2008年04月10日(木)
宮野~沢辺~金成~有壁~一関
曇りのち雨
ホテルからタクシーで昨日歩いたグランドプラザ浦島まで行き7時40分に出発する。
ホテルのすぐ横から左側にある旧道に入っていき、一旦4号線に出るがすぐに左折して再び旧道を歩く。
城生野の集落に古代城柵、「伊治城跡」がある。奈良時代の中ごろ、宮城県北部は古代律令政府が蝦夷を支配しようとするのに対し、蝦夷は武力をもって対抗しようとしている非常に不安定な地域だった。このような中で律令政府は宮城県北部の支配を強め、さらに岩手県北上川中流域に勢力を拡大するため、767(神護景雲元)年、その拠点として伊治城を建設した。その後何度かの発掘調査によって、この地が伊治城の有力な跡地であるということが判明したとされている。
ここから更に進んでいくと正面に冨野小学校があり、ここを左折して進む。地図がちょっと分かりにくかったため、丁度そこにいたお爺さんに確認をすると、間違っていないことを教えてくれ、最近は奥州街道を歩く人が多いと言っていた。
道は田んぼの中を一直線に延びている農道のような感じで、一般の車の通行はないだろうと思った。
二つの赤く塗られた橋を渡って進むと姉歯にでる。
街道から少しそれたところに「三界万霊供養塔」が立っている。
江戸時代後期にはしばしば飢饉が起こり享保、天明、天保は近世の三大飢饉といわれ惨状が甚だしかった。
この供養塔は天明飢饉の犠牲になった人々の供養のために、文化15年(1818)に建立されたものだ。天明8年(1788)の飢饉では約4割の家に死者がでたといわれているが、それは過去帳に記載されている数であって、実際には他国へ行って野たれ死した人も多かったことが想像される。正に地獄絵の世界だったのだろう。
達田橋を渡って右折すると沢辺宿に入る。ここは遺構が残っていないため町の中心部でカウントする。
9時10分、沢辺宿を通る。
宮野宿より1時間45分、11292歩,7.8km。
町はガランとしていて人通りがない。道を歩いているのは我々だけである。
沢辺宿と金成宿はすぐ近くだ。共に奥州街道と登米街道の追分宿だったそうだが、金成宿のほうが本宿だったようだ。左手にえらく豪華な造りの建物がある。旧金成町役場で、現在は栗原市金成総合支所だ。多くの市町村が合併してできた市だけに支所であってもこのような豪華な建物になっているのだろうが、いや、それにしてもすごい建物だ。宮城や岩手ではこのように豪華な建物の役所が多かったが、最後に歩いた青森は一転して古い建物の庁舎が多かったように感じた。
イオンタウン金成があったので昼食を購入する。有壁あたりまでは食事をする店はないだろうと思って買ったのだが、有壁には駅前に食堂があり、4月14日開店と看板のかかった飲食店らしい新しい建物もあった。
けやき会館がある。ここは金成代官所の跡であり、入り口に「明治天皇御駐輦所跡碑」が立っている。
その裏には大きな欅が立っており、その向こうに明治20年に建てられた旧金成小学校が金成歴史資料館となって立っていた。中を見ていると管理人らしき人が出てこられ、昨日古川からこちらに帰ってくる車の中から我々二人を見かけたが歩いているのかと聞かれた。そうですと答えると頑張ってくださいと激励を受けた。
ここから少し進んだところに金成公民館がありここが本陣跡である。
10時12分、金成本陣跡を通る。
沢辺宿から1時間2分、4536歩、2.8km。
金成の町を抜け、ガソリンスタンドの手前の信号で4号線を横切って進むと、道は山の中へと入っていく。ここでも判断に迷うことがあり、近くにいたオバアサンに道を聞くと親切に教えてくれた。これから山の中へ入るのでキツネやタヌキに出会うかもしれない。熊はこのあたりでは出会ったということは聞かないので大丈夫だろうというようなことを東北弁で話してくれた。東北の方は皆さんとても親切で、道を聞いてもどなたも丁寧に教えていただけるのだが、北上するにしたがって言葉が段々分かりにくくなってきている。同じ日本にいながら何故こんなに言葉の違いができてきたのだろうか。
このオバアサンが言われたとおり、しばらく行ったところで私は気がつかなかったが三好さんが前方の道をキツネらしき動物が横切るのを見たそうだ。この後も色々な動物に出会うことになる。
