時代、坂上田村麻呂がこのあたりで大鹿を射止めたことからきているということだ。大鹿村は西国街道に沿う農村で東方と西方に別れており、村の中ほどに一里塚があった。村の西には伊丹から中山・有馬へ通じる街道が通っていたと書かれている。
大鹿を過ぎると千僧に入る。案内板があって千僧という地名は行基が昆陽上池・下池などを築き、新たに田を開墾したときの工事による犠牲者の「千僧供養」を行った地であることから付けられたと言う説があるが確かではないと書かれていた。ここには立派な長屋門の家がある。
右手稲野小学校の前に道標があり「すぐ西ノ宮」「すぐ中山 小濱」等刻まれている。その横に能因法師の歌碑が立っている。
長勢児童遊園が川端本陣の跡だと聞いたので、ここでカウントする。もっともここには何の遺構も残っていないし、標識もなかった。
11時39分 昆陽宿川端本陣跡を通る。
瀬川・半町宿から3時間27分、
17241歩、8.4km。
やがて171号線に合流し、その先寺本4丁目の信号のところで左折するのだが、その先に「昆陽寺」があるので行ってみた。昆陽寺は天平5年(733)行基の開創と伝えられている。天正7年(1579)織田信長の兵火にかかって一山の堂塔を焼失したという。山門は上層周囲に縁をめぐらし、細部に見る絵様繰形の形式手法は江戸中期のものと説明されている。
街道に戻って進み右折するが、このあたりは同じような道が並んでいて分かりにくい。
右折した先、右手に「閼伽井(アカイ)の井戸」がある。「あかい」とは梵語で「水」、特に仏前に供える水のことをいい、昆陽寺付近の地を閼伽井と呼んだことから、この井戸を「閼伽井の井戸」と呼んだと説明されている。ここから北へ進む道が昆陽寺旧参道とされていた。ここは西国街道に面していたことから、病人の救護の水として、また旅人の水として与えられ、休息の場として喜ばれていたと説明されている。
171号線に合流した先右手に「師直塚」がある。足利家武将の高師直は観応2年(1351)、上杉能憲勢の待ち伏せに会い、子供、弟と共に討たれ、高一族は亡ぶこととなった。高師直は南北朝時代の武将で、足利尊氏が上洛の折、既にその側近にあり、足利家の執事として北畠顕家を倒し、河内の南朝方を倒して楠木正成を敗死させるような功績があった。師直らの没後、このあたりに墓らしき塚があったが、いつしか崩され、大正4年有志により現在の師直塚が建碑された。その後国道の拡張工事などにより現在地へと移転したと説明されている。
しばらく171号線を歩き、西昆陽の信号から171号線から別れて右斜めに進み武庫川の方向へ行く。
髭茶屋の案内板がある。
天明8年(1788)、安兵衛さんと徳兵衛さんの二人が茶屋を経営していた。当時、安兵衛さんは立派な髭を蓄えていたので、髭茶屋の安兵衛さんと呼ばれていたと説明されている。
ここから武庫川の川土手の道を進んで右折、甲武橋を渡り、左折して進む。丁度、川を挟んでもとの場所に戻るようなものだ。このあたりに渡しがあったのだろう。左手に報徳学園が続いている川土手の道を進むが、ここは歩道がなく、車の通行量も多く怖い。ヒヤヒヤしながら進み、報徳学園の敷地が終わるところで左に下る道があるのでこれを通っていき、報徳学園の横を左折して進む。その先左折して段上小学校と報徳学園の間の道を進んでいく。
新幹線のガード下を通り、すぐ先を右折、そのまま新幹線に沿って歩き、その後左折して進む。
西国街道(2)という案内板があり、「西国街道もここ上大市四丁目十三から県道中津浜線を横切り、下大市西町の厄神明王の道標までは開発のため大きく変化しているが、多少昔の面影を偲ぶことができる。」と書かれている。右側に小川が流れており、それに沿っていかにも街道らしい雰囲気の道が続いている。
その先に西国街道(3)の案内板がある。ここには道標が2基立っており、「百間樋川石橋を渡り、戌亥石橋を渡って川沿いにここ百合戸石橋にくる。」とあり、その後に「この近くに三つもの道標のあることでわかるように甲山大師、厄神明王にお詣りする道が、また尼崎、大坂に通ずる道と脇道がここに集まっている。」と書かれている。
門戸厄神駅を左に見ながら直進する。中央運動公園があり、その中を突っ切って進むと171号線にでた。ただ、信号がない。左右を見ると大分離れたところにそれぞれ信号があったが、どちらも同じような距離だ。どうしようかと思っていると丁度車の流れが途絶えたので、171号線を横切って進む。あまり褒められた行為ではないが(自覚しています)、早く西宮神社に着きたい気持ちが強い。
阪急電車を越え、JRを越えて進むと、右手に「海清寺」がある。ここには海清寺が開かれた応永初年(1394)に植えられたと伝えられる大きな楠がある。根廻り9.2m、樹高35m、樹齢600年という大きな木で兵庫県指定天然記念物になっている。ここにはこの木以外にも大きな木が沢山立っていた。
更に直進していき、右手に正念寺がある角を右折して進むと左手に「蛭児大神神輿屋傳説地」の石碑が立っている。
説明が書かれているらしい標識があるのだが、植え込みの中にあるため読むことができない。そのため写真のみ撮り、その後ネットで調べてみた。そうすると西宮神社のHPの中に下記の記述を見つけたのでここに記載しておきます。
えびす宮総本社の西宮神社では、えびす様が海より当地へお越しになられた由来に因んで、毎年6月14日に本社の東約500mにある本町の御輿屋(おこしや)跡地までえびす様をびわで飾り付けをした神輿にのせて担いで、お祭りを行うおこしや祭が斎行されます。
このお祭の由来は、そのむかし鳴尾(なるお)の漁夫が武庫の海で漁をしていたところ網にご神像(えびす様)を得たのですが、魚ではなかったので一旦海中にお戻しして、神戸の和田岬辺りで再び網を入れたところ、再び同じご神像を得ました。これはただ事ではないと思い、家に持ち帰りおまつりをしていたところ、或る夜の夢に「西の方に宮地があるので案内いたせ」とのお告げがありました。漁夫は村人を集めえびす様を御輿に乗せて出発しましたが、途中で一休みされたえびす様は居眠りをされてなかなかお目覚めになられません。困った漁夫は恐れ多くも神様のお尻をつねってお起しして、もう少し西へ進み今の西宮神社の地に着かれたたといわれています。
このお尻をつねった場所が今の御輿屋跡地であり、この日は参拝者が娘さんのお尻をつねってもよいという風習から「尻ひねり祭り」とも、6月14日から衣替えをし、浴衣を着初めることから「ゆかた祭り」とも、旬の果物であるビワをお供えするところから「びわ祭り」とも呼ばれています。
ここを過ぎるともう目の前が「西宮神社」だ。街道の正面は表大門になっている。
この門は全体が赤く丹塗りされていることから「赤門」と呼ばれており、豊臣秀頼の再建といわれている。その豪壮な姿には桃山時代の影響が見て取れると説明されている。
ここでカウントする。
14時46分、西宮神社に到着。
昆陽宿から3時間7分、15992歩、10km。
ホッとしたところで境内を見て廻る。
ここは福の神「えびす様」の総本社となっているが創建年代は明らかではない。ただ、平安時代の百科事典である伊呂波字類抄や承安二年(1172年)に行われた広田社歌合に「えびす」の名が見えるほか、高倉上皇の御奉幣をはじめ皇族・神祇伯の参拝が度々あったことが古文書に記されている。桃山時代には豊臣秀頼、江戸時代には四代将軍徳川家綱により社殿の造営がされた。 国宝の三連春日造の本殿は、昭和二十年に戦火にあったが、昭和三十六年にもとのままに復元されました。室町時代建立の大練塀と桃山建築の表大門は国の重要文化財に、えびすの森は天然記念物に指定されている。
境内も広く、気持ちのいいところだ。
本日の歩行時間 6時間14分。
本日の歩数 33216歩。
本日の歩行距離 20.2km。
これで西国街道を歩き終える。結果は以下の通りである。
西国街道合計。
総歩行時間 20時間31分。
総歩数 122720歩。
総歩行距離 70.9km。
宿場間距離合計 56.7km。(これは寄り道をせず、また道を間違わずに歩いた場合の距離です)
朝、皆と別れて阪急烏丸から電車に乗り、8時30分に昨日歩いた石橋阪大下の信号のところに着き歩き始める。
今日は天気が良く、暑くなりそうだ。
正光寺があり、そこに夜泣き石があるということだったので行ってみることにする。街道から少し外れたところにあるようだが、細い道が入り組んでいて分かりにくい。大分無駄足を踏んだようだが、それでもなんとか見つけることができた。
ところが門が閉まっており、中を見ることができない。塀越しに中を見たが、どれが夜泣き石なのかわからなかった。 結局分からないまま街道に戻って先に進む。
「駒の森十二神社」がある。ここは阪神大震災で被災をし、その修理を行っているときにきれいなカラーで描かれた干支の神様が見つかった、とここを管理しているおばさんが言われていた。また境内には昭和18年に作られた防空壕が残っていた。 これは長さ10m、幅3~4m、高さ2mで30名ほどの人を収容することができたということだ。今は危険防止のため内部は埋められている。
ここは176号線がすぐ横を走っており、旧道は失われている。すぐ先にある信号を渡ってそのまま直進していたが、どうもおかしいと思って、歩いている方にお聞きすると間違っていることが分かった。十二神社の横に地下道があり、これを通って道路の向こう側に出るとそこに旧道がつながっているようだった。
この先で2号線と171号線が交わるところも分かりにくかった。一旦2号線に出て橋を渡り、そのすぐ先で左折して進む。
手持ちの資料ではこのあたりで171号線から少し離れて旧道を行くようになっているのだがその入口が分からない。171号線をそのまま歩いていくと左手に「淨源寺」がある。ここにある銀杏はキリ・ムクノキの二種類が寄生している。このような寄生木は県下でも珍しいということで伊丹市の天然記念物となっている。
ただ、資料ではここに来るまでの間に171号線から離れたところに旧道があるようになっており、実際淨源寺の少し前に旧道らしい道が合流しているところを見つけたので、その道を辿って戻ってみた。ところが道はあるのだが、資料とは違う形で道が通っている。結局分からないままだった。
そのすぐ先で「中村家と増田家」という旧家が二軒並んでおり、伊丹市景観形成建造物に指定されていた。
軍行橋で猪名川を渡ってすぐに左折し川岸に沿って歩く。
JR福知山線の踏切を渡って進むと「辻の碑」がある。ここは西国街道と多田街道とが交叉する場所だ。碑は自然石に銘文を刻んだものだ。現在は表面の下部が大きくはがれ落ちているいるが上部に「従東寺拾里」の5文字が残っている。
ちょっとした坂道がある。伊丹坂と名づけられている。案内板によると寛政10年(1796)に刊行された「摂津名所図会」にも描かれているということだ。今は特に感じないが昔は厳しい坂だったのだろう。
街道から左手坂を上ってところに和泉式部の墓と伝えられる「五輪塔」がある。現在では花崗岩製の塔身と一石彫成の請花、宝珠が残っているだけだが、完全であれば総高225cmの比較的大型の五輪塔だったようで、鎌倉時代後期の造立と考えられている。和泉式部の墓は各地にあるが、これは女性の遊行聖が和泉式部の名で各地を回ったことに由来すると考えられていると案内板に記されていた。
右手に大鹿交流センターがある。まだ新しい建物だ。案内板があり、それによると大鹿という名前の由来は平安時代、坂上田村麻呂がこのあたりで大鹿を射止めたことからきているということだ。大鹿村は西国街道に沿う農村で東方と西方に別れており、村の中ほどに一里塚があった。村の西には伊丹から中山・有馬へ通じる街道が通っていたと書かれている。
大鹿を過ぎると千僧に入る。案内板があって千僧という地名は行基が昆陽上池・下池などを築き、新たに田を開墾したときの工事による犠牲者の「千僧供養」を行った地であることから付けられたと言う説があるが確かではないと書かれていた。ここには立派な長屋門の家がある。
右手稲野小学校の前に道標があり「すぐ西ノ宮」「すぐ中山 小濱」等刻まれている。その横に能因法師の歌碑が立っている。
長勢児童遊園が川端本陣の跡だと聞いたので、ここでカウントする。もっともここには何の遺構も残っていないし、標識もなかった。
11時39分 昆陽宿川端本陣跡を通る。
瀬川・半町宿から3時間27分、
17241歩、8.4km。
やがて171号線に合流し、その先寺本4丁目の信号のところで左折するのだが、その先に「昆陽寺」があるので行ってみた。昆陽寺は天平5年(733)行基の開創と伝えられている。天正7年(1579)織田信長の兵火にかかって一山の堂塔を焼失したという。山門は上層周囲に縁をめぐらし、細部に見る絵様繰形の形式手法は江戸中期のものと説明されている。
街道に戻って進み右折するが、このあたりは同じような道が並んでいて分かりにくい。
右折した先、右手に「閼伽井(アカイ)の井戸」がある。「あかい」とは梵語で「水」、特に仏前に供える水のことをいい、昆陽寺付近の地を閼伽井と呼んだことから、この井戸を「閼伽井の井戸」と呼んだと説明されている。ここから北へ進む道が昆陽寺旧参道とされていた。ここは西国街道に面していたことから、病人の救護の水として、また旅人の水として与えられ、休息の場として喜ばれていたと説明されている。
171号線に合流した先右手に「師直塚」がある。足利家武将の高師直は観応2年(1351)、上杉能憲勢の待ち伏せに会い、子供、弟と共に討たれ、高一族は亡ぶこととなった。高師直は南北朝時代の武将で、足利尊氏が上洛の折、既にその側近にあり、足利家の執事として北畠顕家を倒し、河内の南朝方を倒して楠木正成を敗死させるような功績があった。師直らの没後、このあたりに墓らしき塚があったが、いつしか崩され、大正4年有志により現在の師直塚が建碑された。その後国道の拡張工事などにより現在地へと移転したと説明されている。
しばらく171号線を歩き、西昆陽の信号から171号線から別れて右斜めに進み武庫川の方向へ行く。
髭茶屋の案内板がある。
天明8年(1788)、安兵衛さんと徳兵衛さんの二人が茶屋を経営していた。当時、安兵衛さんは立派な髭を蓄えていたので、髭茶屋の安兵衛さんと呼ばれていたと説明されている。
ここから武庫川の川土手の道を進んで右折、甲武橋を渡り、左折して進む。丁度、川を挟んでもとの場所に戻るようなものだ。このあたりに渡しがあったのだろう。左手に報徳学園が続いている川土手の道を進むが、ここは歩道がなく、車の通行量も多く怖い。ヒヤヒヤしながら進み、報徳学園の敷地が終わるところで左に下る道があるのでこれを通っていき、報徳学園の横を左折して進む。その先左折して段上小学校と報徳学園の間の道を進んでいく。
新幹線のガード下を通り、すぐ先を右折、そのまま新幹線に沿って歩き、その後左折して進む。
西国街道(2)という案内板があり、「西国街道もここ上大市四丁目十三から県道中津浜線を横切り、下大市西町の厄神明王の道標までは開発のため大きく変化しているが、多少昔の面影を偲ぶことができる。」と書かれている。右側に小川が流れており、それに沿っていかにも街道らしい雰囲気の道が続いている。
その先に西国街道(3)の案内板がある。ここには道標が2基立っており、「百間樋川石橋を渡り、戌亥石橋を渡って川沿いにここ百合戸石橋にくる。」とあり、その後に「この近くに三つもの道標のあることでわかるように甲山大師、厄神明王にお詣りする道が、また尼崎、大坂に通ずる道と脇道がここに集まっている。」と書かれている。
門戸厄神駅を左に見ながら直進する。中央運動公園があり、その中を突っ切って進むと171号線にでた。ただ、信号がない。左右を見ると大分離れたところにそれぞれ信号があったが、どちらも同じような距離だ。どうしようかと思っていると丁度車の流れが途絶えたので、171号線を横切って進む。あまり褒められた行為ではないが(自覚しています)、早く西宮神社に着きたい気持ちが強い。
阪急電車を越え、JRを越えて進むと、右手に「海清寺」がある。ここには海清寺が開かれた応永初年(1394)に植えられたと伝えられる大きな楠がある。根廻り9.2m、樹高35m、樹齢600年という大きな木で兵庫県指定天然記念物になっている。ここにはこの木以外にも大きな木が沢山立っていた。
更に直進していき、右手に正念寺がある角を右折して進むと左手に「蛭児大神神輿屋傳説地」の石碑が立っている。
説明が書かれているらしい標識があるのだが、植え込みの中にあるため読むことができない。そのため写真のみ撮り、その後ネットで調べてみた。そうすると西宮神社のHPの中に下記の記述を見つけたのでここに記載しておきます。
えびす宮総本社の西宮神社では、えびす様が海より当地へお越しになられた由来に因んで、毎年6月14日に本社の東約500mにある本町の御輿屋(おこしや)跡地までえびす様をびわで飾り付けをした神輿にのせて担いで、お祭りを行うおこしや祭が斎行されます。
このお祭の由来は、そのむかし鳴尾(なるお)の漁夫が武庫の海で漁をしていたところ網にご神像(えびす様)を得たのですが、魚ではなかったので一旦海中にお戻しして、神戸の和田岬辺りで再び網を入れたところ、再び同じご神像を得ました。これはただ事ではないと思い、家に持ち帰りおまつりをしていたところ、或る夜の夢に「西の方に宮地があるので案内いたせ」とのお告げがありました。漁夫は村人を集めえびす様を御輿に乗せて出発しましたが、途中で一休みされたえびす様は居眠りをされてなかなかお目覚めになられません。困った漁夫は恐れ多くも神様のお尻をつねってお起しして、もう少し西へ進み今の西宮神社の地に着かれたたといわれています。
このお尻をつねった場所が今の御輿屋跡地であり、この日は参拝者が娘さんのお尻をつねってもよいという風習から「尻ひねり祭り」とも、6月14日から衣替えをし、浴衣を着初めることから「ゆかた祭り」とも、旬の果物であるビワをお供えするところから「びわ祭り」とも呼ばれています。
ここを過ぎるともう目の前が「西宮神社」だ。街道の正面は表大門になっている。
この門は全体が赤く丹塗りされていることから「赤門」と呼ばれており、豊臣秀頼の再建といわれている。その豪壮な姿には桃山時代の影響が見て取れると説明されている。
ここでカウントする。
14時46分、西宮神社に到着。
昆陽宿から3時間7分、15992歩、10km。
ホッとしたところで境内を見て廻る。
ここは福の神「えびす様」の総本社となっているが創建年代は明らかではない。ただ、平安時代の百科事典である伊呂波字類抄や承安二年(1172年)に行われた広田社歌合に「えびす」の名が見えるほか、高倉上皇の御奉幣をはじめ皇族・神祇伯の参拝が度々あったことが古文書に記されている。桃山時代には豊臣秀頼、江戸時代には四代将軍徳川家綱により社殿の造営がされた。 国宝の三連春日造の本殿は、昭和二十年に戦火にあったが、昭和三十六年にもとのままに復元されました。室町時代建立の大練塀と桃山建築の表大門は国の重要文化財に、えびすの森は天然記念物に指定されている。
境内も広く、気持ちのいいところだ。
本日の歩行時間 6時間14分。
本日の歩数 33216歩。
本日の歩行距離 20.2km。
これで西国街道を歩き終える。結果は以下の通りである。
西国街道合計。
総歩行時間 20時間31分。
総歩数 122720歩。
総歩行距離 70.9km。
宿場間距離合計 56.7km。(これは寄り道をせず、また道を間違わずに歩いた場合の距離です)
旅の地図
記録
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2008年09月12日(金)
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2008年09月13日(土)
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2008年09月14日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん