2008年02月15日(金)
飯塚~内野~山家~原田
晴れ
朝7時30分に家を出て前回歩いた飯塚宿に9時25分に着く。
本町商店街は丁度開店時でシャッターを開けるつつある店が多い。さあ今日も一日がんばるぞという気持ちが伝わってくるようだ。繁栄を願う。
アーケードを抜けたところに「大神宮跡の碑」が立っている。宝永3年(1703年)ここで元大神と刻まれた光る石が発見されたので大神石と呼び,ここに祠を建てて祭った。石は明治42年(1909年)に納祖八幡宮に移されたことから、祠の跡に井戸を掘りその水で酒を造っているそうだ。「神乃榮」という銘柄だそうで、生産量が少ないため,お金を出せば買うことができるというわけではないということだ。私も初めて聞いた名前だ。
少し先に飯塚宿南構口の看板が立っているが、遺構は何も残っていない。飯塚宿は色々な碑が立っていたが、どこにも遺構は残っていなかった。
ここから進んでいったところに「貴船神社」が立っている。かなり歴史のありそうな神社だったが縁起を書いたものはなかった。
ここで早速道を間違ってしまった。どうにも地図の読み方がへたくそだ。神社を右手に見ながら直進しなければいけなかったところを、右斜めにある道を進んでしまったのだ。歩いていくと道は穂波川に突き当たってしまった。これはおかしいと思っているところに、自転車に乗った高校生が通りかかったので、地図を見せて聞いてみると間違っていることがわかった。この高校生が途中まで案内しましょうと言ってくれたので、厚意に甘えることにする。なんだか日光街道新田宿で会った田中君を思い出してしまった。金曜日なのに何故こんな時間にこんなところにいるのかと思って聞いてみると、自転車を取りに行かなければならなかったので(ここはちょっと意味不明だった)学校には遅刻届けを出していますと言っていた。彼は高校2年生で、地球環境システム科に属しており、食品衛生を専攻しているとのこと。授業は実際に現場で活躍をしている方を呼んで、講義や実習指導をしてもらうなど、学校側も考えたやり方をしているようで、とても楽しいと言っていた。ハキハキとして受け答えもしっかりしており、将来への夢も持っているようでなかなかいい青年だった。写真を撮らせてもらおうと思ったが「イヤ~、いいです」と拒絶されてしまった。
左手に穂波町役場を見ながら進む。役場はこのあたりでは飛びぬけて立派な建物だ。全体的に自治体の建物は立派なものが多いように思う。
右手に楽市小学校があり、その前を通ると「昔、この道長崎街道 今 あいさつ街道」と刻まれた石が置いてあった。ちょっと面白い。
「天道宮」がある。天慶4年(941年)藤原純友の乱のとき、源満仲が勅命を受けて戦いこれを撃破したが、そのときこの神社がすでに存在していたということが書かれていた。
ここから先、地図ではJRの線路を越えていくように記されているので、道を探し、近くにいた方にもお聞きしたが、結局道はわからず、そのまま直進して吉原橋を渡り国道200号線を歩く。跨線橋を越える手前で右折して旧道に入る。いかにも旧道という雰囲気を残した道を歩いていくと、村社天満宮の前を通る。もう梅の花がかなり咲いている。まだ寒い毎日が続いているが、春はもうすぐだよと教えてくれているようだ。
出雲の信号の手前で200号線に合流し、少し先の長尾の信号から右折して再び旧道に入る。汐井川橋を渡り、突き当りを左に曲がって先に進むと「老松神社」があり、その横の境内に「猿田彦の碑」が並んで立っている。
色々な場所にあったものをここに集めたような雰囲気だったが、説明書きはなかった。
前方に冷水峠らしき山が見えており、道の右手には山が迫ってきている。ここもいい雰囲気の旧道が続いているが、だ~れもいない。静かだ。
横山峠という看板が掲げられている所を通る。昔はここもそれなりに険しい峠だったのだろうが、開発の進んだ現在では少しだけ小高くなっている程度できれいな道が通っている。
JRの踏切を越えて進むと「内野宿の東構口跡の看板」が立っている。ここから内野宿内に入っていく。
内野宿は日本一の槍を飲み取った黒田武士で有名な母里但馬が黒田公の命令で宿の建設にあたったところで、現在でも江戸時代のままの道が残り宿場の雰囲気が残っている。
ここでおや!と思った。
店がない。時間は12時を大分過ぎており、腹が減ってきたのだが、食事をする店がないしコンビニもない。これには困った。もともと飢餓状態に極端に弱く、腹が減ると途端に力が出ないという情けない根性の持ち主なので、昼食抜きで歩くなんて考えられない。ましてこれから難所といわれている冷水峠を越えなければいけないのだ。なんでもいいので腹に入れる物がほしい。そう思いながら歩いていると、お店らしい家が一軒だけあった。〒の看板がかかっているので最初は郵便局かと思ったが、ガラス戸越しに中を見ると、お菓子なんかも置いている雑貨店のようだ。それで戸をあけて中に入り「ごめんください」と声をかけるとオバサンが奥から出てきた。「何か食べるものはないですか」と言うと「インスタントラーメンだったらあるけど・・・」という返事。お湯をもらってラーメンでも食べるかと思いながらひょっと横を見るとパンが数個置いてあった。時々見かける賞味期限の長いパンだ。よし、これを食べようと思い、一番大きいパンを買ってそこで食べさせてもらうことにする。外に置いてあった自販機で、あったかい紅茶を買ってきてオバサンと話をしながら食べた。オバサンによると内野宿は昔は随分賑わったそうだが、今ではすっかり寂れてしまって、職場もなく人口は減るばかり、JRの本数も少なく、バスもなくなったため、今では一日に数本のコミュニティバスがあるだけ。学校も近くにないため、朝はバスで通学できるが、帰りは部活などをすると遅くなるため、親が車で毎日迎えに行っているそうだ。車に乗ることができない高齢者にとっては生活すること自体大変なようだ。過疎の町といわれるところはどこもこのような状態なのだろう。
嘉永2年(1849年)に建てられた石作りの道標「太宰府天満宮米山越道」があり、その横に元禄13年(1700年)に建てられ嘉永6年(1853年)に再建された「恵比寿碑」がある。これらは榮梅講や玉梅講が関係して建立されたもので、内野宿の大宰府天満宮信仰の中、宿場の繁盛や旅人の安全を祈願したものと考えられているそうだ。
内野宿では古い家に昔の屋号が書かれた看板が立っていた。元禄のころから現在地に居住した地主で両替商も営んでいた「小倉屋」がある。ここには伊能忠敬の一行のうち3名が宿泊をしたそうで、現在の建物は明治13年に建てられたものだ。土蔵に使われていた慶長元年の瓦が保存されているそうだ。
「長崎屋」は町茶屋(脇本陣)であったといわれ、シーボルトが休憩したといわれている。現在の建物は明治末期に建てられたものだと説明されていた。
ここでカウントする。
12時51分内野宿を通る。
飯塚宿から3時間26分、21013歩、13.2km。
西構口の看板が立っているところを過ぎると、約600mあった内野宿は終わる。内野老松神社がある。宝持2年(1248年)当地が大宰府神領のゆかりから、菅原道真公の神霊を勧請して古宮山(宗賢寺山)創建された。天正元年(1573年)現在地に遷ったと説明書に書かれていた。
いよいよ冷水峠が迫ってきた。長崎街道最大の難所といわれているところだ。ところが手持ちの地図がわかりにくい。200号線と旧道が微妙に描かれているのだがよくわからない。ただ峠に入るところに鳥居があるようなので、それを探して歩いていると右手にあった。ここからいよいよ峠を上っていく。
道は石畳になっている。中山道の石畳は丸い石が埋められていて歩きにくく、いまだに後遺症に苦しめられている捻挫をしてしまったが、ここは平たい石だったので歩きやすかった。
竹やぶの中、木漏れ日の中を上っていく。ここもだ~れもいない。静かで気持ちがいい。
しばらく上っていくと「首なし地蔵」があり、民話が書かれている。それによると、悪者がつれの男を殺した。横の地蔵に「誰も言うな」というと「わしは言わぬがぬしも言うな」といった。びっくりした悪者は地蔵の首を刎ねた。何年か後、二人連れの旅人の一人が地蔵の首のないことを自慢げに話した。つれは殺された人の縁者だった。地蔵の忠告を忘れ、話した悪者は敵を討たれた、と書かれていた。
この話、中山道の鴻ノ巣から熊谷の間にあった白井権八の権八地蔵とそっくりなので驚いた。
この地蔵の横に小川が流れている。この冷たい水で旅人は喉を潤し、疲れを癒していた。これが冷水峠という名前の由来といわれている。英国の初代公使オールコックはその著「大君の都」のなかで、この峠の景色の素晴らしさを著し、祠の横で休む旅人を描いていると説明されていた。
更に山道を登っていくと「稲荷神社の鳥居」があり、その横に「郡境石が」立っている。一つには「従是西御笠郡」もう一つには「従是東穂波郡」と刻まれていた。また何本か鳥居が立っており、その中の下から3基目の鳥居は福岡藩主黒田綱正公寄進と説明されていた。
さすがに空気が冷たい。ここが峠の頂上になっており、ここまで入口の鳥居から32分ほどかかっている。
昔は相当に厳しい峠だったのだろうが、現在ではそれほどのことはなかった。ここから下り坂になり、道はコンクリートで固められていたので歩きやすかった。
峠を下って200号線に出る。ここも旧道があるようで所々に長崎街道と書かれた看板が立っているのだが、これがわかりにくい。最初気がついたところは道が普通の道ではなくあぜ道のようなところを歩くようになっていた。
これはわかりにくいなぁと思いながら、それでもここは歩くことができた。しかしここ以降長崎街道と書かれた看板があったが、それは長崎から来ることを想定して立っている(ように私には思えた・・・)。従って看板を見つけた場所は長崎のほうから来ると旧道の入口になるのだが、小倉のほうから歩くと旧道の出口になるのだ。アッ、ここに出てくるのだと思ってももう遅い。小倉から来た場合の入口には看板がないので、どこで旧道に入るのかがわからないのだ(私が見落としたのかなぁ、でも一箇所だけではなかったので立っていなかったと思います)。仕方がないので国道200号線を歩いたがこの道は怖かった。歩道がなく交通量が多い。しかもなぜか大型トラックが圧倒的に多い。人里はなれたところで信号がないため猛スピードでこれが疾走してくるのだ。特に曲がり角は怖く立ち止まって道端ぎりぎりのところで一台をやり過ごしても次々と途切れることなく車がやってくる。本当に怖かった。途中道路工事をしているところがあり、ガードマンが親切に誘導してくれたが、そのときその人もここはトラックが多くて怖いですねと言われていた。
冷水有料道路のICを過ぎると、ようやくトラックは少なくなり歩きやすくなった。
やがて山家宿に入る。東構口跡があるようになっていたが、どこにあるのかわからなかった。ここの長屋門は明治22年(1889年)から昭和5年(1930年)まで山家郵便局として使われていたそうだ。「大庄屋近藤家の跡」がある。寛保2年(1742年)ごろ山家村大庄屋に就任した近藤弥九郎の役宅跡だ。いまでは空き地になっているが広い土地だ。宿の横に近藤家のお墓がいくつか並んで置かれていた。
「山家宿郡屋跡」がある。ここは現在も住宅として使われているそうで建物の中に入ったり、覗いたりしないでくださいという注意書きが立っていた。
「御茶屋(本陣)跡の碑」が立っている。すぐ横にグループホーム茶屋本陣の看板が立っていた。
ここでカウントする。
16時12分、山家宿を通る。
内野宿から3時間21分、
15344歩、11.4km。
西構口の碑が立っており、ここで山家宿は終わる。
「敬士義塾碑」が立っている。明治11年(1878年)杉山三郎平(水戸学派)が塾を開いたところで塾生20~30名がおり、更に寄宿生もいたという。教科は日本外史、十八史略、四書政記等だったそうだ。杉山三郎平の死去により明治23年(1890年)閉塾されたと説明されていた。萩の松下村塾のような存在だったのだろうか?
