奥州街道を歩く(宇都宮~仙台)

2007年10月11日(木) ~2007年10月21日(日)
総歩数:421759歩 総距離:265.2km

2007年10月17日(水)

JR二本松~杉田~二本松~二本柳~八丁目~若宮~清水町~福島

                                雨のち曇り

 今日は朝のうち雨が降っていたが、途中からそれも止んで曇り空の一日だった。二本松駅を7時17分に出て杉田駅に7時20分に着く。北杉田宿はすぐ近くだ。ここの庄屋の家は皆さんよくご存知ですぐにわかった。
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7時32分、北杉田宿本陣跡を通る。
南杉田宿から17分、2210歩(約0.9km)。
 この間は非常に近く北杉田宿と南杉田宿を合わせて杉田宿とする資料もあるようだ。

 資料によると北杉田を過ぎたあたりから旧道はなくなっているようなのでしばらく須賀川二本松線を歩く。
 やがて旧道に入ると「木登り地蔵」がある。階段を登ってみると正面にお社があり右手に杉の木がある。この木のどこかにお地蔵様があるのだろうと思って探すのだがわからない。一旦下へ降りて後ろに廻って見上げたがやはりわからない。そのときお社の左手にも大きな古木が立っているのに気がつきこれも見たがわからない。折角なのでなんとか見つけようとウロウロしていると下をおばあさんが通りかかったので聞いてみた。するとお社の左側に立っている木の上にあるという。もう一度下からじっくり見上げてみると、あった!
木のかなり上のほう、幹と枝の間に挟まって石のお地蔵さんがあった。「ありました」と大きな声で下から見上げているおばあさんに伝えるとおばあさんはにっこり笑って「あったかね」と言ってくれた。そのときの笑顔がとてもステキだった。ありがとうございました。写真を撮ったがかなり上のほうにある小さなお地蔵様なのでよく映らなかった。でもどうしたあんなところに鎮座されているのだろう?
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 二本松宿の庄屋跡を昨夜泊まった旅館の方に聞いたがわからないということだったが、今日街道に面したところにある本屋さんに聞くとそこから近くということもあってすぐに教えてくれた。
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8時45分、二本松宿本陣跡を通る。
北杉田宿から1時間13分、6704歩(約4.3km)。

 二本松宿を過ぎたところで左折すると亀谷坂にかかる。かなりの急坂だ。これを登ってしばらくいくと「高村智恵子の生家」がある。高村光太郎の妻で「知恵子抄」で有名だがこの地の出身とは知らなかった。智恵子は明治19年「花霞」という銘柄の造り酒屋「米屋」の長女として生まれたと説明書きがあり、当時のままの家屋がきれいに保存されていた。
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 やがて二本柳宿入口に来ると大清浄地蔵菩薩がある。今から700年ほど前に出羽三山からこの地に安置されたとされ、珍しい蓮花地蔵菩薩でこの地蔵は前を向くと晴れ、後ろを向くと雨になるといわれ天気地蔵と呼ばれていたそうだ。
 二本柳宿の庄屋跡がわからない。出会った人何人かに聞いたがだれもわからないという。宿のはずれに円東寺という立派なお寺があったのでそこで尋ねてみたがこの地にはそういった家はなかったということだった。
 今日はこの後も庄屋跡がわからないという場合が多く場所を探すのに苦労した。まず人が通っていないのだ。たまにいても若い方は知らないことが多く、どうしても聞くのは年配者になっる。ところがこの方達は言葉がわからない。皆さん実に親切に、丁寧に話をしてくれるし、こちらも何とか聞き取ろうとするのだが、どうにも良くわからない。東北弁は難解だ。そんな中お寺の住職は土地のことを良くご存知の方が多いので、お寺を見つけるとそこを訪問して尋ねたことが多かった。
 そのお寺で二本柳宿には庄屋はなかったということだったので、円東寺のところでカウントした。
10時46分、二本柳宿を通る。
二本松宿から2時間1分、8833歩(約5.7km)。

