2007年10月19日(金)
斎川~白石~宮~金ケ瀬~大河原~船迫~槻木~岩沼
曇り夜雨
旅館を出て昨日車に乗せていただいて所までタクシーで戻り7時05分歩き始める。
今日も曇り、予報によると夕方から雨ということだったので先を急ぐ。白石宿までは昨日と今朝、車で通った道を歩く。途中、特に特記するものもなく白石宿に入る。
「当信寺」がある。ここには真田幸村の遺児である阿梅と大八の墓がある。幸村は大坂夏の陣のとき自らの最後を覚悟し、敵将の片倉重信に阿梅、大八らの養育を託した。重信は彼らを白石城二の丸でひそかに養育し、阿梅は重信の後妻に、大八は片倉四郎兵衛と名乗って伊達家に仕えたという。遺児の養育を敵将に託すということもすごいがその願いを受け入れて立派に約束を果たすということも素晴らしいことだと思う。
またここには「白石老人の墓」がある。この老人は皆のことを「せがれ」と呼んでいたそうで107歳まで生きたそうだ。武田家の名のある武将だったのではないといわれているが最後までその正体は不明だったそうだ。どちらも戦国武将の真摯な生き様、気概をみた思いがした。
白石本陣跡は昨日教育委員会で場所を教えていただいていたのですぐにわかった。ここには遺構は全く残ってなく、四つ角にビルが建っていたがここが昔の本陣跡だということだ。地元のくわしい方に教えていただくと正確に手早くわかるのでとても助かる。
8時17分、白石宿本陣跡を通る。
斎川宿から1時間20分、8300歩(約5.4km)。
113号線を歩き、途中から白石川の土手を歩いて白石大橋を渡るが、道筋としては少し後戻る形になる。旧道をしばらく歩くと4号線に合流する。車の通行量は多いが歩道があり、周囲は山で眺めがいい。もっともいつものことだがだれも歩いていない。道の反対側、右手にセブンイレブンがあり、前方にファミリーマートが見えるところで左折し宮宿へ入っていく。ここも地元の人がおられたので本陣跡を聞くとすぐに教えてくれた。ここでは肝入りというそうだ。肝入りとは、当時は名主や庄屋という呼び名が一般的だったが仙台藩では村や町全体の業務を取り仕切る役を肝入りと呼んでいたそうだ。検断との違いがもう一つ良くわからなかった。ここは門構えに昔の姿を残していた。
10時10分、宮宿本陣跡を通る。
白石宿から1時間53分、10536歩(約7.1km)。
金ケ瀬宿へ向かう途中、大高山神社の入口に明治22年に設置された「里程標」がある。これは上半分が欠けてなくなっていた。ここでは里程標の意味がわからなかったが、この後一緒に歩いたお二人に教えていただいて理解した。
「大高山神社」がある。ここは江戸期まで柴田郡の総鎮守として崇められた神社で敏達元年(571年)日本武尊を祭神として創建され、明治5年(1872年)に郷社となる。昭和の初めに火災で焼失し現在地へ移転したということだ。国の重要文化財の東北最古の鰐口(1293銘)や文治年間(1185~1189年)藤原忠衛寄進の鉄九輪塔、江戸時代の絵馬など貴重な文化財が数多く所蔵されているということだ。鳥居は寛政13年(1801年)に南蛮鉄で鋳造されたものだという。
金ケ瀬宿に入る。ここも地元の方に確認をして本陣(肝入り)の跡を確認できた。
11時57分、金ケ瀬宿本陣跡を通る。
宮宿から1時間47分、9491歩(約5.0km)。
金ケ瀬宿には西側の本町には国境警備のための片倉藩の足軽が住んでおり、東側の新町には仙台藩の百姓が住んでいた。本町の家は玄関を白石の方角に向け、新町の家は仙台の方を向いていると書かれていたが、実際にみてみるとそういう造りにしている家が確かに多い。
ここを抜けて大河原宿へ向かう途中、昼食をしていると電話が鳴った。以前資料を送って頂いた秋本さんといわれる方で大河原宿の入口近くで待っているということだった。昨夜電話をしてご挨拶をしていたのだ。昼食を済ませて待ち合わせ場所へ行ってみると秋本さんともう一人原本さんといわれる方が待っていてくれた。
福島県の地図は渋谷さんからご紹介を頂いて国道事務所からとてもいい資料を送ってもらっていたのだが、宮城県に入って以降仙台までの道筋がよくわからなくて困っているとき、前日お会いした白石市の斎藤さんからご紹介を頂いたのが秋本さんなのだ。
