2007年12月18日(火)
門司往還を歩く
晴れ
13時32分小倉の紫川に架かる常盤橋をスタートする。この常盤橋は九州の街道の全ての起点となった場所で、長崎街道や中津街道等に繋がっている。
現在は木の橋が架けられており、昔を偲ばせるたたずまいである。
門司往還はここから大里宿を経て和布刈へいたる道で、小笠原藩の道として栄えていたところだ。道はすぐに商店が軒を連ねるアーケードの中に入っていく。ここを直進するとJR小倉駅から延びる平和通に直角に交わるがその先はデパートになっている。ここは当初「そごう」が建設、出店したが現在は伊勢丹になっている。ところがこの記事を書いている間に伊勢丹が撤収表明をしてしまった。地元の老舗井筒屋が1円で購入するそうだがすぐ近くに井筒屋本館があるのに、さてどうなることやら。旧道はこの中を通っているのでデパートの中を突っ切って歩く。一階は貴金属や女性用のブーツなどが展示されているがおよそ畑違いの無関心。真っ直ぐに前をのみ見て歩く。この場所は歩いた通りには地図が表示されていない。デパートの中を歩くことは使っているソフトではできないようだ。そのため実際に歩いた道と異なる地図になっている。
デパートを抜けて少し行くと左手に「西顕寺」がある。ここの門のところに「岩松助佐衛門の墓の碑」が立っている。岩松家は代々この地で庄屋を勤めていたが、助佐衛門が海上御用掛難破船支配役を命ぜられた。小倉沖の藍島白洲付近は暗礁が多く西国一の海の難所として難破船が絶えなかったので助佐衛門はこれを憂い、文久2年(1862年)に灯台建設を発起、私財を投じ、義金を募るなど東奔西走した。時代は幕末維新の混乱期だったため事は中々進まず、助佐衛門は苦境に追い込まれたが、明治4年灯台建設事業は国に引き継がれ、明治6年無事白洲灯台として点灯された。しかし助佐衛門はその前年4月にこの世を去っていた、ということが説明書きに書かれていた。ここは会社がすぐ近くにあり頻繁に歩いていた所なのだが、こういった碑があったということにはこれまで全く気がつかなかった。関心がないということはそんなものだろう。
砂津川を渡ったところ、新幹線の高架下に「門司口門跡」がある。ここは九州諸藩が参勤交代で通る小倉でも最も重要な道だったため昼夜常に開門しており番所には常に数名の番士が勤めていたということだ。
「貴布祢神社」がある。創立はわからなかったが鳥居には延宝7年(1679年)という文字が刻まれており、境内には文化10年(1813年)に造られた八大龍王の碑や享保4年(1804年)に造られた手水鉢があり、かなり古い神社である。
また「豊国の企救の長浜ゆきくらし日の暮れぬれば妹をしぞ思う」というこの地を歌った万葉歌碑が建っている。昔は小倉から大里にかけては「企救の長浜」「企救の高浜」と呼ばれており、長い海岸線には白砂と根上がり松が群生をしていて遠く万葉の昔から大宰府に往来する貴人や防人達の心を慰めたといわれている。
更に進むと「岩松助佐衛門生誕の家跡」が立っている。まことに恥かしいことながら地元に住んでいながら私はこの岩松助佐衛門の存在をこれまで知らなかった。今回の歩きで初めて知った次第。なんとなく故郷の大先輩に対して申し訳ないような気持ちだ。
右手に東京製綱の工場があり、その前にあまり長い距離ではないが松並木がある。これは最近になって植えられた松のようだったが昔はこうした松並木が群生していたのだろう。
このあたりは旧道が残っていないため一旦海岸沿いを走る199号線に出、その後延命寺川を渡ったところで右折して3号線に出ると右手に手向山がある。ここには「宮本武蔵と佐々木小次郎の碑」が立っているので登ってみる。階段がついており、あまり高くもないので登りやすい。宮本武蔵の碑は武蔵の養子伊織が建立したものだ。伊織は播州明石の藩主だった小笠原忠真に仕えたが、忠真が小倉藩に入国したときは若くしてすでに知行二千五百石の家老だった。この碑は伊織が忠真から拝領した手向山に養父武蔵をしのんで承応3年(1654年)に建てたもので北九州地方第一の名碑といわれている。
この碑の少し横に「佐々木小次郎の碑」がある。これは作家村上元三が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して昭和26年に建てられ旧小倉市に寄贈されたもので、「小次郎の眉涼しけれつばくろめ」という村上元三の句が刻まれている。巌流島の二人の決闘は有名だが、この地はそこから近く、頂上の展望台からは巌流島をはじめ関門海峡を見通すことができた。巌流島の決闘に関しては吉川英次の小説や映画などでのみ知っていたが、今回ネットで調べてみるとこの決闘に関しては諸説があることがわかった。
