薩摩街道(豊前街道)を歩く

2008年06月23日(月) ~2008年06月27日(金)
総歩数:183161歩 総距離:112.9km

2008年06月26日(木)

船小屋~瀬高~原町~南関~山鹿

                                    曇り
 家を6時15分に出発し、前回歩いた船小屋水洗小学校前に到着、8時45分に出発する。Y字路の左側に進んでいく。左手に矢部川の堤防が見え、そこまでは草原が広がっている。
 九州新幹線の工事が急ピッチで進んでいる。この光景はこれから歩いていく先々でも見かけた。
 このあたりは旧道の雰囲気が残っているが、閑散としている。しばらく行くと農家の方が田植えをしていた。今は田植えのシーズンだ。
 瀬高宿に入ると旧い酒造場がある。富貴鶴という銘柄のようだ。
 「八坂神社」がある。鳥居には宝永(1704~)の文字が刻まれており、境内には大木が立っていて、歴史を感じさせる神社だ。
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 そのすぐ前に「来迎寺」がある。ここは薩摩藩主島津候が参勤交代のときに泊まっていたところと聞いていたので、境内に入って行き、お寺の方がおられたので聞いてみたのだが、分からないということだった。ただお寺の造りから見て、それなりの格のあるお寺のようだった。
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 瀬高宿は上庄と下庄に宿場は分かれていたということだったが、どちらも遺構は残っていなかったので、ここを瀬高宿としてカウントする。
 10時5分、瀬高宿を通る。
 羽犬塚宿から2時間17分、14573歩、9.4km。
 矢部川に架かる瀬高橋を渡り、すぐに右折したところが瀬高宿下庄の宿場だったようだ。菊美人の醸造元はあったが遺構は全く残っていなかった。上庄と下庄は矢部川をはさんで対岸にある。雨が降ったときなどに川沿いの宿で水が引くのを待っていたのではないかと想像した。
 このすぐ先、新町公民館の前に「伊能忠敬測量基点の碑」が立っていた。この地方を測量する際にこの場所を基点としたということだ。
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 静かな旧道を通り、JR鹿児島本線の踏切を渡ってすぐのところに「二里石」が立っていた。これは柳河城下札ノ辻からの距離を示すもので、復元されたものだ。
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 ここから小川の横の細道を通っていく。すぐ横に443号線が通っているが、この道は車も通らず歩きやすい。
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 やがて443号線に合流し、松田東の信号の先、矢部川水系の大根川を渡ると左折して旧道に入る。
 しばらく行くと竹林に入る。道の両側が竹林となっており、その中を道は通っている。中々に風情がある道だ。
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 竹林を抜けると再び443号線に出る。ここは歩道がなく車の交通量も多くて歩きにくい。
 道の左手に「三里石」があり、その横に説明板が立っている。それによると筑後藩主田中忠政は父の意志を継いで慶長17年(1612)柳河城下札ノ辻を基点として一里塚を設けた。この三里石は三里とのみ刻まれている。
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 山川町尾野にくると「天満宮、祇園宮」の鳥居が並んでたっており、奥にお社があった。この鳥居には明和(1764~)の文字が刻まれていた。ここもかなり旧い鳥居だ。
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 少し先に食堂があったのでとりあえず昼食にする。今日は時間が早かったということもあってすぐに食べることができ、20分ほどで出発することができた。
 原町宿も遺構は全く残っていない。原町郵便局の近くが御茶屋跡だったということなのでここでカウントする。
 12時38分、原町宿を通る。
 瀬高宿上庄宿から2時間33分、12166歩、6.2km。
 郵便局のすぐ横に原町のお観音さんがある。これは元禄7年(1693)清水寺の隆尚法印によって建立され、本尊は千手観音と馬頭観音を祀っている。
 毎年旧暦8月17・18日は観音様の縁日で賑わったそうで、「買ってくれんの」という珍しい風習があったそうだ。
 土地の娘子が参詣に来た男達に「買ってくれんの」と言って腕にすがる。男は一言話をしただけの娘子に物を買ってやるのである。男達はその十七夜のために働いて貯蓄し、観音様に参詣したといわれる。娘子達は縁日が終わるころ、お互いに買ってもらった品々を見せ合って自慢したということだ。
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 道の左側に若松屋木工所という看板を出しているところがあり、そこから右折して一旦旧道に入るが、すぐにまた443号線に合流する。
 九州自動車道をくぐるところに「四里石」がある。これは高速道路建設の際なくなっていたため、町で元の場所に復元したものということだ。
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 北関のあたりで443号線の右手に細い旧道があり、そこを通ると聞いていたのだが、どこにあるのかわからなかったので443号線をそのまま進み、吉田製材所の手前から右折して高速道路をくぐって進む。このあたりで旧道と合流するはずなのだが、旧道はわからなかった。
 「湯谷柳川境界石」が二本立っていた。新旧二本の境界石は江戸時代に筑後柳川藩と肥後熊本藩の国境を示すために建てられたもので、旧いほうは江戸時代初期に立てられたものと思われ一辺36cmの四角柱の花崗岩で作られている。三つに折れて中段と下段だけが残っており、現在高は3m、表面に「(従是西)北筑後国立花(左近将監)領内柳河札辻ヨリ是迄四里二十町余」( )内は推定、と刻まれている。新しい方は旧い方が折れたため、江戸時代末期に取り替えられたものと思われており、一辺35cm、高さ3.7m、良質砂岩の四角柱材で作られている。これには「従是西北筑後国柳河領従柳河札辻四里二十町余」と刻まれている。
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 このあたりから熊本県南関町に入るのだが、表示板が所々に立っている。これがなかなかいいのだ。小さくてコストはあまりかかっていないようだし、また、置いている場所が実に絶妙な場所、迷いそうな場所に的確に立っている。歩く人間の立場に立った設置の仕方なのでとても助かった。こういう表示板を見るとうれしくなってしまう。
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 「11里木跡」の木杭が立っている。これは熊本城札ノ辻からの距離だ。いよいよ熊本県に入ったのだという実感が湧いてくる。
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 だれもいない静かな山の中をしばらく歩いていき、一旦高速道路の下をくぐって443号線に出て歩くと道の駅があり、その先、南関町関東の信号を右折して直進する。
 御典医屋敷跡の空き地があり、その中を通って右手に上っていくと「南関御茶屋」が復元されていた。
 ここは嘉永5年(1852)に完成したもので熊本藩主細川候のみならず、宇土細川家、人吉藩主相良家、薩摩藩主島津家も参勤交代の折に度々利用していたと記録されているそうだ。ここは明治20年代に個人の所有となって民家や料亭として利用されており、昭和3年には北原白秋の歓迎会も行われたということだ。平成15年国の史跡として指定され、保存修理されたと説明されていた。
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 ここでカウントする。
14時49分、南関宿本陣跡を通る。
 原町宿から2時間11分、12192歩、10.1km。
 ここを出て進むと南関町役場があり、これを左折して進む。
 「正勝寺」がある。室町後期永正3年(1506)道栄によって創建されたお寺で、明治10年西南の役の際は征討総督有栖川熾仁親王が大本営を置き、高瀬・山鹿方面への出兵の指揮を執ったところだ。
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 このあたりから西南の役跡が急に多くなる。このあたりが激戦地だった様子が伺われる。
 「姫塚」がある。ここは城を逃れていた武士の娘が小原城が焼け落ちるのを見てこの地で自害したということだが、何という姫でどのような立場の人だったのかは説明されていなかった。
 「追分石」が立っていたがなんと刻まれていたのか解読できなかった。
 「十里木跡の木杭」が立っている。五街道では塚だったが、この街道では塚はなく木が立っていたようだ。熊本まで後40kmのはずだ。(実際には道を間違ったりして、はるかにオーバーしてしまうのだが)。
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 このあたりも山の中の道だ。だれも通っていない道を一人黙々と歩く。
 小原茶屋跡があったが、表示板のみが立っており、遺構は何も残っていなかった。
 「官軍墓地」がある。西南の役で戦死した政府軍の兵士を埋葬した墓地で熊本県内には21カ所作られている。ここは墓碑数180墓を数え、その大半は明治10年3月12、15日の鍋田、平山(現山鹿市)の戦闘で戦死した人ということだ。
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 肥猪町茶屋跡があったが、碑が立っていたのみで遺構は残っていない。
 「九里木跡」へ向かう途中で左手に曲がる道があったが、そのまま直進してしまった。距離としては僅かな距離で、すぐに合流したのでそのまま進むことにする。
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 時刻はもう16時20分になっている。周囲は次第に夕方の様相を呈してきている。地図を見ると、これからしばらくは更に山の中を通るようになっている。山の中で暗くなるのはイヤだと思い先を急ぐ。
 だれもいないので道を間違わないように気をつけながら歩いていくと「六本松」があった。
 昔から昭和初期までこのあたりには木立はなく見晴らしがよかったが、六本の松のみがそびえ、遠くから街道を旅する人の目印となった。坂を登りつめた人はここで汗を拭き、休息したことから「六本松」の地名ができた。その後、松は枯れたがかわりに植えた楠が大きく育ち、その根元には今も松の残根がある。ここは旧三加和町(北側)、旧菊水町(南側)、南関町(西側)の町境だったので遠くへ旅立つとき、あるいは帰ってくるときの送迎の場とされたと説明されている。
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 ここは現在は和水町となっているが、南関町を抜けてようやく和水町に入ったのだ、という感じを持った。当時も同様な感想を持った旅人が多かったに違いないと思った。