秋本さんと原本さんは同じグループで活動されておりこの近辺の一里塚のことを調査されているとのことだった。街道のことに詳しく、宮城県に入った最初の宿場である越河宿から仙台までの街道の資料はとても役に立った。というより頂いたこの地図が唯一の頼りだった。お礼の意味をこめてお時間が取れるようであればお会いしてお茶でも飲んでお話をさせていただこうと思っていたのだが、なんとこのお二人が今日はここから一緒に歩いてくれるという。地元の方なので地理に詳しくとてもありがたかった。早速三人で歩き始める。
大河原宿は本陣の遺構は全く残っていなかったので、中心地と思える場所でカウントする。
13時16分、大河原宿を通る。
金ケ瀬宿から1時間19分、4600歩(約3.1km)。
白石川河畔には一目千本桜と呼ばれる桜並木が並んでいる。これは大正13年に白石川の堤防が完成をしたことを記念して植えられたということだ。
「群境」を示す道標がありこれにお札が立てられている。これはここからの領内には悪霊は入れさせないためにこうしてお札を立てているそうで、国境には道標はなくてもこうしたお札が立てられていた。
しばらく歩いた後、三人でお店に入ってコーヒーを飲みながら改めて自己紹介をしあう。お二人は各々異なる自治体の街づくり推進のグループにおられたのだが、そのグループが解散後も独自にグループを結成して20人ほどで活動を継続されているということだ。このグループは色々な方面に活動されているそうだが、その中でお二人は一里塚を中心に調査をされておられるということだった。盛岡藩の家臣が作成をしたという昔の日本橋から盛岡までの絵図や水準点の資料をわざわざ持ってきていただいており見せてくれた。随分重かったと思われるがその厚意に感謝する。約30分ほど話をして再び歩き始める。
お二人とも健脚だ。スイスイと軽やかに歩いていかれる。心地よい歩きでこちらもいいペースで歩くことができた。歩きながら色々とお話をお聞きしたが、これまでずっと一人で歩いてきた私にとって、こうして複数で一緒に歩くことも中々いいものだと思った。
船迫(フナバサマ)宿には明治天皇聖蹟の碑が立っていた。
ここを本陣跡としてカウントする。
15時03分、船迫宿本陣跡を通る。
大河原宿から1時間47分、8065歩(約4.8km)。
ここから30分ほど歩いたところに「柴田町の一里塚」の碑がある。これはお二人が尽力をされて宝くじからの補助金で建てられたものだそうで実現までに3年かかったそうだ。柴田町には三カ所の一里塚があるそうだが、ここは場所も特定できる根拠となるものがあり碑を建てる場所もあったので、ここに建てられたということだった。
こうした熱意を持たれた方々の活動がとても大切だと思う。調査された結果をこうして形のあるものに残すことで後世に伝えるということは貴重なことだと思う。これまで色々なところを歩いてきて、史蹟等が次々と失われている現場を見てきただけに余計この思いが強い。桑折宿の渋谷さんもそうだが、こういった方々の努力は素晴らしいことだと思う。
更に行くと「里程標」が立っている。明治22年に設置されたもので、「距仙台元票」と刻まれている。大高山神社のところにあったものと同様なものだが、これは仙台からの距離を示すものだということだ。日本橋からの距離は一里塚というもので表しているが、仙台からの距離はこの里程標で表しているということをお二人から教えていただいた。
槻木宿では民家の庭に「明治天皇の碑」が立っている。
中に入れないので外から写真を撮る。ここを本陣跡としてカウントする。
16時18分、槻木宿本陣跡を通る。
船迫宿から1時間15分、7303歩(約5.0km)。
今日の予定はここまでで、槻木宿には宿がないためここからJRで岩沼まで行って泊まり、明日の朝同じくJRでここまで戻って再び歩くという予定を組んでいた。予報どおり雨がポツポツ降り出してきているので予定通り帰ろうと思っていた。秋本さんはご自宅がこの近くだということでここで別れることにする。ところが原本さんは岩沼まで歩いてもかまわないと言われる。原本さんは傘をもたれていないようなので大丈夫ですかと聞くと大丈夫だろうといわれるので私も一緒に岩沼まで歩くことにする。結局原本さんの言われたように雨はぎりぎり大丈夫だった。
秋本さんと別れ、二人で歩き始める。天気が悪いのでもう薄暗くなってきているが原本さんが道筋をご存知なのでスイスイと進むことができる。今日、お二人と一緒に歩き始めて以降地図を見る必要が全くなくお二人について歩くだけでいいという極めて効率のいい歩きができた。一人だったら地図を見ながら、道を間違えながら、考えながら、人に道を尋ねながら、歩くことを考えると格段にペースが速い。
途中、村の境界を示す「道標」を見ながら進む。
次第にあたりは暗くなり、字を読むことができない。東北地方の日暮れは九州よりも一時間以上早いようだ。やがて日はどっぷりと暮れてきた。原本さんが一緒なので歩くことができたが、地図を見ることさえできないので一人ではおそらく歩くことはできなかっただろう。
東武神社の前を通ったが暗くて中を見ることはできなかった。心配された雨もいつの間にか止んでいる。足早に、しかし色々と話をしながら歩き、無事岩沼宿本陣跡に着く。
18時02分、岩沼宿本陣跡を通る。
槻木宿から1時間44分、9872歩(約6.9km)。
あたりはもう真っ暗だ。写真を撮ったが暗くてうまく写っていない。
ここから原本さんはJRで大河原まで帰られるし、私の宿も駅の前ということで二人で駅まで歩く。
ここで雨が本降りになってきた。まるで二人が歩き終わるのを待っていたかのようだった。宿は駅のすぐ前にあったのでここで原本さんと別れる。本当にお世話になりました。今日は57000歩を越えていた。今回の旅で最も多く歩いた一日だったが3人で一緒に話をしながら歩いたこともあってあまり疲れを感じない。一人で歩いているとここまでうまく歩けなかっただろうと思うとお二人に感謝である。これで明日の仙台までの工程は距離も短くなり気持ちが楽になった。
本日の歩数 57462歩(約36.9km)
本日の歩行時間 11時間8分
旅館を出て昨日車に乗せていただいて所までタクシーで戻り7時05分歩き始める。
今日も曇り、予報によると夕方から雨ということだったので先を急ぐ。白石宿までは昨日と今朝、車で通った道を歩く。途中、特に特記するものもなく白石宿に入る。
「当信寺」がある。ここには真田幸村の遺児である阿梅と大八の墓がある。幸村は大坂夏の陣のとき自らの最後を覚悟し、敵将の片倉重信に阿梅、大八らの養育を託した。重信は彼らを白石城二の丸でひそかに養育し、阿梅は重信の後妻に、大八は片倉四郎兵衛と名乗って伊達家に仕えたという。遺児の養育を敵将に託すということもすごいがその願いを受け入れて立派に約束を果たすということも素晴らしいことだと思う。
またここには「白石老人の墓」がある。この老人は皆のことを「せがれ」と呼んでいたそうで107歳まで生きたそうだ。武田家の名のある武将だったのではないといわれているが最後までその正体は不明だったそうだ。どちらも戦国武将の真摯な生き様、気概をみた思いがした。
白石本陣跡は昨日教育委員会で場所を教えていただいていたのですぐにわかった。ここには遺構は全く残ってなく、四つ角にビルが建っていたがここが昔の本陣跡だということだ。地元のくわしい方に教えていただくと正確に手早くわかるのでとても助かる。
8時17分、白石宿本陣跡を通る。
斎川宿から1時間20分、8300歩(約5.4km)。
113号線を歩き、途中から白石川の土手を歩いて白石大橋を渡るが、道筋としては少し後戻る形になる。旧道をしばらく歩くと4号線に合流する。車の通行量は多いが歩道があり、周囲は山で眺めがいい。もっともいつものことだがだれも歩いていない。道の反対側、右手にセブンイレブンがあり、前方にファミリーマートが見えるところで左折し宮宿へ入っていく。ここも地元の人がおられたので本陣跡を聞くとすぐに教えてくれた。ここでは肝入りというそうだ。肝入りとは、当時は名主や庄屋という呼び名が一般的だったが仙台藩では村や町全体の業務を取り仕切る役を肝入りと呼んでいたそうだ。検断との違いがもう一つ良くわからなかった。ここは門構えに昔の姿を残していた。
10時10分、宮宿本陣跡を通る。
白石宿から1時間53分、10536歩(約7.1km)。
金ケ瀬宿へ向かう途中、大高山神社の入口に明治22年に設置された「里程標」がある。これは上半分が欠けてなくなっていた。ここでは里程標の意味がわからなかったが、この後一緒に歩いたお二人に教えていただいて理解した。
「大高山神社」がある。ここは江戸期まで柴田郡の総鎮守として崇められた神社で敏達元年(571年)日本武尊を祭神として創建され、明治5年(1872年)に郷社となる。昭和の初めに火災で焼失し現在地へ移転したということだ。国の重要文化財の東北最古の鰐口(1293銘)や文治年間(1185~1189年)藤原忠衛寄進の鉄九輪塔、江戸時代の絵馬など貴重な文化財が数多く所蔵されているということだ。鳥居は寛政13年(1801年)に南蛮鉄で鋳造されたものだという。
金ケ瀬宿に入る。ここも地元の方に確認をして本陣(肝入り)の跡を確認できた。
11時57分、金ケ瀬宿本陣跡を通る。
宮宿から1時間47分、9491歩(約5.0km)。
金ケ瀬宿には西側の本町には国境警備のための片倉藩の足軽が住んでおり、東側の新町には仙台藩の百姓が住んでいた。本町の家は玄関を白石の方角に向け、新町の家は仙台の方を向いていると書かれていたが、実際にみてみるとそういう造りにしている家が確かに多い。
ここを抜けて大河原宿へ向かう途中、昼食をしていると電話が鳴った。以前資料を送って頂いた秋本さんといわれる方で大河原宿の入口近くで待っているということだった。昨夜電話をしてご挨拶をしていたのだ。昼食を済ませて待ち合わせ場所へ行ってみると秋本さんともう一人原本さんといわれる方が待っていてくれた。
福島県の地図は渋谷さんからご紹介を頂いて国道事務所からとてもいい資料を送ってもらっていたのだが、宮城県に入って以降仙台までの道筋がよくわからなくて困っているとき、前日お会いした白石市の斎藤さんからご紹介を頂いたのが秋本さんなのだ。
秋本さんと原本さんは同じグループで活動されておりこの近辺の一里塚のことを調査されているとのことだった。街道のことに詳しく、宮城県に入った最初の宿場である越河宿から仙台までの街道の資料はとても役に立った。というより頂いたこの地図が唯一の頼りだった。お礼の意味をこめてお時間が取れるようであればお会いしてお茶でも飲んでお話をさせていただこうと思っていたのだが、なんとこのお二人が今日はここから一緒に歩いてくれるという。地元の方なので地理に詳しくとてもありがたかった。早速三人で歩き始める。
大河原宿は本陣の遺構は全く残っていなかったので、中心地と思える場所でカウントする。
13時16分、大河原宿を通る。
金ケ瀬宿から1時間19分、4600歩(約3.1km)。
白石川河畔には一目千本桜と呼ばれる桜並木が並んでいる。これは大正13年に白石川の堤防が完成をしたことを記念して植えられたということだ。
「群境」を示す道標がありこれにお札が立てられている。これはここからの領内には悪霊は入れさせないためにこうしてお札を立てているそうで、国境には道標はなくてもこうしたお札が立てられていた。
しばらく歩いた後、三人でお店に入ってコーヒーを飲みながら改めて自己紹介をしあう。お二人は各々異なる自治体の街づくり推進のグループにおられたのだが、そのグループが解散後も独自にグループを結成して20人ほどで活動を継続されているということだ。このグループは色々な方面に活動されているそうだが、その中でお二人は一里塚を中心に調査をされておられるということだった。盛岡藩の家臣が作成をしたという昔の日本橋から盛岡までの絵図や水準点の資料をわざわざ持ってきていただいており見せてくれた。随分重かったと思われるがその厚意に感謝する。約30分ほど話をして再び歩き始める。
お二人とも健脚だ。スイスイと軽やかに歩いていかれる。心地よい歩きでこちらもいいペースで歩くことができた。歩きながら色々とお話をお聞きしたが、これまでずっと一人で歩いてきた私にとって、こうして複数で一緒に歩くことも中々いいものだと思った。
船迫(フナバサマ)宿には明治天皇聖蹟の碑が立っていた。
ここを本陣跡としてカウントする。
15時03分、船迫宿本陣跡を通る。
大河原宿から1時間47分、8065歩(約4.8km)。
ここから30分ほど歩いたところに「柴田町の一里塚」の碑がある。これはお二人が尽力をされて宝くじからの補助金で建てられたものだそうで実現までに3年かかったそうだ。柴田町には三カ所の一里塚があるそうだが、ここは場所も特定できる根拠となるものがあり碑を建てる場所もあったので、ここに建てられたということだった。
こうした熱意を持たれた方々の活動がとても大切だと思う。調査された結果をこうして形のあるものに残すことで後世に伝えるということは貴重なことだと思う。これまで色々なところを歩いてきて、史蹟等が次々と失われている現場を見てきただけに余計この思いが強い。桑折宿の渋谷さんもそうだが、こういった方々の努力は素晴らしいことだと思う。
更に行くと「里程標」が立っている。明治22年に設置されたもので、「距仙台元票」と刻まれている。大高山神社のところにあったものと同様なものだが、これは仙台からの距離を示すものだということだ。日本橋からの距離は一里塚というもので表しているが、仙台からの距離はこの里程標で表しているということをお二人から教えていただいた。
槻木宿では民家の庭に「明治天皇の碑」が立っている。
中に入れないので外から写真を撮る。ここを本陣跡としてカウントする。
16時18分、槻木宿本陣跡を通る。
船迫宿から1時間15分、7303歩(約5.0km)。
今日の予定はここまでで、槻木宿には宿がないためここからJRで岩沼まで行って泊まり、明日の朝同じくJRでここまで戻って再び歩くという予定を組んでいた。予報どおり雨がポツポツ降り出してきているので予定通り帰ろうと思っていた。秋本さんはご自宅がこの近くだということでここで別れることにする。ところが原本さんは岩沼まで歩いてもかまわないと言われる。原本さんは傘をもたれていないようなので大丈夫ですかと聞くと大丈夫だろうといわれるので私も一緒に岩沼まで歩くことにする。結局原本さんの言われたように雨はぎりぎり大丈夫だった。
秋本さんと別れ、二人で歩き始める。天気が悪いのでもう薄暗くなってきているが原本さんが道筋をご存知なのでスイスイと進むことができる。今日、お二人と一緒に歩き始めて以降地図を見る必要が全くなくお二人について歩くだけでいいという極めて効率のいい歩きができた。一人だったら地図を見ながら、道を間違えながら、考えながら、人に道を尋ねながら、歩くことを考えると格段にペースが速い。
途中、村の境界を示す「道標」を見ながら進む。
次第にあたりは暗くなり、字を読むことができない。東北地方の日暮れは九州よりも一時間以上早いようだ。やがて日はどっぷりと暮れてきた。原本さんが一緒なので歩くことができたが、地図を見ることさえできないので一人ではおそらく歩くことはできなかっただろう。
東武神社の前を通ったが暗くて中を見ることはできなかった。心配された雨もいつの間にか止んでいる。足早に、しかし色々と話をしながら歩き、無事岩沼宿本陣跡に着く。
18時02分、岩沼宿本陣跡を通る。
槻木宿から1時間44分、9872歩(約6.9km)。
あたりはもう真っ暗だ。写真を撮ったが暗くてうまく写っていない。
ここから原本さんはJRで大河原まで帰られるし、私の宿も駅の前ということで二人で駅まで歩く。
ここで雨が本降りになってきた。まるで二人が歩き終わるのを待っていたかのようだった。宿は駅のすぐ前にあったのでここで原本さんと別れる。本当にお世話になりました。今日は57000歩を越えていた。今回の旅で最も多く歩いた一日だったが3人で一緒に話をしながら歩いたこともあってあまり疲れを感じない。一人で歩いているとここまでうまく歩けなかっただろうと思うとお二人に感謝である。これで明日の仙台までの工程は距離も短くなり気持ちが楽になった。
本日の歩数 57462歩(約36.9km)
本日の歩行時間 11時間8分
旅の地図
記録
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2007年10月11日(木)
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2007年10月12日(金)
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2007年10月13日(土)
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2007年10月14日(日)
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2007年10月15日(月)
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2007年10月16日(火)
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2007年10月17日(水)
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2007年10月18日(木)
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2007年10月19日(金)
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2007年10月20日(土)
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2007年10月21日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん