奥州街道(奥道中)を歩く(仙台~青森)

2008年04月07日(月) ~2008年04月27日(日)
総歩数:788463歩 総距離:537km

2008年04月14日(月)

盛岡市内

                 雨後曇り 
歩き始めて一週間が経過し、最初の疲れのピークが来ているので、今日は一息入れることにする。そのため今日は盛岡市内の短い距離を歩くことにして北ホテルに連泊する。
 バスで昨日歩いた大沼まで戻り、8時22分に出発する。通勤時間帯だったがバスはさほど混みあうこともなく座って移動することができた。途中に盛岡第四高等学校があり、高校生がバスの中にもいたし、自転車で通学している姿も数多くあった。盛岡は第一高等学校、第二高等学校というような名前が学校についているようだ。
 今日も朝からひどい降りではないものの、雨が降り続いている。今回の旅は雨が多い。これまでの日程の丁度半分が雨だった。だたいずれも強い降りではなかったことが幸いだった。
 4号線を歩くが車の通行量が多く、騒音をうるさく感じる。
「大国神社」がある。ここは文化7年(1810)盛岡藩主第36代利敬公が津志田の地の総鎮守として創建したものだ。当時津軽町と称したこの町は、遊廓が繁盛し、遊女や楼主が納めた諸願成就祈願の絵画献額(絵馬)や、奥州俳諧四天王の一人小野素郷筆の「俳諧之発句」などが奉納されている。
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 南仙北2丁目の信号で右斜めに進む4号線と分かれ、左斜めに進む旧国道を進む。車の数はかなり減ってきたが、それでもかなりの数の車が走っている。
「小鷹処刑場跡」があり慰霊碑が立っている。当地は江戸時代南部藩藩治300年の間、御仕置場と称し罪人を処刑した場所である。天保年間(1830~1844)の供養碑が立っている。いつものことだがご冥福を祈る。
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 明治橋で北上川を渡る。北上川はここでもまだかなりの流量がある。
 ここから盛岡の市街地に入っていくのだが、明治橋を渡ったところで道を間違えたようだ。翌日星川さんに車で改めて案内をしていただいて間違いが分かった。市街地に入ると道が幾重にも交差していて、道を間違ってしまう傾向が強い。従ってGPSから落とした地図は、このあたりは間違って歩いた結果が記されていますので、ご了承いただきたいと思います。
「久昌寺」がある。ここには新渡戸家の墓所があるということなので、中に入ってみたがお墓が沢山あってどこにあるのかがわからない。人がおられたので聞いてみたが、良く分からないといわれてお寺の住職さんを連れてこられたので、住職さんに案内をしていただいた。稲造はキリシタンになったので、今では新渡戸家の方はだれも居なくなったということだった。
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街中に入ると「旧盛岡銀行本店」の建物がある。古式豊かな建物だ。明治44年に完成したこの建物は日銀本店や東京駅を設計した辰野金吾の設計によるものという。国指定重要文化財になっている。
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ここには昔高札場があったのでここでカウントする。
 10時5分、盛岡宿を通る。
 日詰郡山宿から5時間、26993歩、17.2km。

これも歴史を感じさせる盛岡信用金庫本店(旧盛岡貯蓄銀行)の建物を右に見ながら進むと、左手に大きな古い建物が立っている。ここは昔豪商の店が軒を連ねていたということで、今もその面影を残す建物が立っている。
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「鍛冶町一里塚跡」がある。 日本橋から139番目の一里塚であり、ここは盛岡藩領内の諸道の里程を計測する基点であった。このすぐ先に明治末期に建てられた旧井弥商店がある。明治時代を代表する土蔵造りの建物と説明されている。
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 上ノ橋を渡る。盛岡の中心を流れる中津川に架かった橋で、欄干に取り付けられている青銅擬宝珠は、橋が最初に架けられた慶長14年(1609)当時のもの。このうち18個が国指定重要文化財になっている。
 この橋を渡って進むと左手に四ツ家教会がありここを右折、更にすぐ先で左折して進む。
「石造地蔵菩薩坐像」がある。この地蔵尊は四代盛岡藩主南部重信夫人於俊の方の菩提を弔うため、嫡子であった五代行信が元禄7年(1694)に建立したもの。大正元年に四ツ家町の有志が、町内に勧請して祭祀を行いたいと旧藩主家の南部利淳氏に願い、承認されて現在地に遷座されたと説明されている。
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 その横に四ツ家惣門跡碑が立っている。奥州街道の北の玄関口で門の脇に番所が置かれ、門の外には堀(旧赤川堰)がめぐらされていたと説明されている。
JRの線路を越えて進んでいくと、「上田の一里塚」があり片側のみ残っている。ここは鍛冶町の里程元票から最初の一里塚だ。一里塚のすぐ先に12本の松が並んで立っている。いずれも樹齢80~150年ということで、明治以降に植えられたものも含まれているようだ。
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 4号線を横断して高松神社の前を進む。黒石野を過ぎ、岩脇団地のところを進んでいくと東黒石野に来る。このあたりで道が分からなくなった。翌日星川さんから教えていただいて旧道を歩くことができたが、地図だけではこのあたりも分かりにくく、随分ウロウロしてしまった。
今日の予定は県立博物館まで行くつもりで歩いてきたのだが、博物館へ行く道が分からない。ウロウロしていると車がやってきたので、手を上げて止まってもらい、道を聞いてようやく博物館へ行く道が分かった。博物館からの帰りのバスは一時間に一本しかない。この時間帯だと12時23分だ。これに乗ることができないと13時23分までバスがない。(もっともバスに乗ってみると近くに停留所があり、そこからはかなりの本数が出ていることが分かった。)次第に時間が迫ってくる。しかも道はかなりの上り坂だ。息が切れる。フーフーいいながら、とにかく二人で急いだ。やがて道は下り坂になり、下ったところに「明治天皇碑」が立っていたので、旧道であることを確認できた。
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時間を見ると12時20分だ。ここでも通りかかった車に停まってもらってバス停の場所を聞くと、すぐ近くということだったので大急ぎでたどり着く。バスはすぐにやってきたので、これに飛び乗って帰る。これで無事今日の予定は達成されたのである。
 帰りがけに「盛岡城」を見物する。
 盛岡城と城下の基礎を築いたのが初代藩主の南部利直で、幕府への配慮から天守閣は築かれず三層のやぐらで代用した。花崗岩で築かれた重厚な石垣は今も残されている。
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「烏帽子岩(兜岩)」がある。これは盛岡城築城の際、この地を掘り下げたところ、大きさ二丈ばかりの大石が出てきた。この場所が祖神様の神域であったため、以後吉兆のシンボルとして広く信仰された。災害や疫病があったときなど、この岩の前で平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として今日まで崇拝されていると説明されている。
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 「石割桜」が盛岡地方裁判所の構内にある。ここは盛岡藩の家老であった北家の屋敷跡で、庭石の割れ目に桜の種が飛んできて芽を出し、成長とともに岩の割れ目を広げていったものといわれている。石は花崗岩で周囲が21.0m、桜は樹齢が360年を超えるエドヒガンザクラだ。
 幹の周囲は4.6m、樹高11.0m、枝張りは東西に16.0m、南北に17.1mで石の北側南側共に少しずつ広がっているということだ。 
 1923年国の天然記念物に指定されている。
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 今日の予定を終わらせて、星川さんに電話を入れる。星川さんは役所から紹介を受けた方で、岩手県内の一里塚の調査をされておられる方だ。事前に詳細な一里塚の資料を送っていただいていたので、ご連絡をし御礼を言う。お会いしたいと思い、そう申し上げると快く同意していただき、ホテルまでおいでいただくことになった。
 ホテルで夕食をご一緒させていただき色々とお話をうかがった。星川さんは道路標識の会社を経営されておられたそうで、道路に関してはとてもお詳しい方だった。星川さんに我々が調べた旧道のチェックをしていただいた。その上、明日は朝から一緒に博物館のところまで案内していただくことになった。これはとてもありがたいことだった。
 このようにそれぞれの地域で非常に街道のことにお詳しい方々がいらっしゃるわけで、今回はたまたまそのような方々と数多くお知り合いになることができたため、歩く上でとても助けられた。なんとかこういった方々のネットワークをリンクさせることができないものだろうかと強く思った。
 今日は予定通り15kmの歩きで終わったため、疲れは大分回復することができた。

本日の歩行時間  4時間。
本日の歩数&距離 21840歩、15.1km。

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