誰もいない山の中を二人で黙々と歩く。時折車が通るだけで静かだ。やがて健康広場というところに出る。ここから道はバイバスと併行して通っているのだが、この道は丁度少し先で土木工事をしているらしく、舗装されていない狭い道一杯に大型ダンプカーがやってくる。徐行してくれるので危険は感じないものの、道幅一杯に迫ってくるので、車が通るたびに道端に立ち止まって車をやり過ごさなければいけない。しかも車は頻繁にやってくる。幸いこの道の距離は短かったのでよかったが、それでもここを通り抜けるためにかなりの時間を要した。
ここからバイバスのガード下を通って進んでいくと又道に迷うところが出てきた。地図では直進する道があり、そこから左折する道になっているのだが、実際はT字路になっている。T字路になっているところの前の家の方がおられたのでお聞きすると、左折していけば一里塚があると教えてくれた。その言葉にしたがって進むと「新鹿野の一里塚跡」があった。ここは昭和の時代に破壊されたという説明版が立っていたので、現在の塚はその後に再建されたものなのだろう。
金成末野に来ると旧道は失われているが、旧道があったと思われる場所に十万坂の説明文が立っていた。
それによると末野十万坂は源義家が衣川柵の安部貞任を攻略した前九年の役に、ここで十万挺の弓矢を作り勇躍して衣川に向かったことからこの地名が生まれ、また有名な「雁の乱れに伏兵を知る」の義家の智将伝説もこの地で生まれたと説明されていた。
(**平成20年11月栗原市での交流会に参加した際、この場所で旧道が発見され、整備されたということで、栗原市産業経済部田園観光課の渡部さんの案内でそこを歩いてきました。そこは笹薮が切り取られ、きれいな旧道が復元されていました。この道は説明文が立っている場所から少し左手、山のほうへ進む道があり、ここを50mほど進むと右手に民家の敷地があって、これを通って進み、道なりに左折して進むと新しく草を刈ってできた旧道が続いていました坂になっており、ここが「十万坂」と呼ばれる坂でした。この道をしばらく歩いていくと、舗装された道に出、これを左折して進むと私が4月に歩いた明治9年の新道に合流したので、これを右折して進みました。下記の写真は十万坂を越えた出口の写真です。**)
旧道はここから第一有壁トンネルの上を越えて斜めに通って、現在の185号線に合流していたようだが、今では道はなくなっているようなので、元の場所に戻り舗装された道を通って進み185号線に合流する。
ここから少し進んだところに「明治天皇御野立休憩所碑」が立っていた。天皇の碑はどこも立派な石でできている場合が多いが、ここの碑はまだ新しくコンクリートでできているようだった。
有壁に着く。東北本線を横切ると左手にJR有壁駅があるので、本陣へ行く前に有壁駅で食事をすることにする。駅の待合室はベンチが一つ置いてあるだけの狭いものだったが、誰もいなかったので二人でそこに座って昼食にする。このとき電話が鳴り、河北新報社の古関さんから本陣の前に着いたと連絡が入る。昨日の取材に続きここで写真を撮るために来られたのだ。丁度そのとき小野寺さんも来られた。小野寺さんは昨夜は用事があって来られなかったのだが、今日はわざわざここまで栗原市に関する資料を持ってきていただきいたのだ。ありがたいことだ。有壁駅で合流し、お二人は車で本陣まで移動し我々は歩いて移動する。
「有壁本陣跡」は奥州街道の中でも最も昔のままの姿を残している。宿駅としては小さなものだったが、松前、八戸、盛岡一関の藩主が参勤交代の度に、また幕府ならびに各藩重臣が通行の際宿泊や休憩をしたところだ。
現存建造物は延享元年(1744)の改築にかかり、道路に面して二階建て長屋があり、その脇に御成門が立っている。明治9年と14年の明治天皇奥州御巡幸の際は御休憩所となった場所でもある。中を見せていただきたいと思ったが、個人のご自宅でもあるので無理だった。
13時27分、有壁宿本陣跡を通る。
金成から3時間15分、11770歩, 9.2km。
有壁本陣前から山の中へ入っていく。ここの旧道は前半戦の一つのヤマ場と思っていた。旧道の様子が良く分からず歩く人が少ないようで情報が少ないのだ。
二人で「さて、行くぞ!」と気合を入れて進んでいく。山の中に入って二ヶ所分かれ道があり、そのいずれも左側を進めばいいと聞いていたので注意をしながら進む。
肘曲がり坂のところで早くも道が二手に分かれている。三好さんは昨年栗原での街道会議に出席された際、ここを歩かれたそうだが、もう一つ記憶が定かではないという。 そのため昨日お会いした渡部さんに電話を入れて確認していただく。私の電話はバッテリーが残り少なくなってきており、電池切れの心配があるのでこれ以降ホテルまで使わないことにした。結局これまで歩いてきた砂利道は明治の旧道で、左に上っていく道は江戸時代の道。いずれにしても少し先で合流しているということが分かったので、江戸時代の道を歩くことにする。
途中でもう一ヶ所T字路があったがここも左折して進むと一旦開けた場所に出た。三好さんが参加された昨年の会議では、ここから左折して国道のほうへ出たということだったが、前を見ると直進する道が見えるので、これを進んでみることにする。松の葉が落ち積もった道は下がゆるい。ここを雨の日に歩くとかなりぬかるんだ道になるだろうなと思った。
実は今日の予報は雨だったのだが、幸いここまでは降らずに来ることができたのだ。
やがて14時頃になってポツポツと雨が落ちてきたが、降りはあまり強くなく歩く上で支障にはならなかった。
この間、道はきれいに整備されており歩く上で何ら支障はなかった。もっともこの時期だから下草がなくて歩きやすかったのか、いつでもこの状況なのかはわからなかった。いずれにしても前半戦の大きなヤマ場と思った場所は意外に簡単に歩き終えることができた。
やがて道は下り始め坂上田村麻呂が、この地で鬼を退治し死骸を埋めたということからついた地名という鬼死骸に出た。
ここから旧国道に沿って歩いていくと左手に「豊吉の墓」がある。天明5年(1785)一関の医師16名が処刑された豊吉の死体を藩から貰いうけ解剖をした。医師たちはこのことによって長年疑問に思っていたことが解明されたので、豊吉を丁重に葬りこの墓を立てて弔らったということだ。東北地方では最も早い医学解剖だったといわれている。墓は旧一関藩の橋田原刑場跡にあったが、ここに移設したと説明されている。
やがて一関市内に入り、今日の宿東横インに15時30分に到着する。
ここでもまだ時間が早いので少し先に進もうかと思ったが、雨も降っているのでやめてホテルでゆっくりすることにした。
仙台をスタートして4日目で宮城県を越え今日は岩手県に入った。 ここまでは順調にきている。なんとかこのまま無事に竜飛岬までたどり着きたいものだとこの日の日記に書いている。
本日の歩行時間 7時間50分
本日の歩数&距離 41903歩、30.1km。
ホテルからタクシーで昨日歩いたグランドプラザ浦島まで行き7時40分に出発する。
ホテルのすぐ横から左側にある旧道に入っていき、一旦4号線に出るがすぐに左折して再び旧道を歩く。
城生野の集落に古代城柵、「伊治城跡」がある。奈良時代の中ごろ、宮城県北部は古代律令政府が蝦夷を支配しようとするのに対し、蝦夷は武力をもって対抗しようとしている非常に不安定な地域だった。このような中で律令政府は宮城県北部の支配を強め、さらに岩手県北上川中流域に勢力を拡大するため、767(神護景雲元)年、その拠点として伊治城を建設した。その後何度かの発掘調査によって、この地が伊治城の有力な跡地であるということが判明したとされている。
ここから更に進んでいくと正面に冨野小学校があり、ここを左折して進む。地図がちょっと分かりにくかったため、丁度そこにいたお爺さんに確認をすると、間違っていないことを教えてくれ、最近は奥州街道を歩く人が多いと言っていた。
道は田んぼの中を一直線に延びている農道のような感じで、一般の車の通行はないだろうと思った。
二つの赤く塗られた橋を渡って進むと姉歯にでる。
街道から少しそれたところに「三界万霊供養塔」が立っている。
江戸時代後期にはしばしば飢饉が起こり享保、天明、天保は近世の三大飢饉といわれ惨状が甚だしかった。
この供養塔は天明飢饉の犠牲になった人々の供養のために、文化15年(1818)に建立されたものだ。天明8年(1788)の飢饉では約4割の家に死者がでたといわれているが、それは過去帳に記載されている数であって、実際には他国へ行って野たれ死した人も多かったことが想像される。正に地獄絵の世界だったのだろう。
達田橋を渡って右折すると沢辺宿に入る。ここは遺構が残っていないため町の中心部でカウントする。
9時10分、沢辺宿を通る。
宮野宿より1時間45分、11292歩,7.8km。
町はガランとしていて人通りがない。道を歩いているのは我々だけである。
沢辺宿と金成宿はすぐ近くだ。共に奥州街道と登米街道の追分宿だったそうだが、金成宿のほうが本宿だったようだ。左手にえらく豪華な造りの建物がある。旧金成町役場で、現在は栗原市金成総合支所だ。多くの市町村が合併してできた市だけに支所であってもこのような豪華な建物になっているのだろうが、いや、それにしてもすごい建物だ。宮城や岩手ではこのように豪華な建物の役所が多かったが、最後に歩いた青森は一転して古い建物の庁舎が多かったように感じた。
イオンタウン金成があったので昼食を購入する。有壁あたりまでは食事をする店はないだろうと思って買ったのだが、有壁には駅前に食堂があり、4月14日開店と看板のかかった飲食店らしい新しい建物もあった。
けやき会館がある。ここは金成代官所の跡であり、入り口に「明治天皇御駐輦所跡碑」が立っている。
その裏には大きな欅が立っており、その向こうに明治20年に建てられた旧金成小学校が金成歴史資料館となって立っていた。中を見ていると管理人らしき人が出てこられ、昨日古川からこちらに帰ってくる車の中から我々二人を見かけたが歩いているのかと聞かれた。そうですと答えると頑張ってくださいと激励を受けた。
ここから少し進んだところに金成公民館がありここが本陣跡である。
10時12分、金成本陣跡を通る。
沢辺宿から1時間2分、4536歩、2.8km。
金成の町を抜け、ガソリンスタンドの手前の信号で4号線を横切って進むと、道は山の中へと入っていく。ここでも判断に迷うことがあり、近くにいたオバアサンに道を聞くと親切に教えてくれた。これから山の中へ入るのでキツネやタヌキに出会うかもしれない。熊はこのあたりでは出会ったということは聞かないので大丈夫だろうというようなことを東北弁で話してくれた。東北の方は皆さんとても親切で、道を聞いてもどなたも丁寧に教えていただけるのだが、北上するにしたがって言葉が段々分かりにくくなってきている。同じ日本にいながら何故こんなに言葉の違いができてきたのだろうか。
このオバアサンが言われたとおり、しばらく行ったところで私は気がつかなかったが三好さんが前方の道をキツネらしき動物が横切るのを見たそうだ。この後も色々な動物に出会うことになる。
誰もいない山の中を二人で黙々と歩く。時折車が通るだけで静かだ。やがて健康広場というところに出る。ここから道はバイバスと併行して通っているのだが、この道は丁度少し先で土木工事をしているらしく、舗装されていない狭い道一杯に大型ダンプカーがやってくる。徐行してくれるので危険は感じないものの、道幅一杯に迫ってくるので、車が通るたびに道端に立ち止まって車をやり過ごさなければいけない。しかも車は頻繁にやってくる。幸いこの道の距離は短かったのでよかったが、それでもここを通り抜けるためにかなりの時間を要した。
ここからバイバスのガード下を通って進んでいくと又道に迷うところが出てきた。地図では直進する道があり、そこから左折する道になっているのだが、実際はT字路になっている。T字路になっているところの前の家の方がおられたのでお聞きすると、左折していけば一里塚があると教えてくれた。その言葉にしたがって進むと「新鹿野の一里塚跡」があった。ここは昭和の時代に破壊されたという説明版が立っていたので、現在の塚はその後に再建されたものなのだろう。
金成末野に来ると旧道は失われているが、旧道があったと思われる場所に十万坂の説明文が立っていた。
それによると末野十万坂は源義家が衣川柵の安部貞任を攻略した前九年の役に、ここで十万挺の弓矢を作り勇躍して衣川に向かったことからこの地名が生まれ、また有名な「雁の乱れに伏兵を知る」の義家の智将伝説もこの地で生まれたと説明されていた。