例えば小次郎は岩流という兵法家だったそうだが、佐々木小次郎という名前は明確ではないようで、決闘の記述に関してもその当時門司城代だった沼田延元の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、最近再発見された「沼田家記」によると双方弟子を連れてこないで一対一での勝負と決めていたが、武蔵側は弟子を連れてきており、小次郎は約束を守って一人で来た。勝負は武蔵が勝ったが、敗れて気絶した小次郎が蘇生したので武蔵の弟子が打ち殺したと書かれているそうだ。また他の書では武蔵は一人できたと書かれているものもあり、統一されていない。更には江戸時代の歌舞伎では小次郎は武蔵の親の仇ということで描かれていたそうで武蔵は29歳、小次郎は50歳となっているそうだ。武蔵自身も晩年吉岡道場との決闘に関しては度々語っていたそうだが、巌流島の決闘のことに関してはあまり語っていないようで五輪書にも記述が全くなく、結局諸説があって正式にはっきりとした記録は残されていないということのようだった。
手向山を下って少し行ったところに「水かけ地蔵」がある。ここは昔もっと海岸寄りにあったのだが、昭和17年に関門トンネルが開通して鹿児島本線の拡張が行なわれ、すぐ横の西鉄電車が通っていた国道3号線を手向山トンネルを掘って一段高いところを通るようにした際、現在の場所に移されたということだ。石室などもそのまま移されており、石室の壁には天保12年(1841年)と刻まれており豊臣秀吉の時代のものもあると説明されている。
大里新町の信号から左折してJRの線路を越えて旧道に入る。左手にも旧道は延びているようだが、地図で見ると行き止まりになっているようなので、ここから右折して歩く。この道はいかにも旧道という雰囲気を残している道だ。
やがて右手に門司駅が見えてくる所まで来ると赤レンガの建物が立っている。ここは旧サッポロビール醸造棟だ。この前身は「帝国麦酒門司工場」で商品名は「桜ビール」と呼ばれ大正元年に建設されている。その先には門司麦酒煉瓦館がある。左手には赤レンガの倉庫が建っており、このあたりを門司赤煉瓦プレイスと呼んでいるようだ。
その中の一棟の前に豊前大里宿跡の碑が立っている。
常盤橋から2時間3分、12502歩。
大里宿は寿永3年(1183年)都を追われた平家一族が安徳天皇を擁してこの地に「柳の御所」を設けたことから「内裏」と呼ばれるようになり、江戸時代に入って今の大里と呼ばれるようになったということだ。参勤交代が始まったことで大里は海峡を渡る大名や旅人の宿場町として栄え、長崎街道の始終着駅であった。
そのため一里塚標石碑があり、御番所跡や参勤交代の大名に人馬を提供した人馬継所跡、更には伊能忠敬が止宿した本陣重松彦之丞の屋敷跡の碑などが立っており、街道も昔の雰囲気が残っている。
参勤交代は多大な費用負担がかかったため、各藩節約を心がけたようで「いやなお客は鍋島薩摩、いつも夜泊まり七つ立ち」という歌が当時あったそうで、これは夜遅くに宿場に入り、翌朝夜の明けぬ間に出発することによって費用を節約したことを表している。旧道をしばらく歩くと「西生寺」が左手にある。
ここは康正2年(1456年)に創建された阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院で、江戸時代徳川幕府の宗門改めの政策により、当時は企救郡の判行寺(踏絵寺)として毎年三月に踏絵が行われたところだ。ここは慶応2年(1866年)の豊長戦争で焼失し、現在の本堂は明治16年に再建されたものだ。判行寺石碑址の碑が立っていた。
ここから右折してJRの線路を越え大里東口から一旦国道にで、左折して歩く。
左手にJR小森江の駅を見ながらしばらく歩くと二夕松町のところから左斜めに入る道がありこれが旧道なので、この道に沿って歩く。葛葉のところから及び国道にでるが左手に関門海峡が広がり、前方に関門橋が見える。門司税務署の少し先から右に入る道が旧道でここから老松公園に沿って通っている。
やがて東本町の信号のところに出るとそこは関門トンネルの入口になる。関門トンネルは1958年に開通した「人道」と「車道」の二重構造になっているトンネルで全長3461m(海底部780m)で海面下56mを通っているそうだ。人道(780m)を通る歩行者の通行料は無料だ。久しぶりに人道を歩いてみたかったが、もう夕暮れが迫ってきて薄暗くなってきていたのでそのまま和布刈へ急ぐ。
「門司関址の碑」がある。
門司は都と大宰府を結ぶ重要な地であったため、大化2年(646年)ここに海峡往来の人や船を取り締まる関を設け九州第一の駅としたということが説明されていた。もう周囲はかなり暗くなってきた。こうなると日暮れは早いので急いで和布刈神社を目指す。
17時30分丁度に和刈布神社に到着する。上には関門橋が通り、対岸の下関には明かりがともっているのが見える。
常盤橋から3時間58分、24994歩。
このあたりは公園になっていて昼間は人出があるが、暗くなってくるとさすがに誰もいない。
この和刈布神社は旧暦正月午前3時、お社の前の海に入り和布を鎌で刈る和刈布神事で有名なところだ。ここで刈られた和布は朝廷にも献じられ最も古い記録では和銅三年(1370年)といわれているそうだ。
本日の歩数 24994歩(歩行距離 16.0km)
本日の歩行時間 3時間58分
今回門司往還を歩くに際し、大里文化会の会長をされている北野昭二さんから色々とお話をお聞きし、又資料も頂くことができた。事務局長をされている石崎さんともお会いできた。大里はこの方々の活動の成果なのだろう、各所に碑が建っており昔をしのぶ上でとても有益だった。
距離が短かったため普通であればなんということもない一日だったし、現実に歩いているときも途中まではそれほどではなかったのだが、終盤になって次第に足が重くなり、次の日から足にかなり影響が出た。どうも足首の具合がよくない。それでやむなく整形外科にいってみると足首の靭帯が伸びているとのこと。中山道のときの捻挫が影響しているようだと話すとそれほど時間が経過しているのであれば、普通だったら回復をしているはずなのにまだこの状態ということは相当にひどい捻挫だったのでしょうねといわれ、これまで病院にいっていないことが信じられないようだった。たしかにあの時は痛くてへたり込んでしまいしばらく歩くことができなかった。次の日からも気合で歩き通したけれど、あれが無理になったのかなぁ。まぁ今更いっても仕方がないことだけど。。。。
で、今の状態では手術をしてもあまり効果は期待できないので地道に筋肉を鍛えて治していくしか方法はないでしょう、かなり時間がかかると思われますといわれてしまった。幸い歩くことは禁止されなかったのでホッとしたがちょっと困った。
13時32分小倉の紫川に架かる常盤橋をスタートする。この常盤橋は九州の街道の全ての起点となった場所で、長崎街道や中津街道等に繋がっている。
現在は木の橋が架けられており、昔を偲ばせるたたずまいである。
門司往還はここから大里宿を経て和布刈へいたる道で、小笠原藩の道として栄えていたところだ。道はすぐに商店が軒を連ねるアーケードの中に入っていく。ここを直進するとJR小倉駅から延びる平和通に直角に交わるがその先はデパートになっている。ここは当初「そごう」が建設、出店したが現在は伊勢丹になっている。ところがこの記事を書いている間に伊勢丹が撤収表明をしてしまった。地元の老舗井筒屋が1円で購入するそうだがすぐ近くに井筒屋本館があるのに、さてどうなることやら。旧道はこの中を通っているのでデパートの中を突っ切って歩く。一階は貴金属や女性用のブーツなどが展示されているがおよそ畑違いの無関心。真っ直ぐに前をのみ見て歩く。この場所は歩いた通りには地図が表示されていない。デパートの中を歩くことは使っているソフトではできないようだ。そのため実際に歩いた道と異なる地図になっている。
デパートを抜けて少し行くと左手に「西顕寺」がある。ここの門のところに「岩松助佐衛門の墓の碑」が立っている。岩松家は代々この地で庄屋を勤めていたが、助佐衛門が海上御用掛難破船支配役を命ぜられた。小倉沖の藍島白洲付近は暗礁が多く西国一の海の難所として難破船が絶えなかったので助佐衛門はこれを憂い、文久2年(1862年)に灯台建設を発起、私財を投じ、義金を募るなど東奔西走した。時代は幕末維新の混乱期だったため事は中々進まず、助佐衛門は苦境に追い込まれたが、明治4年灯台建設事業は国に引き継がれ、明治6年無事白洲灯台として点灯された。しかし助佐衛門はその前年4月にこの世を去っていた、ということが説明書きに書かれていた。ここは会社がすぐ近くにあり頻繁に歩いていた所なのだが、こういった碑があったということにはこれまで全く気がつかなかった。関心がないということはそんなものだろう。
砂津川を渡ったところ、新幹線の高架下に「門司口門跡」がある。ここは九州諸藩が参勤交代で通る小倉でも最も重要な道だったため昼夜常に開門しており番所には常に数名の番士が勤めていたということだ。