この先旧道から少し離れたところに「郡境石」がポツンと立っていた。それには「従是西御笠郡 東夜須郡」と刻まれている。
しばらく歩いていくと右手に「懸社筑紫神社」がある。この神社は延喜式にも記載されている非常に古い歴史を持つ神社で、その起源は奈良時代に書かれた「筑後国風土記」をもとにした、筑後神社に伝わる「御笠郡筑紫神社縁起」によると、「筑前国と築後国の境に荒ぶる神がいて往来のものの命を奪うので困り果て筑紫神として祀ってこれを鎮めた」という筑紫の国号の起源とされる説話が伝わる由緒ある神社だ。現在の建物は正徳2年(1712年)に福岡藩によって再建されたと説明されている。
原田宿に入る。ここは区画整理が行われていて昔の面影は残っていない。わずかに「原田宿跡の碑」が立っているのみだった。
ここでカウントする。
17時25分原田宿に着く。
山家宿から1時間13分、
7017歩、5.3km.
この原田宿で長崎街道筑前六宿が終わることになる。
ここからJR原田駅まですぐ近くだ。17時59分発のJRで帰途に着く。
本日の歩行時間 8時間。
本日の歩数 46067歩。
本日の総歩行距離 30.1km。
朝7時30分に家を出て前回歩いた飯塚宿に9時25分に着く。
本町商店街は丁度開店時でシャッターを開けるつつある店が多い。さあ今日も一日がんばるぞという気持ちが伝わってくるようだ。繁栄を願う。
アーケードを抜けたところに「大神宮跡の碑」が立っている。宝永3年(1703年)ここで元大神と刻まれた光る石が発見されたので大神石と呼び,ここに祠を建てて祭った。石は明治42年(1909年)に納祖八幡宮に移されたことから、祠の跡に井戸を掘りその水で酒を造っているそうだ。「神乃榮」という銘柄だそうで、生産量が少ないため,お金を出せば買うことができるというわけではないということだ。私も初めて聞いた名前だ。
少し先に飯塚宿南構口の看板が立っているが、遺構は何も残っていない。飯塚宿は色々な碑が立っていたが、どこにも遺構は残っていなかった。
ここから進んでいったところに「貴船神社」が立っている。かなり歴史のありそうな神社だったが縁起を書いたものはなかった。
ここで早速道を間違ってしまった。どうにも地図の読み方がへたくそだ。神社を右手に見ながら直進しなければいけなかったところを、右斜めにある道を進んでしまったのだ。歩いていくと道は穂波川に突き当たってしまった。これはおかしいと思っているところに、自転車に乗った高校生が通りかかったので、地図を見せて聞いてみると間違っていることがわかった。この高校生が途中まで案内しましょうと言ってくれたので、厚意に甘えることにする。なんだか日光街道新田宿で会った田中君を思い出してしまった。金曜日なのに何故こんな時間にこんなところにいるのかと思って聞いてみると、自転車を取りに行かなければならなかったので(ここはちょっと意味不明だった)学校には遅刻届けを出していますと言っていた。彼は高校2年生で、地球環境システム科に属しており、食品衛生を専攻しているとのこと。授業は実際に現場で活躍をしている方を呼んで、講義や実習指導をしてもらうなど、学校側も考えたやり方をしているようで、とても楽しいと言っていた。ハキハキとして受け答えもしっかりしており、将来への夢も持っているようでなかなかいい青年だった。写真を撮らせてもらおうと思ったが「イヤ~、いいです」と拒絶されてしまった。
左手に穂波町役場を見ながら進む。役場はこのあたりでは飛びぬけて立派な建物だ。全体的に自治体の建物は立派なものが多いように思う。
右手に楽市小学校があり、その前を通ると「昔、この道長崎街道 今 あいさつ街道」と刻まれた石が置いてあった。ちょっと面白い。
「天道宮」がある。天慶4年(941年)藤原純友の乱のとき、源満仲が勅命を受けて戦いこれを撃破したが、そのときこの神社がすでに存在していたということが書かれていた。
ここから先、地図ではJRの線路を越えていくように記されているので、道を探し、近くにいた方にもお聞きしたが、結局道はわからず、そのまま直進して吉原橋を渡り国道200号線を歩く。跨線橋を越える手前で右折して旧道に入る。いかにも旧道という雰囲気を残した道を歩いていくと、村社天満宮の前を通る。もう梅の花がかなり咲いている。まだ寒い毎日が続いているが、春はもうすぐだよと教えてくれているようだ。
出雲の信号の手前で200号線に合流し、少し先の長尾の信号から右折して再び旧道に入る。汐井川橋を渡り、突き当りを左に曲がって先に進むと「老松神社」があり、その横の境内に「猿田彦の碑」が並んで立っている。
色々な場所にあったものをここに集めたような雰囲気だったが、説明書きはなかった。
前方に冷水峠らしき山が見えており、道の右手には山が迫ってきている。ここもいい雰囲気の旧道が続いているが、だ~れもいない。静かだ。
横山峠という看板が掲げられている所を通る。昔はここもそれなりに険しい峠だったのだろうが、開発の進んだ現在では少しだけ小高くなっている程度できれいな道が通っている。
JRの踏切を越えて進むと「内野宿の東構口跡の看板」が立っている。ここから内野宿内に入っていく。
内野宿は日本一の槍を飲み取った黒田武士で有名な母里但馬が黒田公の命令で宿の建設にあたったところで、現在でも江戸時代のままの道が残り宿場の雰囲気が残っている。
ここでおや!と思った。
店がない。時間は12時を大分過ぎており、腹が減ってきたのだが、食事をする店がないしコンビニもない。これには困った。もともと飢餓状態に極端に弱く、腹が減ると途端に力が出ないという情けない根性の持ち主なので、昼食抜きで歩くなんて考えられない。ましてこれから難所といわれている冷水峠を越えなければいけないのだ。なんでもいいので腹に入れる物がほしい。そう思いながら歩いていると、お店らしい家が一軒だけあった。〒の看板がかかっているので最初は郵便局かと思ったが、ガラス戸越しに中を見ると、お菓子なんかも置いている雑貨店のようだ。それで戸をあけて中に入り「ごめんください」と声をかけるとオバサンが奥から出てきた。「何か食べるものはないですか」と言うと「インスタントラーメンだったらあるけど・・・」という返事。お湯をもらってラーメンでも食べるかと思いながらひょっと横を見るとパンが数個置いてあった。時々見かける賞味期限の長いパンだ。よし、これを食べようと思い、一番大きいパンを買ってそこで食べさせてもらうことにする。外に置いてあった自販機で、あったかい紅茶を買ってきてオバサンと話をしながら食べた。オバサンによると内野宿は昔は随分賑わったそうだが、今ではすっかり寂れてしまって、職場もなく人口は減るばかり、JRの本数も少なく、バスもなくなったため、今では一日に数本のコミュニティバスがあるだけ。学校も近くにないため、朝はバスで通学できるが、帰りは部活などをすると遅くなるため、親が車で毎日迎えに行っているそうだ。車に乗ることができない高齢者にとっては生活すること自体大変なようだ。過疎の町といわれるところはどこもこのような状態なのだろう。
嘉永2年(1849年)に建てられた石作りの道標「太宰府天満宮米山越道」があり、その横に元禄13年(1700年)に建てられ嘉永6年(1853年)に再建された「恵比寿碑」がある。これらは榮梅講や玉梅講が関係して建立されたもので、内野宿の大宰府天満宮信仰の中、宿場の繁盛や旅人の安全を祈願したものと考えられているそうだ。
内野宿では古い家に昔の屋号が書かれた看板が立っていた。元禄のころから現在地に居住した地主で両替商も営んでいた「小倉屋」がある。ここには伊能忠敬の一行のうち3名が宿泊をしたそうで、現在の建物は明治13年に建てられたものだ。土蔵に使われていた慶長元年の瓦が保存されているそうだ。
「長崎屋」は町茶屋(脇本陣)であったといわれ、シーボルトが休憩したといわれている。現在の建物は明治末期に建てられたものだと説明されていた。
ここでカウントする。
12時51分内野宿を通る。
飯塚宿から3時間26分、21013歩、13.2km。
西構口の看板が立っているところを過ぎると、約600mあった内野宿は終わる。内野老松神社がある。宝持2年(1248年)当地が大宰府神領のゆかりから、菅原道真公の神霊を勧請して古宮山(宗賢寺山)創建された。天正元年(1573年)現在地に遷ったと説明書に書かれていた。
いよいよ冷水峠が迫ってきた。長崎街道最大の難所といわれているところだ。ところが手持ちの地図がわかりにくい。200号線と旧道が微妙に描かれているのだがよくわからない。ただ峠に入るところに鳥居があるようなので、それを探して歩いていると右手にあった。ここからいよいよ峠を上っていく。
道は石畳になっている。中山道の石畳は丸い石が埋められていて歩きにくく、いまだに後遺症に苦しめられている捻挫をしてしまったが、ここは平たい石だったので歩きやすかった。
竹やぶの中、木漏れ日の中を上っていく。ここもだ~れもいない。静かで気持ちがいい。
しばらく上っていくと「首なし地蔵」があり、民話が書かれている。それによると、悪者がつれの男を殺した。横の地蔵に「誰も言うな」というと「わしは言わぬがぬしも言うな」といった。びっくりした悪者は地蔵の首を刎ねた。何年か後、二人連れの旅人の一人が地蔵の首のないことを自慢げに話した。つれは殺された人の縁者だった。地蔵の忠告を忘れ、話した悪者は敵を討たれた、と書かれていた。
この話、中山道の鴻ノ巣から熊谷の間にあった白井権八の権八地蔵とそっくりなので驚いた。
この地蔵の横に小川が流れている。この冷たい水で旅人は喉を潤し、疲れを癒していた。これが冷水峠という名前の由来といわれている。英国の初代公使オールコックはその著「大君の都」のなかで、この峠の景色の素晴らしさを著し、祠の横で休む旅人を描いていると説明されていた。
更に山道を登っていくと「稲荷神社の鳥居」があり、その横に「郡境石が」立っている。一つには「従是西御笠郡」もう一つには「従是東穂波郡」と刻まれていた。また何本か鳥居が立っており、その中の下から3基目の鳥居は福岡藩主黒田綱正公寄進と説明されていた。
さすがに空気が冷たい。ここが峠の頂上になっており、ここまで入口の鳥居から32分ほどかかっている。
昔は相当に厳しい峠だったのだろうが、現在ではそれほどのことはなかった。ここから下り坂になり、道はコンクリートで固められていたので歩きやすかった。
峠を下って200号線に出る。ここも旧道があるようで所々に長崎街道と書かれた看板が立っているのだが、これがわかりにくい。最初気がついたところは道が普通の道ではなくあぜ道のようなところを歩くようになっていた。
これはわかりにくいなぁと思いながら、それでもここは歩くことができた。しかしここ以降長崎街道と書かれた看板があったが、それは長崎から来ることを想定して立っている(ように私には思えた・・・)。従って看板を見つけた場所は長崎のほうから来ると旧道の入口になるのだが、小倉のほうから歩くと旧道の出口になるのだ。アッ、ここに出てくるのだと思ってももう遅い。小倉から来た場合の入口には看板がないので、どこで旧道に入るのかがわからないのだ(私が見落としたのかなぁ、でも一箇所だけではなかったので立っていなかったと思います)。仕方がないので国道200号線を歩いたがこの道は怖かった。歩道がなく交通量が多い。しかもなぜか大型トラックが圧倒的に多い。人里はなれたところで信号がないため猛スピードでこれが疾走してくるのだ。特に曲がり角は怖く立ち止まって道端ぎりぎりのところで一台をやり過ごしても次々と途切れることなく車がやってくる。本当に怖かった。途中道路工事をしているところがあり、ガードマンが親切に誘導してくれたが、そのときその人もここはトラックが多くて怖いですねと言われていた。
冷水有料道路のICを過ぎると、ようやくトラックは少なくなり歩きやすくなった。
やがて山家宿に入る。東構口跡があるようになっていたが、どこにあるのかわからなかった。ここの長屋門は明治22年(1889年)から昭和5年(1930年)まで山家郵便局として使われていたそうだ。「大庄屋近藤家の跡」がある。寛保2年(1742年)ごろ山家村大庄屋に就任した近藤弥九郎の役宅跡だ。いまでは空き地になっているが広い土地だ。宿の横に近藤家のお墓がいくつか並んで置かれていた。
「山家宿郡屋跡」がある。ここは現在も住宅として使われているそうで建物の中に入ったり、覗いたりしないでくださいという注意書きが立っていた。
「御茶屋(本陣)跡の碑」が立っている。すぐ横にグループホーム茶屋本陣の看板が立っていた。
ここでカウントする。
16時12分、山家宿を通る。
内野宿から3時間21分、
15344歩、11.4km。
西構口の碑が立っており、ここで山家宿は終わる。
「敬士義塾碑」が立っている。明治11年(1878年)杉山三郎平(水戸学派)が塾を開いたところで塾生20~30名がおり、更に寄宿生もいたという。教科は日本外史、十八史略、四書政記等だったそうだ。杉山三郎平の死去により明治23年(1890年)閉塾されたと説明されていた。萩の松下村塾のような存在だったのだろうか?
この先旧道から少し離れたところに「郡境石」がポツンと立っていた。それには「従是西御笠郡 東夜須郡」と刻まれている。
しばらく歩いていくと右手に「懸社筑紫神社」がある。この神社は延喜式にも記載されている非常に古い歴史を持つ神社で、その起源は奈良時代に書かれた「筑後国風土記」をもとにした、筑後神社に伝わる「御笠郡筑紫神社縁起」によると、「筑前国と築後国の境に荒ぶる神がいて往来のものの命を奪うので困り果て筑紫神として祀ってこれを鎮めた」という筑紫の国号の起源とされる説話が伝わる由緒ある神社だ。現在の建物は正徳2年(1712年)に福岡藩によって再建されたと説明されている。
原田宿に入る。ここは区画整理が行われていて昔の面影は残っていない。わずかに「原田宿跡の碑」が立っているのみだった。
ここでカウントする。
17時25分原田宿に着く。
山家宿から1時間13分、
7017歩、5.3km.
この原田宿で長崎街道筑前六宿が終わることになる。
ここからJR原田駅まですぐ近くだ。17時59分発のJRで帰途に着く。
本日の歩行時間 8時間。
本日の歩数 46067歩。
本日の総歩行距離 30.1km。
旅の地図
記録
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2008年01月19日(土)
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2008年01月28日(月)
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2008年02月15日(金)
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2008年02月19日(火)
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2008年02月29日(金)
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2008年03月05日(水)
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2008年03月06日(木)
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2008年03月07日(金)
プロフィール
歩人
かっちゃん