(**平成20年11月栗原市での交流会に参加した際、この場所で旧道が発見され、整備されたということで、栗原市産業経済部田園観光課の渡部さんの案内でそこを歩いてきました。そこは笹薮が切り取られ、きれいな旧道が復元されていました。この道は説明文が立っている場所から少し左手、山のほうへ進む道があり、ここを50mほど進むと右手に民家の敷地があって、これを通って進み、道なりに左折して進むと新しく草を刈ってできた旧道が続いていました坂になっており、ここが「十万坂」と呼ばれる坂でした。この道をしばらく歩いていくと、舗装された道に出、これを左折して進むと私が4月に歩いた明治9年の新道に合流したので、これを右折して進みました。下記の写真は十万坂を越えた出口の写真です。**)
旧道はここから第一有壁トンネルの上を越えて斜めに通って、現在の185号線に合流していたようだが、今では道はなくなっているようなので、元の場所に戻り舗装された道を通って進み185号線に合流する。
ここから少し進んだところに「明治天皇御野立休憩所碑」が立っていた。天皇の碑はどこも立派な石でできている場合が多いが、ここの碑はまだ新しくコンクリートでできているようだった。
有壁に着く。東北本線を横切ると左手にJR有壁駅があるので、本陣へ行く前に有壁駅で食事をすることにする。駅の待合室はベンチが一つ置いてあるだけの狭いものだったが、誰もいなかったので二人でそこに座って昼食にする。このとき電話が鳴り、河北新報社の古関さんから本陣の前に着いたと連絡が入る。昨日の取材に続きここで写真を撮るために来られたのだ。丁度そのとき小野寺さんも来られた。小野寺さんは昨夜は用事があって来られなかったのだが、今日はわざわざここまで栗原市に関する資料を持ってきていただきいたのだ。ありがたいことだ。有壁駅で合流し、お二人は車で本陣まで移動し我々は歩いて移動する。
「有壁本陣跡」は奥州街道の中でも最も昔のままの姿を残している。宿駅としては小さなものだったが、松前、八戸、盛岡一関の藩主が参勤交代の度に、また幕府ならびに各藩重臣が通行の際宿泊や休憩をしたところだ。
現存建造物は延享元年(1744)の改築にかかり、道路に面して二階建て長屋があり、その脇に御成門が立っている。明治9年と14年の明治天皇奥州御巡幸の際は御休憩所となった場所でもある。中を見せていただきたいと思ったが、個人のご自宅でもあるので無理だった。
13時27分、有壁宿本陣跡を通る。
金成から3時間15分、11770歩, 9.2km。
有壁本陣前から山の中へ入っていく。ここの旧道は前半戦の一つのヤマ場と思っていた。旧道の様子が良く分からず歩く人が少ないようで情報が少ないのだ。
二人で「さて、行くぞ!」と気合を入れて進んでいく。山の中に入って二ヶ所分かれ道があり、そのいずれも左側を進めばいいと聞いていたので注意をしながら進む。
肘曲がり坂のところで早くも道が二手に分かれている。三好さんは昨年栗原での街道会議に出席された際、ここを歩かれたそうだが、もう一つ記憶が定かではないという。 そのため昨日お会いした渡部さんに電話を入れて確認していただく。私の電話はバッテリーが残り少なくなってきており、電池切れの心配があるのでこれ以降ホテルまで使わないことにした。結局これまで歩いてきた砂利道は明治の旧道で、左に上っていく道は江戸時代の道。いずれにしても少し先で合流しているということが分かったので、江戸時代の道を歩くことにする。
途中でもう一ヶ所T字路があったがここも左折して進むと一旦開けた場所に出た。三好さんが参加された昨年の会議では、ここから左折して国道のほうへ出たということだったが、前を見ると直進する道が見えるので、これを進んでみることにする。松の葉が落ち積もった道は下がゆるい。ここを雨の日に歩くとかなりぬかるんだ道になるだろうなと思った。
実は今日の予報は雨だったのだが、幸いここまでは降らずに来ることができたのだ。
やがて14時頃になってポツポツと雨が落ちてきたが、降りはあまり強くなく歩く上で支障にはならなかった。
この間、道はきれいに整備されており歩く上で何ら支障はなかった。もっともこの時期だから下草がなくて歩きやすかったのか、いつでもこの状況なのかはわからなかった。いずれにしても前半戦の大きなヤマ場と思った場所は意外に簡単に歩き終えることができた。
やがて道は下り始め坂上田村麻呂が、この地で鬼を退治し死骸を埋めたということからついた地名という鬼死骸に出た。
