2008年04月16日(水)
沼宮内~一戸
晴れ
高倉会長からご紹介をして頂いた上山さんから今日一日の行程を案内して頂くことになり、朝ホテルまでおいでいただいた。昨日の星川さんといい、今日の上山さんといい、本当にありがたいことだと思う。7時42分に出発する。上山さんは車で移動されるため荷物を載せていただく。これも大助かりだった。荷物を持たずに歩くと本当に楽なのだ。歩いていくと左手に古い建物があったので、お聞きすると上路旅館だった。ここはネットで調べていて知っていたが、街道に沿って立っている。
その先に大地主さんのお宅があり土蔵が並んで立っていた。
更にその先に「明治天皇行在所跡碑」が立っている。ここは酒店を経営されているお店で、以前は貴族院議員を務められていたという、この地方の名門のお宅だということだった。
右手に藤村商店という文具店があり、そこから右折して旧道に入っていくと沼宮内小学校がある。ここが沼宮内代官所跡だ。この代官所は慶安4年(1651)から明治2年(1869)までの219年間に渡って、南部盛岡藩の沼宮内代官所があったところで、北岩手郡の中心だったところだ。ここでカウントする。すぐ横に沼宮内尋常高等小学校と刻まれた石碑が立っている。
8時17分、沼宮内宿を通る。
渋谷宿から4時間42分、26175歩、17.4km。
旧道は沼宮内小学校の周囲をぐるりと回る形で通っている。右手に招福寺が立っていて、その後ろは小高い丘になっており、沼宮内城の跡ということだ。ここは天正19年(1591)の九戸政実の乱のときに戦場になったところということだ。
沼宮内北口の信号で4号線に合流して進むと、北緯40度の表示が出ている。随分北へ来たなぁという実感が湧く。
すぐ横を北上川が流れているが、流れはすっかり小さくなっている。あの大きな流れの北上川も上流に来るとこんなにも細い流れになるのか。
盛岡から9番目の「一里塚」がある。お地蔵様と供養塔が立っていた。
道路の温度表示は6℃になっていた。これぐらいの気温が歩く上では最適だと思う。天気はいいし気持ちがいい。
御堂から右斜めへ進んでいくと「御堂観音堂」がある。ここは大同2年(807)に坂上田村麻呂が祈願所として建立したといわれている。
ここには「弓弭の泉」がある。これは天喜5年(1057)安倍頼時征伐のため、源頼義、義家父子が馬を進めた折、打ち続く炎暑に苦しみ、賊徒平定もはかどらず、本国を伏し拝み救世祈念、義家が弓弭を持って岩をうがち泉を得たといわれ、今なお清水が湧き出ている。この泉が北上川の源流をなしているといわれている。あの大きな流れの源にきたのだ。手をつけてみたが冷たくて気持ちがよかった。
御堂脇には大きな杉の木が立っている。樹齢1200余年といわれているが途中から折れており、今は下の幹だけが残っている。
ここには明治天皇の碑が立っている。
だれもいない山の中、坂道を登っていくと「馬羽松一里塚」がある。ここは明治天皇が通られるため道を掘り下げたので急斜面になっており、その上に一里塚がある。馬羽松は(マハマツ)と読むが、これは源義家がこの地で馬に食べ物を食べさせることができなかったということから馬不食となり、それが現在の馬羽松になったと上山さんから教えていただいた。このすぐ先の道は塩の道といって、秋田との交流に使われていたということだ。
ここから30号線を横切って進み、突き当りを右折して進むと表示板が出ており、それに従って山道に入る。上山さんはこの道は車では行くことができないので先回りをして待っておられることにする。
「明治天皇御休憩之跡碑」が立っている。明治天皇は明治9年と14年に奥州を巡幸されている。当時のことなので相当に厳しい旅になったと思われるが、それなのに何故短期間に二回も巡幸されたのだろうかという疑問がわく。このあたりはかなりの坂道だ。天皇は二回ともここの同じ場所で休憩をされたということだ。それだけきつい道のりだったということがいえるのだろう。
ただ眺めはすばらしいものがある。丁度東屋があったのでそこで昼食にする。上山さんもお弁当を持参されていて一緒に食べる。前方に西岳がそびえまだ雪を被っている。静寂に包まれた素晴らしい眺望だ。
上山さんはここでご友人の岡田さんを迎えに行かれる。今回の我々のことを上山さんが岡田さんに話されたところ、一緒に回りたいといわれたということだ。我々も土地の方とご一緒させていただくことは大歓迎だ。
「旧中山一里塚」が道から少し離れたところにある。盛岡から11番目の一里塚だ。昔はここを道が通っていたのだが、今は違う場所に道が通っているため一里塚が道から離れたところになっている。
一里塚を見ている間に上山さんと岡田さんが合流される。岡田さんは8000枚にも及ぶ自分史を書かれたという大変な文筆家だそうだ。上山さんは以前学校の先生をされておられたということで、このあたりでは知り合いや教え子が沢山おられるようだった。上山さんは車で先行されていて、間違いそうな場所には必ず車を停めて待っていてくれ、進むべき道を教えてくれた。そしてそのあたりに人家があると、必ずといっていいほどお知り合いの方がおられて話をされていた。このような方とご一緒させていただく幸運をつくづく感じたものだった。
火行伝馬所がある。沼宮内と一戸の宿場間は距離があったため、ここに伝馬所を設置したということだ。火行という地名は昔このあたりは大変な難所で行者に火を与えたことから火行という名前がついたそうだ。そういった行為をしていたことから、この地区では年貢は免除されていたという。これらも全て上山さんから教えていただいた。今でこそしっかりとした道がついておりかなりの坂で疲れる事はあるものの、通行に難儀をきたすということはないが、当時は山の中で大変な難所だったのだろうと思う。
火行を過ぎたところで十字路に出る。これを直進していくのだが、ここも完全な山道だ。与之坂と呼ばれている。
直進する前に左方向に進む道へ行く。こちらは古道でこの道から少し入ったところに「塚平一里塚」が両塚残っている。今は道の場所が変わっているためにこういった状況になっているのだ。旧中山一里塚と同じ状況だ。
このあたりに古墳がでて、その際貨幣が一緒にでてきたので、この一里塚の場所にも何か出るかもしれないと思ってここを掘った人がいたそうだ。そのため一里塚のすぐ近くに穴があいていた。この一里塚のすぐ前にちょっとした広場があり、そこから古道が通っていたということだったが、今では道はなくなっており歩くことはできない。それでもお二人は以前挑戦をされたことがあったそうだ。ここから先ほどの十字路までもどり与之坂を下っていく。ここも誰もおらず静寂が周囲を包む気持ちのいい山道だ。
下っていく途中に「小繋の一里塚」があった。盛岡から12番目の一里塚で西側のみ残っている。盛岡から約48km歩いてきたということだ。
小繋の番所跡は碑もなくなっていた。ここも上山さんのお知り合いの方の家があり、その方からお話を聞くと、以前は碑が立っていたのだが古くなって撤去されたということだった。
4号線に出たところに「長楽寺」がある。大同2年(802)に坂上田村麻呂が東夷鎮撫祈願のため、ここに地蔵堂を建立したことにはじまり、嘉祥年中(850年頃)に慈覚大師が諸国巡錫の途中ここに立ち寄り、六尺五寸の延命地蔵尊を彫刻し授けた。その後何度か火災等に罹ったが、この地蔵尊だけは不思議にその都度難を免れたので、一層霊験あらたかであるといわれ信者の参拝が絶えなかったということだ。
地蔵尊の横に小繋番所跡の表示板と明治天皇御昼食跡碑があった。
笹目子トンネルがあり、これを抜けた左手に直角に近い崖があって、これをよじ登っていく。こんな道は、というか道がないところを歩くので、地図で理解しようとしても無理だ。こうして教えていただける方がいて、初めて歩くことができる道だと思う。
登ると農神様という祠があり、その先に「川底一里塚」がある。盛岡から北へ13番目の一里塚で西塚のみが残っている。
ここから旧道が残っているので右折して歩いていく。左側にも道があったが、その先はトンネル工事のため道はなくなっているということだった。ここは全くの山道で一応歩くことはできたが、日ごろだれか歩く人がいるのだろうか?今は4月なので歩くことができたが、これ以降は草が生えて歩きにくくなるのではないだろうかなどと思いながら歩いた。
山を下っていくと修復された「中井戸」があった。この集落は川から離れた高台(火山灰段丘)にあることから泉が少なく、少雨の時には地下水位の低下、水量の減少によって水の確保に苦労してきたため、井戸を掘りこれを大切にしてきた。現在でも石積みの井戸壁の掘りぬき井戸が六つ残っていると説明されていた。
追分石があり「右山道 左もり岡」と刻まれていた。
道は次第に下っていくがそのとき突然前方をキツネが駆け抜けた。これは三好さんも私も見たので間違いはない。瞬間だったので写真に撮る事ができずちょっと残念だった。
小鳥谷に下りてくると「明治天皇御小休所跡碑」がある。ここは以前は小鳥谷村長をされていた庄屋さんのお宅だったということだ。
山を下り女鹿口橋を渡ってすぐの坂道を上っていくと、左手に白い家が立っている。ここから白子坂に入っていく。