「貴布祢神社」がある。創立はわからなかったが鳥居には延宝7年(1679年)という文字が刻まれており、境内には文化10年(1813年)に造られた八大龍王の碑や享保4年(1804年)に造られた手水鉢があり、かなり古い神社である。
また「豊国の企救の長浜ゆきくらし日の暮れぬれば妹をしぞ思う」というこの地を歌った万葉歌碑が建っている。昔は小倉から大里にかけては「企救の長浜」「企救の高浜」と呼ばれており、長い海岸線には白砂と根上がり松が群生をしていて遠く万葉の昔から大宰府に往来する貴人や防人達の心を慰めたといわれている。
更に進むと「岩松助佐衛門生誕の家跡」が立っている。まことに恥かしいことながら地元に住んでいながら私はこの岩松助佐衛門の存在をこれまで知らなかった。今回の歩きで初めて知った次第。なんとなく故郷の大先輩に対して申し訳ないような気持ちだ。
右手に東京製綱の工場があり、その前にあまり長い距離ではないが松並木がある。これは最近になって植えられた松のようだったが昔はこうした松並木が群生していたのだろう。
このあたりは旧道が残っていないため一旦海岸沿いを走る199号線に出、その後延命寺川を渡ったところで右折して3号線に出ると右手に手向山がある。ここには「宮本武蔵と佐々木小次郎の碑」が立っているので登ってみる。階段がついており、あまり高くもないので登りやすい。宮本武蔵の碑は武蔵の養子伊織が建立したものだ。伊織は播州明石の藩主だった小笠原忠真に仕えたが、忠真が小倉藩に入国したときは若くしてすでに知行二千五百石の家老だった。この碑は伊織が忠真から拝領した手向山に養父武蔵をしのんで承応3年(1654年)に建てたもので北九州地方第一の名碑といわれている。
この碑の少し横に「佐々木小次郎の碑」がある。これは作家村上元三が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して昭和26年に建てられ旧小倉市に寄贈されたもので、「小次郎の眉涼しけれつばくろめ」という村上元三の句が刻まれている。巌流島の二人の決闘は有名だが、この地はそこから近く、頂上の展望台からは巌流島をはじめ関門海峡を見通すことができた。巌流島の決闘に関しては吉川英次の小説や映画などでのみ知っていたが、今回ネットで調べてみるとこの決闘に関しては諸説があることがわかった。
例えば小次郎は岩流という兵法家だったそうだが、佐々木小次郎という名前は明確ではないようで、決闘の記述に関してもその当時門司城代だった沼田延元の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、最近再発見された「沼田家記」によると双方弟子を連れてこないで一対一での勝負と決めていたが、武蔵側は弟子を連れてきており、小次郎は約束を守って一人で来た。勝負は武蔵が勝ったが、敗れて気絶した小次郎が蘇生したので武蔵の弟子が打ち殺したと書かれているそうだ。また他の書では武蔵は一人できたと書かれているものもあり、統一されていない。更には江戸時代の歌舞伎では小次郎は武蔵の親の仇ということで描かれていたそうで武蔵は29歳、小次郎は50歳となっているそうだ。武蔵自身も晩年吉岡道場との決闘に関しては度々語っていたそうだが、巌流島の決闘のことに関してはあまり語っていないようで五輪書にも記述が全くなく、結局諸説があって正式にはっきりとした記録は残されていないということのようだった。
手向山を下って少し行ったところに「水かけ地蔵」がある。ここは昔もっと海岸寄りにあったのだが、昭和17年に関門トンネルが開通して鹿児島本線の拡張が行なわれ、すぐ横の西鉄電車が通っていた国道3号線を手向山トンネルを掘って一段高いところを通るようにした際、現在の場所に移されたということだ。石室などもそのまま移されており、石室の壁には天保12年(1841年)と刻まれており豊臣秀吉の時代のものもあると説明されている。
大里新町の信号から左折してJRの線路を越えて旧道に入る。左手にも旧道は延びているようだが、地図で見ると行き止まりになっているようなので、ここから右折して歩く。この道はいかにも旧道という雰囲気を残している道だ。
やがて右手に門司駅が見えてくる所まで来ると赤レンガの建物が立っている。ここは旧サッポロビール醸造棟だ。この前身は「帝国麦酒門司工場」で商品名は「桜ビール」と呼ばれ大正元年に建設されている。その先には門司麦酒煉瓦館がある。左手には赤レンガの倉庫が建っており、このあたりを門司赤煉瓦プレイスと呼んでいるようだ。
その中の一棟の前に豊前大里宿跡の碑が立っている。
常盤橋から2時間3分、12502歩。
大里宿は寿永3年(1183年)都を追われた平家一族が安徳天皇を擁してこの地に「柳の御所」を設けたことから「内裏」と呼ばれるようになり、江戸時代に入って今の大里と呼ばれるようになったということだ。参勤交代が始まったことで大里は海峡を渡る大名や旅人の宿場町として栄え、長崎街道の始終着駅であった。
そのため一里塚標石碑があり、御番所跡や参勤交代の大名に人馬を提供した人馬継所跡、更には伊能忠敬が止宿した本陣重松彦之丞の屋敷跡の碑などが立っており、街道も昔の雰囲気が残っている。
参勤交代は多大な費用負担がかかったため、各藩節約を心がけたようで「いやなお客は鍋島薩摩、いつも夜泊まり七つ立ち」という歌が当時あったそうで、これは夜遅くに宿場に入り、翌朝夜の明けぬ間に出発することによって費用を節約したことを表している。旧道をしばらく歩くと「西生寺」が左手にある。
ここは康正2年(1456年)に創建された阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院で、江戸時代徳川幕府の宗門改めの政策により、当時は企救郡の判行寺(踏絵寺)として毎年三月に踏絵が行われたところだ。ここは慶応2年(1866年)の豊長戦争で焼失し、現在の本堂は明治16年に再建されたものだ。判行寺石碑址の碑が立っていた。
ここから右折してJRの線路を越え大里東口から一旦国道にで、左折して歩く。
左手にJR小森江の駅を見ながらしばらく歩くと二夕松町のところから左斜めに入る道がありこれが旧道なので、この道に沿って歩く。葛葉のところから及び国道にでるが左手に関門海峡が広がり、前方に関門橋が見える。門司税務署の少し先から右に入る道が旧道でここから老松公園に沿って通っている。
やがて東本町の信号のところに出るとそこは関門トンネルの入口になる。関門トンネルは1958年に開通した「人道」と「車道」の二重構造になっているトンネルで全長3461m(海底部780m)で海面下56mを通っているそうだ。人道(780m)を通る歩行者の通行料は無料だ。久しぶりに人道を歩いてみたかったが、もう夕暮れが迫ってきて薄暗くなってきていたのでそのまま和布刈へ急ぐ。
「門司関址の碑」がある。
門司は都と大宰府を結ぶ重要な地であったため、大化2年(646年)ここに海峡往来の人や船を取り締まる関を設け九州第一の駅としたということが説明されていた。もう周囲はかなり暗くなってきた。こうなると日暮れは早いので急いで和布刈神社を目指す。
17時30分丁度に和刈布神社に到着する。上には関門橋が通り、対岸の下関には明かりがともっているのが見える。
常盤橋から3時間58分、24994歩。
このあたりは公園になっていて昼間は人出があるが、暗くなってくるとさすがに誰もいない。
この和刈布神社は旧暦正月午前3時、お社の前の海に入り和布を鎌で刈る和刈布神事で有名なところだ。ここで刈られた和布は朝廷にも献じられ最も古い記録では和銅三年(1370年)といわれているそうだ。
本日の歩数 24994歩(歩行距離 16.0km)
本日の歩行時間 3時間58分
今回門司往還を歩くに際し、大里文化会の会長をされている北野昭二さんから色々とお話をお聞きし、又資料も頂くことができた。事務局長をされている石崎さんともお会いできた。大里はこの方々の活動の成果なのだろう、各所に碑が建っており昔をしのぶ上でとても有益だった。
距離が短かったため普通であればなんということもない一日だったし、現実に歩いているときも途中まではそれほどではなかったのだが、終盤になって次第に足が重くなり、次の日から足にかなり影響が出た。どうも足首の具合がよくない。それでやむなく整形外科にいってみると足首の靭帯が伸びているとのこと。中山道のときの捻挫が影響しているようだと話すとそれほど時間が経過しているのであれば、普通だったら回復をしているはずなのにまだこの状態ということは相当にひどい捻挫だったのでしょうねといわれ、これまで病院にいっていないことが信じられないようだった。たしかにあの時は痛くてへたり込んでしまいしばらく歩くことができなかった。次の日からも気合で歩き通したけれど、あれが無理になったのかなぁ。まぁ今更いっても仕方がないことだけど。。。。
で、今の状態では手術をしてもあまり効果は期待できないので地道に筋肉を鍛えて治していくしか方法はないでしょう、かなり時間がかかると思われますといわれてしまった。幸い歩くことは禁止されなかったのでホッとしたがちょっと困った。