ここから旧国道に沿って歩いていくと左手に「豊吉の墓」がある。天明5年(1785)一関の医師16名が処刑された豊吉の死体を藩から貰いうけ解剖をした。医師たちはこのことによって長年疑問に思っていたことが解明されたので、豊吉を丁重に葬りこの墓を立てて弔らったということだ。東北地方では最も早い医学解剖だったといわれている。墓は旧一関藩の橋田原刑場跡にあったが、ここに移設したと説明されている。
やがて一関市内に入り、今日の宿東横インに15時30分に到着する。
ここでもまだ時間が早いので少し先に進もうかと思ったが、雨も降っているのでやめてホテルでゆっくりすることにした。
仙台をスタートして4日目で宮城県を越え今日は岩手県に入った。 ここまでは順調にきている。なんとかこのまま無事に竜飛岬までたどり着きたいものだとこの日の日記に書いている。
本日の歩行時間 7時間50分
本日の歩数&距離 41903歩、30.1km。
旅の地図
記録
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2008年04月07日(月)
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2008年04月08日(火)
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2008年04月09日(水)
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2008年04月10日(木)
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2008年04月11日(金)
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2008年04月12日(土)
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2008年04月13日(日)
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2008年04月14日(月)
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2008年04月15日(火)
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2008年04月16日(水)
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2008年04月17日(木)
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2008年04月18日(金)
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2008年04月19日(土)
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2008年04月20日(日)
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2008年04月21日(月)
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2008年04月22日(火)
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2008年04月23日(水)
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2008年04月24日(木)
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2008年04月25日(金)
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2008年04月26日(土)
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2008年04月27日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん