薩摩街道を歩く

2008年06月30日(月) ~2008年11月28日(金)
総歩数:393032歩 総距離:252.6km

2008年09月23日(火)

JR肥後田ノ浦~佐敷~新水俣

                               晴れ
 小倉駅を前回と同じ5時26分に出発し、肥後田ノ浦駅に9時17分に着く。駅に着く前は左手に山が迫り、右手は海だ。トンネルがいくつもあり、海岸線スレスレまで山が迫っていることが良く分かる。左手の山が前回歩いた赤松峠なのだ。峠を歩いているときはこんな山の中を歩かず、何故平坦な海岸線を歩かなかったのだろうかと思ったが、これでは海岸を歩くことができなかったのだということがよくわかった。
  駅から出て前回歩いた街道に合流すると、「天子宮」がある。ここは景行天皇が巡幸された際、この地に上陸されたことを記念して建てられたもので、昔は境内に松の巨木が数本あり、中でも「藻掛け松」という松は宮の前を通る薩摩街道を跨いで低く垂れ、枝先は海水に浸っていたと「肥後国誌」に紹介されているということだ。
天子宮
 このあたりの旧道は狭く、人が一人通ることができる程度の幅しかない。この道を進んでいったが、間もなく3号線に出てしまった。資料では旧道が続いているようになっている。おかしいなと思いながら進んでいくと、左手に旧道らしい道が通っていることに気が付いた。その道のところに地元の方がおられたので、聞いてみるとこれが旧道だと言われる。横に坂があり、ここを下ってくるのだと言われた。
旧道細道 
 目印の「お地蔵様」もあるし、標柱も立っているので、そこから逆に遡ってみた。
お地蔵様
 そうすると先ほどの3号線に合流したところにあった民家の横に出た。
 資料に階段があるように書かれていたが、確かに階段がある。この道が旧道だったのだと確認できたので、再び今来た道を戻る。距離は短いが急な登りと下り坂である。
旧道入口の民家横階段 
  ここから先、旧道をしばらく歩いて3号線に合流するが、すぐその先に標柱が立っており、ここから再び左手旧道に入る。この標柱の立っている場所の左側に通じている道もなんとなく旧道のような雰囲気があったので、そちらのほうに行ってみた。今来た方向に戻る形になるのだが、旧道の入口がもっと前にあり、それを私が見逃したのではないかという思いがあったからだ。しかしこの道は山手のほうに向かっており、旧道ではないようだったので、元に戻って先へ進む。ここも細い道だ。
 左手に「阿弥陀堂」が建っている。
阿弥陀堂
 そのすぐ横に道が続いているので、左折して阿弥陀堂の横を進み、突き当りを右折して進むと3号線に合流する。
 その先左手に「小田浦阿蘇神社」がある。ここは神武天皇の孫で阿蘇地方を開拓したといわれる健盤龍命を祀っており、小田浦地区の氏神様だ。神殿内の小さな木彫りの狛犬像に寛政5年(1793)癸丑十月と墨書があるのでこの年につくられたのではないかと考えられているそうだ。前の建物は新しいが、裏に回ってみると奥に古い社殿が建っていた。
小田浦阿蘇神社 
 3号線から左手に入る道があり、いよいよ佐敷峠に差しかかる。道が二股に分かれているところに来る。
 佐敷峠分かれ道
 資料では右手の道は点線になっており、歩行困難となっている。しかし入口はきれいな道になっているので、ここを行ってみた。一軒の民家があり、そこから右斜めに細い道が続いている。その細道の入口に犬が繋がれており、これが猛然と吠えかかってくる。幸い鎖の長さが短いため、飛び掛られることはないが、それにしても激しく吠えられた。下っていくと小川が流れており、そこに「野添眼鏡橋」が架かっている。
野添眼鏡橋
 この橋があるということは、ここが旧道で間違いがない。ただ、橋を渡り終えると、電線が引かれており「電気棚使用中、感電に注意」の看板がかかっていて、その先には行かれないようになっている。それでももう少し進んでみようと思い、注意をしながら電線を跨いで先に進む。先はすぐに藪の中だ。先日「須田眼鏡橋」のところで道がない中、栗畑を越えて進んだことがあったが、ここはあのときの比ではなく、すごい藪が続いている。すぐ目の前を青大将と思われる大きな蛇が横切っていった。先日、赤松峠でマムシに出会ったことを思い出しながら、それでももう少し進んでみたが、藪に阻まれ、しかも直角に近い崖が立ちはだかっているので、これ以上は無理とあきらめて、元の道に戻る。
 滝の上橋があるのでこれを渡り、右折して進む。旧道はここから左折して進むようだし、ここでは道が通っているが、その先は道がなくなっており、歩行困難となっている。たった今経験したことから、どんな状況かは容易に想像することができたのであきらめて右折して進む。右手が登ろうと試みた崖だが、出口は全くなく、一面の藪だ。ここを登るのであれば、冬の草が枯れた頃だろうなと思う。
 山の中を黙々と歩く。車もめったに通らないし、人は誰もいない。静かだ。暑いので木陰の中を伝って歩くようにする。時折視界が開けて海が見え、その先に天草が見える。気持ちのいい景色だ。 
佐敷峠の海が見える場所
 「佐敷隧道」を通る。ここは国の登録有形文化財に指定されている。隧道の中は明かりがなく真っ暗で、前日までの雨の影響か、しずくが盛んに落ちていた。ただ、前方遠くに出口が見えており、下は舗装されているので、懐中電灯をつけなくてもなんとか歩くことができた。

 このあと、昼食を食べたお店の女将さんから、ここには幽霊がでるという話があり、夏場には怖いもの見たさの若者がかなりやってくるということだった。たしかに昼でも真っ暗なので、夜になるとそういった雰囲気が一層濃厚になるだろうなと思った。
 隧道を出ると、左手に「徳富蘆花」の「死の陰」にこの場所が登場しているという碑が立っていた。それによると「馬車は長い長い佐敷太郎の坂を上り切った。上り切ると長い長い隊道がある」という文章が紹介されており、徳富蘆花が夫人の愛子とともに大正2年、九州、朝鮮、南満州と旅をした時の紀行文「死の陰」に佐敷太郎峠、佐敷隧道を上記のように表現し、また、この場所からの眺望の素晴らしさを「一幅の油絵」と表現していると説明されていた。
 徳富蘆花碑
 この前にコンクリートの建物が立っており、その前を右折して進むが、道はここから下り坂になる。佐敷峠を越えたのだ。つくつく法師の鳴き声がいたるところから聞こえてくる。こんなに暑いのに、もう秋ということをセミ達はどうして感じることができるのだろうか。
 やがて佐敷の町中に入っていく。時計は12時を大分回っている。朝が早かったので腹が減ってきた。ところが一軒だけあった食堂が今日は祭日ということでお休みしている。パンを置いている店があったので、そこでパンを食べる。今朝もパンを食べてきた。そして昼食もパン。しかもパンの種類が少なく、今朝食べたパンと同じものを又食べる羽目になってしまった。食べ物に関しては何でもおいしく食べる私だが、このときはさすがにうんざりした。
 食べ終わって歩き始めるとすぐ先に「薩摩屋」の屋号を掲げた家がある。ここが本陣跡ということだ。
薩摩屋 佐敷宿
ここでカウントする。
 12時33分、佐敷宿本陣跡を通る。
 日奈久宿から9時間33分、45047歩、26.6km。
 佐敷川に架かる相逢橋を渡って進むと、左手に芦北町薩摩街道交流館があったので入ってみた。丁度何かの集まりがあったらしく、皆さんで食事をされていたので、長居をせず出発する。この前に豊臣秀吉宿泊の地(高橋安兵衛屋敷跡)という碑が立っていた。
 その先左手に勝延寺があり、その裏に山頭火の真新しい句碑が立っていた。
 「捨てきれない荷物の重さまうしろへ」
 湯谷川に架かる五本松橋の手前を渡らず右折する。横に坂道を登っていく道があり、そこに街道の標柱が立っていたので、その道に入ってみたが、草が生えていて歩くことができる状態ではなかったので、下へ降り、川に沿った道を進む。このあたりも旧道は失われているようだった。
 やがて道は上り坂になり、清掃センターが右手にあるところまでくる。この前に「湯冶坂板碑」が立っている。これは昭和49年に発見されたもので、安山岩の自然石を利用して建立されており、文明12年(1480)庚子3月23日建立の記録がある。これは芦北地方最古の板碑と説明されていた。
 湯冶坂板碑
 山を下ってくると外平という地区に出るので、ここを左折して進む。湯浦川に架かる湯町橋を渡る。ここにも標柱が立っている。薩摩街道は標柱が数多く立っており、歩く上でとても助かる。
 湯浦の信号で3号線を横切って、その先の道を左折して進むと右手に星野富弘美術館が立っている。入ってみようかと思い、建物の前まで行ったが、入らず先に進むことにする。
 この先で道は二つに分かれる。右へ行く道は旧道なのだが、ここも歩行困難となっているので、左斜めの道を進み、その先で3号線に合流する。
 しばらく3号線を歩き、大きく右折するところで、3号線から別れて直進し、旧道に入らなければいけなかったのだが、うっかり見落としてしまい、そのまま3号線を歩いてしまった。3号線は車の通行量が多く、歩道があっても歩くのはイヤなので、できれば旧道に入りたいと思っていたのだが、大失敗をしてしまった。 左手には田んぼが広がっており、彼岸花がいくつも咲いていた。
 彼岸花
 ここでももう秋なのだなぁ、と思いながら歩いていると、津奈木隧道があった。地図には旧道に津奈木隧道があり、国道のほうは津奈木トンネルとなっている。なんとなくおかしいなと思いながらトンネルを越える。ここは総延長522mと長く、しかも歩道がないのですぐ横を車が通り過ぎていく。ヒヤヒヤしながら、なんとか通り抜けて進むと、右側にいかにも旧道らしい道が合流しているではないか。ありゃ、と思って地図をもう一度見直すと、確かにトンネルを抜けたところで旧道と合流するようになっている。また道を間違ったのだ。どうするか。もう一度ここから旧道を逆に遡って道を確認しようかと思ったが、もう時間は15時だ。日暮れが早くなっているこの時期、もうひとつ津奈木峠を越えなければいけない。それに今日はとにかく暑くてかなりバテている。そう思って、残念ながらそのまま先へ進むことにする。 
  右手に「孝女千代塚」があるので行ってみた。
 そうするとそのすぐ前に旧道の出口がある。資料ではこの道も歩行困難な道となっている。これから先は藪で覆われていて道がなくなっているようだ。
 千代塚にはいくつかの碑が立っている。約300年前、7歳のときに父を、その2年後に母を亡くし、60歳を越えた祖父母を助けながら孝養を尽くした千代のことを藩主が知り、貞享2年に表彰されたということが説明されていた。
 このあたりの地名もここから来て千代となっていた。
千代塚
 亀満醸造元のところから右斜めへ進む旧道に入って進むと右手山の上に「重磐岩」がある。これは熊本百景の一つで津奈木町の中心にそびえている。昔溶岩が固まってできた岩で火砕流の堆積物と考えているということだ。この頂上付近には津奈木城があった。
重磐岩
 また山裾の津奈木川には「重磐岩眼鏡橋」が架かっている。これは嘉永2年(1849)津奈木総庄屋江藤三郎左衛門為経の尽力で建てられ、全長18m、幅4.5m、アーチの頂上は18mあり、アーチの上に乗る石積みが少なく、アーチそのものの機能的な美しさ、堅牢さと軽快さを感じさせる美しい橋という説明がなされていた。
 重磐岩眼鏡橋
 ここから先で道を間違った。
 肥薩おれんじ鉄道を越えて進まなければいけないのだが、そのまま直進してしまい、津奈木駅に出てしまったのだ。これはおかしいと思って引き返し、跨線橋を越えて進む。ここから峠を越えていかなければいけないのだが、道が良く分からなかったので近くにおられた方に聞いてみると、山越えをしなければならず、今は藪になってしまっていて歩くことができないといわれてしまった。仕方がないのでもとに戻り、3号線に沿って歩いていく。途中で旧道が3号線に合流する道があったはずなのだが、どれがそれなのかわからなかった。その先も資料では3号線に並行して旧道があるようになっていたが、全く道らしきものは見当たらなかった。唯一、右手にコスモス薬品が立っているところで、その向こう側、小川の先に旧道があるのを見つけたが、そこへの入口が見つからなかったので、コスモス薬品の先から合流した。
  そこには前田の石橋という旧道らしい橋が架かっており、そこを進むと、そのすぐ先で3号線に合流してしまった。
前田橋
 また、その先、肥薩おれんじ鉄道の石木田踏切のところに「追分地蔵」が立っており、その向かい側3号線の向こう側に旧道があるような感じだったが、一面の藪になっており分からなかった。
追分石
 結局、新水俣駅まで3号線を歩いて到着する。
 18時28分に到着。
 ちなみに佐敷宿からここまで19.5kmだった。
 今日の宿は水俣にある。今日の予定では水俣まで歩くことにしていたのだが、大分遅れてしまった。最大の原因は暑さ。どうにも暑さに弱い、というかこの時期、この暑さは異常だと思う。
 いずれにしても新水俣には宿がないのだ。
 ところが新水俣から水俣までの肥薩おれんじ鉄道は一時間に一本しかなく、かなりの時間待たなければいけない。仕方がないのでタクシーで水俣まで行く。

 本日の歩行時間  9時間11分
 本日の歩数&距離 50491歩、33km。