上山さんから真っ直ぐに進めばいいとお聞きしていたのでそのまま進んでいった。道には車の轍の跡がついており、それに従っていたのだが、次第に山の上のほうへ道は続いている。いくら行っても目印となる百姓一揆の碑がない。おかしい、こんなに距離があるはずがない。周囲は次第に夕闇が迫ってくるので進むことを止め一旦戻ることにした。上から戻ってくると、左側に進む道があったので(下から上って来ると右側)そちらへ行ってみると目指す碑があった。轍の跡を見ていたのでこの道に気がつかなかったのだが、後で考えてみると轍のついている道のほうが左折していた。ようやく道を見つけたのでホッとしてJRのガードをくぐり抜けて274号線に出た。そこに上山さんの車が止まっていたのだが岡田さんしかいない。聞いてみると上山さんは我々が遅いので心配をして山へ探しに行ったという。行き違いになってしまったのだ。周囲は段々薄暗くなってきているのでこれはいかんと思い、かといって土地を知らない我々が動くのはまずいと思ったので、ガード下まで戻って「お~い」「うえやませんせぇ~」と大きな声で叫び続けた。やがて上山さんが戻ってこられて一件落着。ホッとする。
この碑は天保7年(1836)連年の凶作と重税、高利貸しの悪徳商法に抗議して、百姓が蜂起したものだったが失敗し、一年後に首謀者の佐吉は関屋川原で打ち首になったという。
ここから一戸駅近くの美松旅館まで送っていただいた。
17時55分に旅館に到着する。上山さんには今日一日本当にお世話になりました。おかげさまで我々二人だけでは歩くことができないような場所まで案内をしていただき、とてもいい経験をさせていただきました。感謝です。
本日の歩行時間 10時間13分。
本日の歩数&距離 51098歩、38.1km。
高倉会長からご紹介をして頂いた上山さんから今日一日の行程を案内して頂くことになり、朝ホテルまでおいでいただいた。昨日の星川さんといい、今日の上山さんといい、本当にありがたいことだと思う。7時42分に出発する。上山さんは車で移動されるため荷物を載せていただく。これも大助かりだった。荷物を持たずに歩くと本当に楽なのだ。歩いていくと左手に古い建物があったので、お聞きすると上路旅館だった。ここはネットで調べていて知っていたが、街道に沿って立っている。
その先に大地主さんのお宅があり土蔵が並んで立っていた。
更にその先に「明治天皇行在所跡碑」が立っている。ここは酒店を経営されているお店で、以前は貴族院議員を務められていたという、この地方の名門のお宅だということだった。
右手に藤村商店という文具店があり、そこから右折して旧道に入っていくと沼宮内小学校がある。ここが沼宮内代官所跡だ。この代官所は慶安4年(1651)から明治2年(1869)までの219年間に渡って、南部盛岡藩の沼宮内代官所があったところで、北岩手郡の中心だったところだ。ここでカウントする。すぐ横に沼宮内尋常高等小学校と刻まれた石碑が立っている。
8時17分、沼宮内宿を通る。
渋谷宿から4時間42分、26175歩、17.4km。
旧道は沼宮内小学校の周囲をぐるりと回る形で通っている。右手に招福寺が立っていて、その後ろは小高い丘になっており、沼宮内城の跡ということだ。ここは天正19年(1591)の九戸政実の乱のときに戦場になったところということだ。
沼宮内北口の信号で4号線に合流して進むと、北緯40度の表示が出ている。随分北へ来たなぁという実感が湧く。
すぐ横を北上川が流れているが、流れはすっかり小さくなっている。あの大きな流れの北上川も上流に来るとこんなにも細い流れになるのか。
盛岡から9番目の「一里塚」がある。お地蔵様と供養塔が立っていた。
道路の温度表示は6℃になっていた。これぐらいの気温が歩く上では最適だと思う。天気はいいし気持ちがいい。
御堂から右斜めへ進んでいくと「御堂観音堂」がある。ここは大同2年(807)に坂上田村麻呂が祈願所として建立したといわれている。
ここには「弓弭の泉」がある。これは天喜5年(1057)安倍頼時征伐のため、源頼義、義家父子が馬を進めた折、打ち続く炎暑に苦しみ、賊徒平定もはかどらず、本国を伏し拝み救世祈念、義家が弓弭を持って岩をうがち泉を得たといわれ、今なお清水が湧き出ている。この泉が北上川の源流をなしているといわれている。あの大きな流れの源にきたのだ。手をつけてみたが冷たくて気持ちがよかった。
御堂脇には大きな杉の木が立っている。樹齢1200余年といわれているが途中から折れており、今は下の幹だけが残っている。
ここには明治天皇の碑が立っている。
だれもいない山の中、坂道を登っていくと「馬羽松一里塚」がある。ここは明治天皇が通られるため道を掘り下げたので急斜面になっており、その上に一里塚がある。馬羽松は(マハマツ)と読むが、これは源義家がこの地で馬に食べ物を食べさせることができなかったということから馬不食となり、それが現在の馬羽松になったと上山さんから教えていただいた。このすぐ先の道は塩の道といって、秋田との交流に使われていたということだ。
ここから30号線を横切って進み、突き当りを右折して進むと表示板が出ており、それに従って山道に入る。上山さんはこの道は車では行くことができないので先回りをして待っておられることにする。
「明治天皇御休憩之跡碑」が立っている。明治天皇は明治9年と14年に奥州を巡幸されている。当時のことなので相当に厳しい旅になったと思われるが、それなのに何故短期間に二回も巡幸されたのだろうかという疑問がわく。このあたりはかなりの坂道だ。天皇は二回ともここの同じ場所で休憩をされたということだ。それだけきつい道のりだったということがいえるのだろう。
ただ眺めはすばらしいものがある。丁度東屋があったのでそこで昼食にする。上山さんもお弁当を持参されていて一緒に食べる。前方に西岳がそびえまだ雪を被っている。静寂に包まれた素晴らしい眺望だ。
上山さんはここでご友人の岡田さんを迎えに行かれる。今回の我々のことを上山さんが岡田さんに話されたところ、一緒に回りたいといわれたということだ。我々も土地の方とご一緒させていただくことは大歓迎だ。
「旧中山一里塚」が道から少し離れたところにある。盛岡から11番目の一里塚だ。昔はここを道が通っていたのだが、今は違う場所に道が通っているため一里塚が道から離れたところになっている。
一里塚を見ている間に上山さんと岡田さんが合流される。岡田さんは8000枚にも及ぶ自分史を書かれたという大変な文筆家だそうだ。上山さんは以前学校の先生をされておられたということで、このあたりでは知り合いや教え子が沢山おられるようだった。上山さんは車で先行されていて、間違いそうな場所には必ず車を停めて待っていてくれ、進むべき道を教えてくれた。そしてそのあたりに人家があると、必ずといっていいほどお知り合いの方がおられて話をされていた。このような方とご一緒させていただく幸運をつくづく感じたものだった。
火行伝馬所がある。沼宮内と一戸の宿場間は距離があったため、ここに伝馬所を設置したということだ。火行という地名は昔このあたりは大変な難所で行者に火を与えたことから火行という名前がついたそうだ。そういった行為をしていたことから、この地区では年貢は免除されていたという。これらも全て上山さんから教えていただいた。今でこそしっかりとした道がついておりかなりの坂で疲れる事はあるものの、通行に難儀をきたすということはないが、当時は山の中で大変な難所だったのだろうと思う。
火行を過ぎたところで十字路に出る。これを直進していくのだが、ここも完全な山道だ。与之坂と呼ばれている。
直進する前に左方向に進む道へ行く。こちらは古道でこの道から少し入ったところに「塚平一里塚」が両塚残っている。今は道の場所が変わっているためにこういった状況になっているのだ。旧中山一里塚と同じ状況だ。
このあたりに古墳がでて、その際貨幣が一緒にでてきたので、この一里塚の場所にも何か出るかもしれないと思ってここを掘った人がいたそうだ。そのため一里塚のすぐ近くに穴があいていた。この一里塚のすぐ前にちょっとした広場があり、そこから古道が通っていたということだったが、今では道はなくなっており歩くことはできない。それでもお二人は以前挑戦をされたことがあったそうだ。ここから先ほどの十字路までもどり与之坂を下っていく。ここも誰もおらず静寂が周囲を包む気持ちのいい山道だ。
下っていく途中に「小繋の一里塚」があった。盛岡から12番目の一里塚で西側のみ残っている。盛岡から約48km歩いてきたということだ。
小繋の番所跡は碑もなくなっていた。ここも上山さんのお知り合いの方の家があり、その方からお話を聞くと、以前は碑が立っていたのだが古くなって撤去されたということだった。
4号線に出たところに「長楽寺」がある。大同2年(802)に坂上田村麻呂が東夷鎮撫祈願のため、ここに地蔵堂を建立したことにはじまり、嘉祥年中(850年頃)に慈覚大師が諸国巡錫の途中ここに立ち寄り、六尺五寸の延命地蔵尊を彫刻し授けた。その後何度か火災等に罹ったが、この地蔵尊だけは不思議にその都度難を免れたので、一層霊験あらたかであるといわれ信者の参拝が絶えなかったということだ。