 ここの円東寺は慶長3年(1597年)に二本柳宿の成立によってここに移ってきたという古いお寺で本尊は大日如来、境内には樹齢400年ほどの枝垂桜があった。
このすぐ先に柳清水がある。弘法清水とも呼ばれ弘法大師がここで杖を突き立てると清水が湧き出したとの言い伝えがある。四国の井戸寺と同様な話だ。
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 更に行ったところに「鹿の鳴き石」があった。これは昔、竜神が住んでいた沼が決壊して水がなくなり、竜神の妻がいなくなった。竜神は鹿に化身しこの石の上で鳴いて妻を呼んだが見つからなかったので山を越えて土湯の女沼に移り住んだということだ。この鹿の鳴き石の周囲を左に三回廻ると鹿の鳴き声が聞こえるということだ。廻ってみようかと思ったがやめた。
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 このあたりは住宅が点在するものの山の中でコンビニもなにもないところだった。やがて八丁目宿に入る。入口の奥州八丁目天満宮がある。
 水原川に松川橋が架かっている。この橋は明治18年に完成した空石積工法の長さ18mの石橋だ。明治初期の石橋が旧奥州街道筋で現在でも残っているのは珍しいということだ。
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 この橋の袂に西光寺という立派なお寺がある。ここの境内には天明の飢饉で行き倒れになった人々を供養した天明9年(1789年)の碑があるということだったがどれがその碑かわからなかった。
ここで庄屋の事を聞くと今ガソリンスタンドをやっているところが昔の庄屋跡だと教えてくれたのでここでカウントする。
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11時51分、八丁目宿を通る。
二本柳宿から1時間5分、6317歩(約3.8km)。

資料では松川駅入口の信号から旧道は右折するようになっているが、途中で道がなくなっているようだったので、金谷川停車場線を歩いたが、後でよくよく見てみると旧道の近くを歩くことができたようだった。
やがて若宮宿に入る。(資料では浅川新町橋となっている)。ここも誰も人がいない。困ったなと思いながら集落のはずれまでくると一軒の家の前で猫が鳴いている。見ると縁側の戸をあけて猫を呼んでいる人がいた。急いでその家のほうに向かったが、戸を閉めそうになったので「すいませぇ~ん」と声を掛けて走っていった。「ちょっとお伺いしたいのですか」と言うと玄関からわざわざ出てきてくれた。庄屋の跡を聞いてみたがこの宿にはそういった家はなかったということだったのでやむを得ずその場でカウントする。
13時31分、若宮宿を通る。
八丁目宿から1時間40分、6113歩(約4.1km)。

 ここから清水町宿は近かった。「出雲大神宮」がある。ここは昔炭焼き藤太が氏神として祀ったことが最初ということだった。藤太に4人の子供がおり、その一人が金売り吉次だったといわれているそうだ。その後文治5年(1189年)に石名坂の戦いで焼失してしまったが、村人が藤太一家の徳を慕い出雲大神宮を祭り、慶長年間に現在地へ移り村の鎮守とされてきたと説明されていた。
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 中興寺の境内に石碑群があり、藤原宗興の歌碑があった。
清水町宿も庄屋跡はわからなかったが、土蔵造りの家並みがあり、昔の街道の面影を残していた。
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14時10分、清水町宿を通る。
若宮宿から39分、2942歩(約1.7km)。

清水町宿からしばらく歩き、4号線の上に架かる橋を通っていくと全くの山の中に入る。だれもいない、人家もない。静かだ。こんな道を歩くのは気持ちいい。やがて眼下に福島の街が見えてくる。もう少しだ。急な坂道を下っていくと市街地に入っていく。ここからしばらくは直線を歩いていくが福島は大きな街だ。
 交差点で地下道を渡る。何気なく、何も考えずに階段を下りていく。地下道が曲がっていてちょっとわかりにくいなと思いながら上にでた。ところが自分が今どこにいるのかわからなくなってしまった。どこから入ってどの方角へ行けばいいのかがわからないのだ。地図を見ても目印になるものはなにも書かれていない。どこから入ったのかがわかれば進む道もわかるのだが、なにも考えずに地下道に入ったのでそれも覚えていない。思わず自分がボケてしまったのではないかと思った。丁度子供達が通りかかり「こんちは」と挨拶してくれたので、地図を広げて聞いてみると親切に地下道を一緒に降りて案内してくれた。ありがたかったので、お礼をいい写真を撮ってHPに載せてあげるというと、「やったー」と喜んでくれた。近くの小学校の5年生で「サトウ」君、「ホンダ」君、「サトウ」君、「オガタ」君という名前だった。ありがとう!
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 今日の宿は県庁の近くにある。16時にとりあえずチェックインし、まだ時間があるので荷物を置き、16時20分にホテルを出て再び歩く。
 ここで又チョンボだ。荷物につけておいたGPSを持ってくることを忘れてしまったのだ。途中で気がついたのだが、どうすることもできずそのまま歩く。福島宿本陣は宿のすぐ近くにあり標識が立っていた。
16時28分、福島本陣跡を通る。
清水町宿から1時間58分、12780歩(約6.3km)。
その後松川橋まで丁度一時間歩いて、やってきたバスに乗りホテルに帰る。今日も最後は暗くなってしまった。

本日の歩数    48710歩(約30.0km)
本日の歩行時間 10時間