2008年06月30日(月)
熊本~川尻~宇土~小川~JR有佐駅~JR八代駅
雲り時々晴れ
朝6時に家を出て熊本城札ノ辻に8時35分に到着する。空は曇っていて日差しがないので助かるが蒸し暑い。
札ノ辻から明八橋までは前回歩いているが、今日は薩摩街道のスタートということで改めて札ノ辻から歩き始める。
ところが今日は最初から大失敗をしてしまった。スタート地点でGPSをセットしたつもりだったのだが、うまくセットされておらず、今日一日歩いた情報が記憶されていないことに編集段階で気がついた。仕方がないので資料を見ながら,今日歩いた道を記憶を頼りに再現して地図上に落としています。こうして地図を見ながら検証してみると、幸いにして今日は道を間違った箇所が少なかったということもあって、どこでどう間違ったかが非常によく分かりました。
札ノ辻から直進し、突き当りを右折して進んだ電車道に諸毒消丸、「松花堂」という看板を掲げた旧い屋敷がある。創業は江戸末期、文政年間(1840年ころ)、佐賀鍋島藩の御典医でシーボルトの弟子だった初代吉田順碩が、熊本に来て毒消丸を創製、販売したのが始まりといわれている。この薬は今も製造販売されており、どうき、いきぎれ、夜泣き、ひきつけ、下痢、消化不良に効くということだ。
電車通りを進むと「長崎次郎書店」がある。ここは中国風の美しい建造物で、明治7年に創業、現在の建物は大正13年に東京帝国大学工科大学卒業の保岡勝也が設計をしたもので、木造2階建、レンガ壁、2階の連続したアーチや軒廻りの装飾等に特色がある。国指定、登録有形文化財で現在も営業を続けている。
電車通りはここから左へ曲がっているが、旧道は直進する。
坪井川に架かる「明八橋」がある。この橋は新町三丁目と唐人町を結んでおり、旧藩時代には新三丁目橋と呼ばれていた。この橋を渡って新町に入るところに新町三丁目御門があり、明六つに開き、暮六つに閉ざされていた。この御門は明治8年に撤去され、同時に橋も板橋から石造の眼鏡橋に架け替えられた。この架け替えられた年にちなんで明八橋と名付けられたと説明されている。
この橋を渡り、突き当たりを左折して進む。このあたりを唐人町といい、旧い建物が今でも所々に残っている。
しばらく進んだところで右折して白川に架かる長六橋を渡る。昔はこの橋の横あたりに渡し場があったようだ。
橋を渡って右折し二つ目の角を左折して進まなければいけないのだが、最初の角で左折してしまった。そのため迎町の信号のところで道がわからなくなり迷ってしまった。今日は最初からつまずいてしまったなぁとぼやきながら、それでも何とか旧道に戻ることができた。
3号線に並行して走る旧道をしばらく歩いた後、3号線に合流し、熊本県民テレビの先から左手旧道に入り、その後、右斜めに進んで3号線を横切って進む。
日吉保育園の先に「一里木跡碑」があった。今日は最初から道を間違っており、なんとなく歩いている道に自信を持てなくなっていたので、この碑をみて道を間違っていないことが確認できてホッとする。
ここから先、川尻駅前のところまで旧道を歩く。3号線は車が多くうるさいが、旧道は車が少なくて歩きやすい。
川尻宿の本陣跡がどこにあるのかわからなかったので人に聞くと、新町橋を渡る手前の旧道から少し右側に入ったところに、本陣跡が立っていると教えていただいたので行ってみる。基本的に本陣というのは街道に面して立っている場合が多いのだが、と思いながら行ってみた。途中に瑞鷹という造り酒屋があった。ここも旧い造りの建物だった。
この先に本陣跡はあった。西南の役で薩軍が本陣として使ったという表示板が立っていた。他に本陣跡の遺構は特になかったので、ここでカウントすることにする。
ここでまたもチョンボ。携帯の万歩計の表示がいつの間にか「しっかり歩数」になっていたことに気がつかなかったのだ。このことは宇土宿で初めて気がついた。そのため宇土宿までは歩数カウントできなかった。この「しっかり歩数」、ボタンを押すことで簡単に表示が切り替わるので、切り替えようと思わなくてもつい指の先が当たったりして切り替わっている場合がある。しかも画面表示のレイアウトが普通の歩数表示と全く同じなので、切り替わったことに気がつかないのだ。せめて画面表示のレイアウトが異なっていれば、表示が切り替わっていることに気がつくのだが。以前にも同じ失敗を繰り返しているので何とかならないものかと思う。
11時15分、川尻宿を通る。
熊本城札ノ辻から2時間40分、9.4km。
新町橋を渡って旧道を行き、緑川に架かる緑川橋を渡る。渡り終えて右折しなければいけないのだが、前を見ると道の右側に渡る歩道がない。しかたがないので橋の横についている道を左側からグルッと回って橋の下を通り、緑川の堤防沿いを歩く。最初から橋の右側の歩道を歩いていれば問題なかったのだが、初めて通る道なのでこうした無駄がどうしても出てくる。
この堤防から下へ下りる道も分かりにくかった。左手下に若宮神社があり、その少し先に「小岩瀬→」と書かれた看板がでていたので、これに沿って下って進む。
やがて国町橋を渡る。これも貴重な目印の一つだ。
「三里木跡碑」が立っている。
宇土の本陣跡は全く遺構が残っておらず、手がかりは「歴史の道調査報告書」で記載されている場所のみだったので、大体の目処の場所でカウントする。
12時23分、宇土宿を通る。
川尻宿から1時間8分、5.2km。
このあたりは旧道が失われているようでわかりにくかった。
潤川に架かる三拾町橋を渡って進む。
西安寺が前方に見えてくるところから右に入る道があり、これを進み、西安寺の前からこれを右にみて進む。
宇土市内に入る。昼を少し過ぎており、昼食をしなければいけないのだが店がない。道に沿ったところにあったお店のオバサンに食堂の場所を聞くと、街道から少し入ったところにあるというので行ってみた。飢餓状態に弱いので昼食は必須なのだ。中華料理の店があり、その横に「天草四郎ゆかりの里」の碑が立っていた。天草四郎時貞はキリシタン大名小西行長の遺臣であった増田甚兵衛の子で、元は益田四郎時貞といい、洗礼名はジェロニモ、後にフランシスコと改めた。この付近(宇土市旭町江部)に住んでいたと伝えられている。首領になったのは16歳のときで、戦いに際し、江部に住んでいた四郎の母、姉妹は捕らえられ、原城に立て籠もっていた一揆軍に対して降伏を促すための人質になったと説明されている。
なお、食堂はこれから先の街道沿いにも数件あったことを付記しておきます。
街道に戻ると「芭蕉塚」があった。これは松尾芭蕉を偲んで建てられた句碑で、熊本県内に35あるといわれている。この塚は安永7~8年(1778~1778)にかけて作られており、宇土細川藩六代藩主與文公の家臣で俳人として有名だった佐方作左衛門武信の十三回忌を機に作られたと推測されているそうだ。
本町一丁目の角に高札場跡の看板が立っていたが、遺構は何も残っていなかった。
この後も淡々と歩く。午前中は蒸し暑かったが、それでも曇っていたのでまだよかったが、昼頃から日が照りだした。照るとさすがに暑い!
西田鉄工の工場のところで14号線と合流し、しばらく14号線を歩いた後、不知火町御領の信号からY字路を右斜めに進んで再び旧道に入る。右手に松崎駅のあるところから左折して181号線を進む。
右手に松橋中学があるところに「五里木跡」の標識が立っていた。
その先石山歯科クリニックが左手にあるところで右折して進むと、左手に熊本県宇城総合庁舎がある。この先から右側の旧道に入るのだが、ここで道を間違えた。この後、熊本県第一自動車運転免許試験場の手前で3号線と合流しなければいけないのだが、細い道に迷い込んでしまい、分からなくなってしまったのだ。丁度中学生が通りかかったので道を聞くと親切に案内をしてくれた。これまでもそうだがこうして中高生に助けられることが多い。
3号線にでて豊福小学校の裏側へ進むところに「心吉」という場所がある。第12代景行天皇が熊襲征伐で進軍してきた際、この地で休憩をとられた。丁度太陽が東の山から昇り、さわやかな朝の海風が吹き渡ったので天皇は思わず「快し」と申され、後日この地一帯を「心吉(こころよし)」と名づけたという説明版が立っていた。
右手にヤマックスの工場があるところから3号線と別れて左に進む。三軒屋橋を渡ると「三軒屋番所、関所跡」の碑が立っている。
その後すぐに3号線に合流し、小川町北新田の信号から再び旧道に入る。このあたりは3号線と旧道を何度も出入りする。
「七里木跡」がある。このあたりは分かりにくい道だが、、この標識を見て道を間違っていないことを確認できた。七里ということは28kmの距離のはずだが、すでに万歩計は5万歩を越えている。道を間違ったりして大分余分な歩数が出ているようだ。
西北小川の信号で3号線を横切って進むと、街道から少し離れたところに「風の館塩屋」という建物があったが、すでに17時を回っており閉まっていた。ここは資料館になっているようだった。
ここを小川宿としてカウントする。
17時17分、小川宿を通る。
宇土宿から4時間54分、17.6km。
ここから元に戻って苅萱橋を渡って進むと乱橋古戦場、高塚装飾古墳、高塚板碑と書かれた表示板が立っていた。ただ立ち寄ることはしなかった。
このあたりは古墳群があるようで、この先にも太尾古墳や野津古墳群の表示板が立っていた。
左側に北川公民館があり、その少し先から左手の旧道に入る。ところがmap sourceの地図にはこの道が記載されていない。最初に書いたようにGPSの記録が残っていないのでちょっと困ったが、それでも手持ちの資料を参考にして大体の感覚で地図上に歩いた跡を記載しています。八里木跡を過ぎると法導寺があり、境内に大きな楠が立っていた。ここも縁起を書いたものがなかったため、由来はわからなかった。
今日も歩いていて街道沿いに数多くのお寺やお地蔵様があったが、そのほとんどに縁起を書いたものがなかったので由来がわからなかった。他の場所と比較して、この街道は記載が少ないように感じた。ちょっと残念だった。
18時32分、氷川に架かる氷川橋を渡ったところで、今日の歩きは終わることにし、ここからJR有佐駅まで歩き、JRで八代駅まで行って、今日の宿である球磨川旅館に19時5分に入る。
本日の歩行時間 9時間57分。
本日の総歩数&距離 61731歩、40.1km。
朝6時に家を出て熊本城札ノ辻に8時35分に到着する。空は曇っていて日差しがないので助かるが蒸し暑い。
札ノ辻から明八橋までは前回歩いているが、今日は薩摩街道のスタートということで改めて札ノ辻から歩き始める。
ところが今日は最初から大失敗をしてしまった。スタート地点でGPSをセットしたつもりだったのだが、うまくセットされておらず、今日一日歩いた情報が記憶されていないことに編集段階で気がついた。仕方がないので資料を見ながら,今日歩いた道を記憶を頼りに再現して地図上に落としています。こうして地図を見ながら検証してみると、幸いにして今日は道を間違った箇所が少なかったということもあって、どこでどう間違ったかが非常によく分かりました。
札ノ辻から直進し、突き当りを右折して進んだ電車道に諸毒消丸、「松花堂」という看板を掲げた旧い屋敷がある。創業は江戸末期、文政年間(1840年ころ)、佐賀鍋島藩の御典医でシーボルトの弟子だった初代吉田順碩が、熊本に来て毒消丸を創製、販売したのが始まりといわれている。この薬は今も製造販売されており、どうき、いきぎれ、夜泣き、ひきつけ、下痢、消化不良に効くということだ。
電車通りを進むと「長崎次郎書店」がある。ここは中国風の美しい建造物で、明治7年に創業、現在の建物は大正13年に東京帝国大学工科大学卒業の保岡勝也が設計をしたもので、木造2階建、レンガ壁、2階の連続したアーチや軒廻りの装飾等に特色がある。国指定、登録有形文化財で現在も営業を続けている。
電車通りはここから左へ曲がっているが、旧道は直進する。
坪井川に架かる「明八橋」がある。この橋は新町三丁目と唐人町を結んでおり、旧藩時代には新三丁目橋と呼ばれていた。この橋を渡って新町に入るところに新町三丁目御門があり、明六つに開き、暮六つに閉ざされていた。この御門は明治8年に撤去され、同時に橋も板橋から石造の眼鏡橋に架け替えられた。この架け替えられた年にちなんで明八橋と名付けられたと説明されている。
この橋を渡り、突き当たりを左折して進む。このあたりを唐人町といい、旧い建物が今でも所々に残っている。
しばらく進んだところで右折して白川に架かる長六橋を渡る。昔はこの橋の横あたりに渡し場があったようだ。
橋を渡って右折し二つ目の角を左折して進まなければいけないのだが、最初の角で左折してしまった。そのため迎町の信号のところで道がわからなくなり迷ってしまった。今日は最初からつまずいてしまったなぁとぼやきながら、それでも何とか旧道に戻ることができた。
3号線に並行して走る旧道をしばらく歩いた後、3号線に合流し、熊本県民テレビの先から左手旧道に入り、その後、右斜めに進んで3号線を横切って進む。
日吉保育園の先に「一里木跡碑」があった。今日は最初から道を間違っており、なんとなく歩いている道に自信を持てなくなっていたので、この碑をみて道を間違っていないことが確認できてホッとする。
ここから先、川尻駅前のところまで旧道を歩く。3号線は車が多くうるさいが、旧道は車が少なくて歩きやすい。
川尻宿の本陣跡がどこにあるのかわからなかったので人に聞くと、新町橋を渡る手前の旧道から少し右側に入ったところに、本陣跡が立っていると教えていただいたので行ってみる。基本的に本陣というのは街道に面して立っている場合が多いのだが、と思いながら行ってみた。途中に瑞鷹という造り酒屋があった。ここも旧い造りの建物だった。
この先に本陣跡はあった。西南の役で薩軍が本陣として使ったという表示板が立っていた。他に本陣跡の遺構は特になかったので、ここでカウントすることにする。
ここでまたもチョンボ。携帯の万歩計の表示がいつの間にか「しっかり歩数」になっていたことに気がつかなかったのだ。このことは宇土宿で初めて気がついた。そのため宇土宿までは歩数カウントできなかった。この「しっかり歩数」、ボタンを押すことで簡単に表示が切り替わるので、切り替えようと思わなくてもつい指の先が当たったりして切り替わっている場合がある。しかも画面表示のレイアウトが普通の歩数表示と全く同じなので、切り替わったことに気がつかないのだ。せめて画面表示のレイアウトが異なっていれば、表示が切り替わっていることに気がつくのだが。以前にも同じ失敗を繰り返しているので何とかならないものかと思う。
11時15分、川尻宿を通る。
熊本城札ノ辻から2時間40分、9.4km。
新町橋を渡って旧道を行き、緑川に架かる緑川橋を渡る。渡り終えて右折しなければいけないのだが、前を見ると道の右側に渡る歩道がない。しかたがないので橋の横についている道を左側からグルッと回って橋の下を通り、緑川の堤防沿いを歩く。最初から橋の右側の歩道を歩いていれば問題なかったのだが、初めて通る道なのでこうした無駄がどうしても出てくる。
この堤防から下へ下りる道も分かりにくかった。左手下に若宮神社があり、その少し先に「小岩瀬→」と書かれた看板がでていたので、これに沿って下って進む。
やがて国町橋を渡る。これも貴重な目印の一つだ。
「三里木跡碑」が立っている。
宇土の本陣跡は全く遺構が残っておらず、手がかりは「歴史の道調査報告書」で記載されている場所のみだったので、大体の目処の場所でカウントする。
12時23分、宇土宿を通る。
川尻宿から1時間8分、5.2km。
このあたりは旧道が失われているようでわかりにくかった。
潤川に架かる三拾町橋を渡って進む。
西安寺が前方に見えてくるところから右に入る道があり、これを進み、西安寺の前からこれを右にみて進む。
宇土市内に入る。昼を少し過ぎており、昼食をしなければいけないのだが店がない。道に沿ったところにあったお店のオバサンに食堂の場所を聞くと、街道から少し入ったところにあるというので行ってみた。飢餓状態に弱いので昼食は必須なのだ。中華料理の店があり、その横に「天草四郎ゆかりの里」の碑が立っていた。天草四郎時貞はキリシタン大名小西行長の遺臣であった増田甚兵衛の子で、元は益田四郎時貞といい、洗礼名はジェロニモ、後にフランシスコと改めた。この付近(宇土市旭町江部)に住んでいたと伝えられている。首領になったのは16歳のときで、戦いに際し、江部に住んでいた四郎の母、姉妹は捕らえられ、原城に立て籠もっていた一揆軍に対して降伏を促すための人質になったと説明されている。
なお、食堂はこれから先の街道沿いにも数件あったことを付記しておきます。
街道に戻ると「芭蕉塚」があった。これは松尾芭蕉を偲んで建てられた句碑で、熊本県内に35あるといわれている。この塚は安永7~8年(1778~1778)にかけて作られており、宇土細川藩六代藩主與文公の家臣で俳人として有名だった佐方作左衛門武信の十三回忌を機に作られたと推測されているそうだ。
本町一丁目の角に高札場跡の看板が立っていたが、遺構は何も残っていなかった。
この後も淡々と歩く。午前中は蒸し暑かったが、それでも曇っていたのでまだよかったが、昼頃から日が照りだした。照るとさすがに暑い!
西田鉄工の工場のところで14号線と合流し、しばらく14号線を歩いた後、不知火町御領の信号からY字路を右斜めに進んで再び旧道に入る。右手に松崎駅のあるところから左折して181号線を進む。
右手に松橋中学があるところに「五里木跡」の標識が立っていた。
その先石山歯科クリニックが左手にあるところで右折して進むと、左手に熊本県宇城総合庁舎がある。この先から右側の旧道に入るのだが、ここで道を間違えた。この後、熊本県第一自動車運転免許試験場の手前で3号線と合流しなければいけないのだが、細い道に迷い込んでしまい、分からなくなってしまったのだ。丁度中学生が通りかかったので道を聞くと親切に案内をしてくれた。これまでもそうだがこうして中高生に助けられることが多い。
3号線にでて豊福小学校の裏側へ進むところに「心吉」という場所がある。第12代景行天皇が熊襲征伐で進軍してきた際、この地で休憩をとられた。丁度太陽が東の山から昇り、さわやかな朝の海風が吹き渡ったので天皇は思わず「快し」と申され、後日この地一帯を「心吉(こころよし)」と名づけたという説明版が立っていた。
右手にヤマックスの工場があるところから3号線と別れて左に進む。三軒屋橋を渡ると「三軒屋番所、関所跡」の碑が立っている。
その後すぐに3号線に合流し、小川町北新田の信号から再び旧道に入る。このあたりは3号線と旧道を何度も出入りする。
「七里木跡」がある。このあたりは分かりにくい道だが、、この標識を見て道を間違っていないことを確認できた。七里ということは28kmの距離のはずだが、すでに万歩計は5万歩を越えている。道を間違ったりして大分余分な歩数が出ているようだ。
西北小川の信号で3号線を横切って進むと、街道から少し離れたところに「風の館塩屋」という建物があったが、すでに17時を回っており閉まっていた。ここは資料館になっているようだった。
ここを小川宿としてカウントする。
17時17分、小川宿を通る。
宇土宿から4時間54分、17.6km。
ここから元に戻って苅萱橋を渡って進むと乱橋古戦場、高塚装飾古墳、高塚板碑と書かれた表示板が立っていた。ただ立ち寄ることはしなかった。
このあたりは古墳群があるようで、この先にも太尾古墳や野津古墳群の表示板が立っていた。
左側に北川公民館があり、その少し先から左手の旧道に入る。ところがmap sourceの地図にはこの道が記載されていない。最初に書いたようにGPSの記録が残っていないのでちょっと困ったが、それでも手持ちの資料を参考にして大体の感覚で地図上に歩いた跡を記載しています。八里木跡を過ぎると法導寺があり、境内に大きな楠が立っていた。ここも縁起を書いたものがなかったため、由来はわからなかった。
今日も歩いていて街道沿いに数多くのお寺やお地蔵様があったが、そのほとんどに縁起を書いたものがなかったので由来がわからなかった。他の場所と比較して、この街道は記載が少ないように感じた。ちょっと残念だった。
18時32分、氷川に架かる氷川橋を渡ったところで、今日の歩きは終わることにし、ここからJR有佐駅まで歩き、JRで八代駅まで行って、今日の宿である球磨川旅館に19時5分に入る。
本日の歩行時間 9時間57分。
本日の総歩数&距離 61731歩、40.1km。
旅の地図
記録
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2008年06月30日(月)
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2008年07月01日(火)
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2008年07月07日(月)
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2008年09月23日(火)
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2008年09月24日(水)
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2008年09月25日(木)
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2008年11月26日(水)
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2008年11月27日(木)
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2008年11月28日(金)
プロフィール
歩人
かっちゃん