 白坂を越える。昨日までの雨で下は濡れており、しかも木が繁っているので苔が生えていて滑る。気をつけながら且つ急ぎ足で歩く。鬱蒼とした山の中で周囲は薄暗い。このあたりは昔の風情を色濃く残している場所であると説明されている。
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 白坂を越えると平地に出た。民家もあるのでやれやれと思ったが、平野橋を渡るとすぐにまた山の中だ。
 ここで道を間違えた。Y字路があり、これを右に進んでしまったのだ。最初は舗装された道だったのでそのまま歩いていったが、やがて舗装はなくなって草道になり、その先は道が消滅しているようだ。これはいけないと思って急いで引き返す。
 夕暮れが刻々と近づいてきているので一刻も猶予がならないのだ。元に戻って左側の道を上っていくと豊前街道の標識が立っていたのでホッとする。ここも竹林の中だ。
 「八里木跡」がある。このあたりは鋭角に曲がることから「ヒジ曲がり」と呼ばれている。
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 九里木から一里、4kmほど山の中を歩いたことになる。ここでようやく山を抜けたと思ったが、まだ先があった。
 右手に「光行寺」がある。ここは室町末期天文7年(1538)横手将監によって創建された旧いお寺だ。寺の境内には南北朝の至徳2年(1385)道寿禅門を祀った宝塔がある。このことからこの地は南北朝以前から開け、信仰も厚く財力を有する豪族がいたことを証明している。門の軒瓦には細川候の「九耀の紋」が入っている。
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 この横に「下岩官軍墓地」がある。墓碑数は134基で明治10年3月3日の鍋田(現山鹿市)、岩(現和水町)方面の戦闘で戦死した兵士の墓だ。
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 やがて再び山の中に入り「腹切坂」を上る。永ノ原台地から寺本に入る200mの急坂で慶安4年(1651)「御帳之控」にすでに腹切坂の名が見え、また「小倉路」にも「下り急長し」の記載があるようだ。
 昔、西国の武士がひょんなことから人を殺し、仇と狙う若い武士から逃れようと諸国を逃げ回っていたが、所詮逃げられぬと観念し、この坂の途中で腹を切ったということだ。また源平合戦に敗れた平氏落ち武者のある武将が、更には肥後細川家への大事な書状を預かった飛脚がいずれもこの坂で腹を切り、覚悟の死を遂げたと説明されている。
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 「西南の役、薩軍の墓」の標識が立っており、後ろにある森の中に墓地があると書かれていたので行ってみたが、木が繁っており分からなかった。
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 「西南の役古戦場跡」の標識が立っている。明治10年2月から3月にかけてこのあたりは激しい戦闘が繰り返されていたのだ。
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 その横にハゼ並木が残っている。当時、蝋の需要が増えたことで細川藩がハゼから蝋を作ることに乗り出し、18世紀後半に植えたもので現在も17、18本の樹齢約250年のハゼが残っている。
 「玉名、山鹿郡境碑」が立っている。「従是西北玉名郡」と刻まれている。
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 車坂といわれる「鍋田戦跡」が残っている。これまで通ってきた道にこの戦いで戦死した兵士の墓が数多く立っていたことを思い出し、この場所での戦いだったのかと思う。西南の役の最激戦地だったということだ。
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 ようやく山を抜け、岩野川に出てくる。飯田橋が架かっているが、その横に「鍋田横穴」がある。
 この横穴郡は平小城台地南端部の岩野川に面した凝固岩の岩壁に掘られており、61基が確認されている。熊本を代表する装飾を持つ横穴郡で壁画が描かれており、その壁画のほとんどが武具類で横穴入口部に描かれているため、玄室内への悪魔の侵入を防ぐものとする説が有力と説明されている。
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 やがて山鹿の市街地に入る。
 「八千代座」がある。江戸時代の芝居小屋の姿を残しており、人力でまわす廻舞台や花道、すっぽんと呼ばれる舞台機構は日本の伝統的な様式を伝えている。
 ここは明治43年、山鹿の有志が出資して建設、昭和48年まで使われていたが、その後13年あまり閉鎖されたが再興。昭和63年に国の重要文化財に指定された。
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 今日の宿は山鹿の中心部にある山鹿ホテル。ここは西南の役の際、薩軍の本陣となった場所に立っていた。
 そのためここでカウントする。
 19時26分、山鹿宿を通る。
 南関宿から4時間37分、28550歩、17.9km。

 本日の歩行時間  10時間41分
 本日の総歩数    65285歩。
 本日の歩行距離  40.6km

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かっちゃん
歩人
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