地蔵尊の横に小繋番所跡の表示板と明治天皇御昼食跡碑があった。
笹目子トンネルがあり、これを抜けた左手に直角に近い崖があって、これをよじ登っていく。こんな道は、というか道がないところを歩くので、地図で理解しようとしても無理だ。こうして教えていただける方がいて、初めて歩くことができる道だと思う。
登ると農神様という祠があり、その先に「川底一里塚」がある。盛岡から北へ13番目の一里塚で西塚のみが残っている。
ここから旧道が残っているので右折して歩いていく。左側にも道があったが、その先はトンネル工事のため道はなくなっているということだった。ここは全くの山道で一応歩くことはできたが、日ごろだれか歩く人がいるのだろうか?今は4月なので歩くことができたが、これ以降は草が生えて歩きにくくなるのではないだろうかなどと思いながら歩いた。
山を下っていくと修復された「中井戸」があった。この集落は川から離れた高台(火山灰段丘)にあることから泉が少なく、少雨の時には地下水位の低下、水量の減少によって水の確保に苦労してきたため、井戸を掘りこれを大切にしてきた。現在でも石積みの井戸壁の掘りぬき井戸が六つ残っていると説明されていた。
追分石があり「右山道 左もり岡」と刻まれていた。
道は次第に下っていくがそのとき突然前方をキツネが駆け抜けた。これは三好さんも私も見たので間違いはない。瞬間だったので写真に撮る事ができずちょっと残念だった。
小鳥谷に下りてくると「明治天皇御小休所跡碑」がある。ここは以前は小鳥谷村長をされていた庄屋さんのお宅だったということだ。
山を下り女鹿口橋を渡ってすぐの坂道を上っていくと、左手に白い家が立っている。ここから白子坂に入っていく。
上山さんから真っ直ぐに進めばいいとお聞きしていたのでそのまま進んでいった。道には車の轍の跡がついており、それに従っていたのだが、次第に山の上のほうへ道は続いている。いくら行っても目印となる百姓一揆の碑がない。おかしい、こんなに距離があるはずがない。周囲は次第に夕闇が迫ってくるので進むことを止め一旦戻ることにした。上から戻ってくると、左側に進む道があったので(下から上って来ると右側)そちらへ行ってみると目指す碑があった。轍の跡を見ていたのでこの道に気がつかなかったのだが、後で考えてみると轍のついている道のほうが左折していた。ようやく道を見つけたのでホッとしてJRのガードをくぐり抜けて274号線に出た。そこに上山さんの車が止まっていたのだが岡田さんしかいない。聞いてみると上山さんは我々が遅いので心配をして山へ探しに行ったという。行き違いになってしまったのだ。周囲は段々薄暗くなってきているのでこれはいかんと思い、かといって土地を知らない我々が動くのはまずいと思ったので、ガード下まで戻って「お~い」「うえやませんせぇ~」と大きな声で叫び続けた。やがて上山さんが戻ってこられて一件落着。ホッとする。
この碑は天保7年(1836)連年の凶作と重税、高利貸しの悪徳商法に抗議して、百姓が蜂起したものだったが失敗し、一年後に首謀者の佐吉は関屋川原で打ち首になったという。
ここから一戸駅近くの美松旅館まで送っていただいた。
17時55分に旅館に到着する。上山さんには今日一日本当にお世話になりました。おかげさまで我々二人だけでは歩くことができないような場所まで案内をしていただき、とてもいい経験をさせていただきました。感謝です。
本日の歩行時間 10時間13分。
本日の歩数&距離 51098歩、38.1km。
旅の地図
記録
-
2008年04月07日(月)
-
2008年04月08日(火)
-
2008年04月09日(水)
-
2008年04月10日(木)
-
2008年04月11日(金)
-
2008年04月12日(土)
-
2008年04月13日(日)
-
2008年04月14日(月)
-
2008年04月15日(火)
-
2008年04月16日(水)
-
2008年04月17日(木)
-
2008年04月18日(金)
-
2008年04月19日(土)
-
2008年04月20日(日)
-
2008年04月21日(月)
-
2008年04月22日(火)
-
2008年04月23日(水)
-
2008年04月24日(木)
-
2008年04月25日(金)
-
2008年04月26日(土)
-
2008年04月27日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん