2007年10月15日(月)
白河~根田~小田川~太田川~踏瀬~大和久~新田~矢吹~久来石~笠石~須賀川
曇り
7時に出発する。昨日丸一日休んだ効果がでていて足の調子は大分回復している。
今日からの道案内の資料は、福島に在住されている渋谷さんからご紹介をしていただいて、国土交通省郡山国道事務所調査課の鈴木課長から送っていただいた、福島県内の奥州街道の地図だ。四冊に分かれているこの資料は、とても良くできていて、見やすく、歩く上で非常に助かった。歩き始めてすぐのところに「龍蔵寺」がある。ここの銅鐘は元禄4年(1691年)に鋳造されたもので、「金剛界五佛の種子(梵字)乳の間には乳はなく、胎蔵界五佛の種子が蓮台上の円相内に、池の間には百字真言がそれぞれ陽鋳してある。このため「奥州いぼなしの鐘」として全国に知られている」と説明されている。浅学菲才の身には難解な説明文なのでそのまま掲載させていただきます。写真を撮ったのだが、難解な説明に気押されたのかボケてしまっていた。まだまだ未熟者なのです。
ここを出てまた道を間違ってしまった。コンビニのところで左に直角に曲がらなければいけなかったのに直進してしまったのだ。そのまましばらく歩いてどうもおかしいと気がつき、たまたま住所を記載している家があったので見てみると、旭町となっている。地図で確認をして間違っていることに気付き引き返す。新しい地図で気持ちも新たにして出発したのに、早速のチョンボだ。
294号線に戻り、阿武隈川に架かる田町大橋を渡ってしばらく行くと「仙台戊辰戦役碑」が左手にある。このあたりは戊辰戦争の跡があちこちに残っている。それだけ激戦だったのだろう。
ここで右斜めに進むと「遊女志げ女の碑」がある。戊辰の役の際長州藩士で奥州鎮撫総督府下参謀世良修蔵が志げ女と遊んだが、世良はこの地が危険であると察して白河を脱した。このことから会津藩士は志げ女を殺害してしまった。これを知った遊女屋の下男が、ここで会津藩士を殺害して仇を討ったとされており、戦争の悲劇の一コマであると説明されていた。
しばらく4号線に沿って歩き、旧道に入ると根田宿に入る。この宿に入る手前4号線に沿って安珍堂がある。
928年修験僧安珍が熊野に登った際、紀州御坊の清姫に恋慕され結婚の約束をしてしまうが、それが安珍の気まぐれと知った清姫は、蛇身となって安珍を責め殺してしまったという伝説によるものだ。いい加減な約束をした安珍も悪いが、女性も怖い。
根田宿は静かな住宅街だがどこが本陣跡かわからない。
土地の方に聞いてもわからなかったので、宿のはずれ突き当たりを左折するところでカウントする。
8時32分、根田宿を通る。
白河宿から1時間25分、8560歩(約5.7km)。
この後歩いていてわかったことなのだが、白河宿以降は本陣というものがなく、庄屋あるいは肝入り、検断屋敷などとよばれる家が本陣の代わりをしていたようだ。これらは現在でも大きな土蔵が残っている家もあれば、屋敷がなくなっていて畑になっているところもあった。
根田宿を出て4号線に合流してしばらく歩く。資料では旧道は小田川小学校のほうへ行くようになっているが、途中で道がなくなっているようなので、そのまま4号線を歩き小田川宿の手前から旧道に入る。ここも静かなたたずまいだ。ここに大きな家がある。丁度近所の方らしい女性がゴミを捨てに出てこられたので聞くと、その家が以前の庄屋だった。改めてみてみると土蔵も残っていて大きな家だ。
9時19分、小田川宿本陣跡を通る。
根田宿から47分、4050歩(約2.7km)。
ここ以降矢吹宿の先まで4号線を離れて旧道を歩く。手持ちの資料にはバス停が書かれているので、これをチェックポイントにして歩こうと思ったのだが、バス停がなかなか見つからない。通りかかったおばあさんに聞くと、バス停は撤去されて今はもうないということだった。
やがて太田川宿を通る。ここも庄屋をされていた大きな家があり、その家の人が玄関のところで草取りをしていたので聞くと「そうだ」と言われた。
9時55分、太田川宿庄屋跡を通る。
小田川宿から36分、3329歩(約2.0km)。
宿を出てしばらく歩き、突き当たりを左折すると新池といわれる池があり、池の端に20本ばかりの大きな松が並んで立っていた。地元では新池松並木と呼んでいるようだった。
4号線を横切って進むと踏瀬宿だ。ここは庄屋の家はなくなっていて土蔵のみが残り、周囲は荒地になっていた。平家物語の冒頭の文句が頭に浮かび、栄枯盛衰の様を見せつけられた気がした。
10時36分、踏瀬宿本陣跡を通る。
太田川宿から41分、3452歩(約2.2km)。
このあたりの宿場間の距離は短い。
旧道から少しそれたところ、東北自動車道の下に「観音磨崖供養塔婆群」がある。これは二瀬川の浸食によって溶結凝灰岩が幅約50m露出し、そこに高さ10m幅38mに渡って供養塔婆320基が彫られている。弘安8年(1285年)の塔婆もあるということで、中世の東北の仏教を考える上で貴重な遺産とされているそうだ。
「五本松の松並木」がある。ここは松平定信の時代に整備され、当時は2300本の松が植えられていたそうだ。明治18年(1885年)に捕植されて現在に到っていると説明されていた。日光や箱根の松並木が有名だが、夏は日差しを避けるため、冬は風をさえぎって旅人を守るために、昔はこうして街道のいたるところに植えられていたのだろう。
大和久宿も庄屋の跡はなく、畑になっていた。
11時33分、大和久宿本陣跡を通る。
踏瀬宿から57分、4772歩(約2.8km)。
山王寺がある。ここには樹齢200年の臥竜の松がある。福島はアカマツが多いが、ここはクロマツで珍しいとのことだ。
中畑新田宿は小針家という大きな家があり、石碑が立っているが、今は誰も住んでいないそうで、ここが昔庄屋の役割を果たしていたと、近所の方が言われていた。
12時10分、中畑新田宿本陣跡を通る。
大和久宿から37分、2212歩(約1.0km)。
やがて矢吹宿に入る。パン屋があったので早速買って食べる。矢吹にはコンビニが一軒、食堂も一軒あった。
ここには大正期のままの姿をした産婦人科医院がある。大正9年から昭和40年代まで使われていたそうで、この建物を大正ロマンの館と銘うってライトアップをしているそうだ。
矢吹宿の庄屋跡は門だけが残っていた。ここは今は誰も住んでいないということだった。
12時56分、矢吹宿本陣跡を通る。
中畑新田宿から46分、4669歩(約1.3km)。
「北町地蔵尊」がある。かなり大きなお地蔵様で、台座のところに寛延という文字が見えるので1748年頃の作ではないかと思った。お地蔵様をみていると、隣の家の奥さんが来られて色々と話をする。こうしたちょっとしたふれあいが旅をしているなぁという気持ちになってなかなか楽しいものがある。
久米石宿は鈴木氏という大臣までなられた方の家が、昔の庄屋だったようだ。ここも大きな家だ。
13時42分、久米石宿本陣跡を通る。
矢吹宿から46分、4466歩(約2.8km)。
笠石宿は小林家が庄屋だったとこれも近所の方から聞く。どこも看板を出しているわけではないので、ご近所の方に確かめつつ歩く。ただ、この時間帯は外に出ている人が少なく、たまにいても若い人は宿場のことを知らない方が多い。そのためお年寄りに聞くのだが、これがかなりの難物。言葉がなかなか聞き取れないのだ。東北地方だなぁ~と実感する。
14時09分、笠石宿本陣跡を通る。
久米石宿から27分、2583歩(約1.5km)。
鏡石町の中心街のところに、「笠地蔵」とその横に樹齢250年の枝垂桜が立っている。笠地蔵の由来として「白河風土記に「笠石の碑」とあり年号摩滅して詳ならず里人これを笠地蔵といい、また一説には「和田胤長の供養塔か」とある。拓本をとると明暦の年号で、釈迦如来の梵字と施主の字がある。名は不明である。近世になり地蔵菩薩の信仰が盛んになりこの板碑に笠のあるところから笠地蔵尊として里人の信仰と結びついて今日に至った。笠のある板碑は国内でも珍しい。」と説明書きがあった。
板戸に一カ所穴が開いていて、そこから中を覗いてみたが、中は真っ暗だ。それでカメラを差し込んで写してみると、フラッシュがたかれて中の様子が写り、笠地蔵と書かれた笠が両側にかかっていた。
「鏡田西光寺」がある。ここは永禄年間(1558年~1570年)二階堂家臣鏡沼藤内の建立とされていて、福島県の文化財にも指定されている杉戸襖絵がある。ただ、資料にこの襖絵は保管が難しいので気軽に鑑賞できないため、訪れる前に連絡のことと書かれていたので見ることをあきらめていた。それでも一応行ってみると、ここの奥さんがおられて思いがけず中を見せてもらうことができた。杉戸絵はまだあったそうだが、このお寺の庫裡を建てるときに売ってしまったそうで、それもかなり安価だったということで残念そうだった。ここでもしばらく話を聞かせていただいた。
「須賀川の一里塚」がある。ここには見事な両塚が残っていた。15時半を過ぎた頃だというのに曇っているせいか、周囲はもう薄暗い感じになってきているが、そんな中にあって威風堂々とした一里塚だ。国指定史跡になっているという。
118号線を越えたところで、資料では線路と平行して歩き、その後JRの線路を越えるようになっていたが、線路を渡ることができない。それでしかたなく118号線まで戻り、ガード下を通ってJRを越え、すぐ横にある細道を歩く。やがて須賀川宿に入るが本陣跡がわからない。地元の人に何人も聞いたがわからないということだったので、やむなく本町、現在の市役所の近くでカウントする。
16時14分、須賀川宿を通る。
笠石宿から2時間5分、10147歩(約6.6km)。
今日は須賀川で宿を取っており、あわよくば一旦宿に荷物を置いて笹川まで歩こうかと思っていた。しかしここから笹川まで約6Kmほどあり、時間的にもう無理なので宿に入ることにする。釈迦堂川を渡って須賀川駅まで一旦でて、そこから宿に電話を入れたところ、宿は釈迦堂川の袂にあるとのこと。たった今歩いてきたところだ。戻ってみると私が歩いた道の反対側に宿があった。ここでも無駄な歩きをやってしまった。
本日の歩数 50150歩(約30.6km)
本日の歩行時間 9時間30分
7時に出発する。昨日丸一日休んだ効果がでていて足の調子は大分回復している。
今日からの道案内の資料は、福島に在住されている渋谷さんからご紹介をしていただいて、国土交通省郡山国道事務所調査課の鈴木課長から送っていただいた、福島県内の奥州街道の地図だ。四冊に分かれているこの資料は、とても良くできていて、見やすく、歩く上で非常に助かった。歩き始めてすぐのところに「龍蔵寺」がある。ここの銅鐘は元禄4年(1691年)に鋳造されたもので、「金剛界五佛の種子(梵字)乳の間には乳はなく、胎蔵界五佛の種子が蓮台上の円相内に、池の間には百字真言がそれぞれ陽鋳してある。このため「奥州いぼなしの鐘」として全国に知られている」と説明されている。浅学菲才の身には難解な説明文なのでそのまま掲載させていただきます。写真を撮ったのだが、難解な説明に気押されたのかボケてしまっていた。まだまだ未熟者なのです。
ここを出てまた道を間違ってしまった。コンビニのところで左に直角に曲がらなければいけなかったのに直進してしまったのだ。そのまましばらく歩いてどうもおかしいと気がつき、たまたま住所を記載している家があったので見てみると、旭町となっている。地図で確認をして間違っていることに気付き引き返す。新しい地図で気持ちも新たにして出発したのに、早速のチョンボだ。
294号線に戻り、阿武隈川に架かる田町大橋を渡ってしばらく行くと「仙台戊辰戦役碑」が左手にある。このあたりは戊辰戦争の跡があちこちに残っている。それだけ激戦だったのだろう。
ここで右斜めに進むと「遊女志げ女の碑」がある。戊辰の役の際長州藩士で奥州鎮撫総督府下参謀世良修蔵が志げ女と遊んだが、世良はこの地が危険であると察して白河を脱した。このことから会津藩士は志げ女を殺害してしまった。これを知った遊女屋の下男が、ここで会津藩士を殺害して仇を討ったとされており、戦争の悲劇の一コマであると説明されていた。
しばらく4号線に沿って歩き、旧道に入ると根田宿に入る。この宿に入る手前4号線に沿って安珍堂がある。
928年修験僧安珍が熊野に登った際、紀州御坊の清姫に恋慕され結婚の約束をしてしまうが、それが安珍の気まぐれと知った清姫は、蛇身となって安珍を責め殺してしまったという伝説によるものだ。いい加減な約束をした安珍も悪いが、女性も怖い。
根田宿は静かな住宅街だがどこが本陣跡かわからない。
土地の方に聞いてもわからなかったので、宿のはずれ突き当たりを左折するところでカウントする。
8時32分、根田宿を通る。
白河宿から1時間25分、8560歩(約5.7km)。
この後歩いていてわかったことなのだが、白河宿以降は本陣というものがなく、庄屋あるいは肝入り、検断屋敷などとよばれる家が本陣の代わりをしていたようだ。これらは現在でも大きな土蔵が残っている家もあれば、屋敷がなくなっていて畑になっているところもあった。
根田宿を出て4号線に合流してしばらく歩く。資料では旧道は小田川小学校のほうへ行くようになっているが、途中で道がなくなっているようなので、そのまま4号線を歩き小田川宿の手前から旧道に入る。ここも静かなたたずまいだ。ここに大きな家がある。丁度近所の方らしい女性がゴミを捨てに出てこられたので聞くと、その家が以前の庄屋だった。改めてみてみると土蔵も残っていて大きな家だ。
9時19分、小田川宿本陣跡を通る。
根田宿から47分、4050歩(約2.7km)。
ここ以降矢吹宿の先まで4号線を離れて旧道を歩く。手持ちの資料にはバス停が書かれているので、これをチェックポイントにして歩こうと思ったのだが、バス停がなかなか見つからない。通りかかったおばあさんに聞くと、バス停は撤去されて今はもうないということだった。
やがて太田川宿を通る。ここも庄屋をされていた大きな家があり、その家の人が玄関のところで草取りをしていたので聞くと「そうだ」と言われた。
9時55分、太田川宿庄屋跡を通る。
小田川宿から36分、3329歩(約2.0km)。
宿を出てしばらく歩き、突き当たりを左折すると新池といわれる池があり、池の端に20本ばかりの大きな松が並んで立っていた。地元では新池松並木と呼んでいるようだった。
4号線を横切って進むと踏瀬宿だ。ここは庄屋の家はなくなっていて土蔵のみが残り、周囲は荒地になっていた。平家物語の冒頭の文句が頭に浮かび、栄枯盛衰の様を見せつけられた気がした。
10時36分、踏瀬宿本陣跡を通る。
太田川宿から41分、3452歩(約2.2km)。
このあたりの宿場間の距離は短い。
旧道から少しそれたところ、東北自動車道の下に「観音磨崖供養塔婆群」がある。これは二瀬川の浸食によって溶結凝灰岩が幅約50m露出し、そこに高さ10m幅38mに渡って供養塔婆320基が彫られている。弘安8年(1285年)の塔婆もあるということで、中世の東北の仏教を考える上で貴重な遺産とされているそうだ。
「五本松の松並木」がある。ここは松平定信の時代に整備され、当時は2300本の松が植えられていたそうだ。明治18年(1885年)に捕植されて現在に到っていると説明されていた。日光や箱根の松並木が有名だが、夏は日差しを避けるため、冬は風をさえぎって旅人を守るために、昔はこうして街道のいたるところに植えられていたのだろう。
大和久宿も庄屋の跡はなく、畑になっていた。
11時33分、大和久宿本陣跡を通る。
踏瀬宿から57分、4772歩(約2.8km)。
山王寺がある。ここには樹齢200年の臥竜の松がある。福島はアカマツが多いが、ここはクロマツで珍しいとのことだ。
中畑新田宿は小針家という大きな家があり、石碑が立っているが、今は誰も住んでいないそうで、ここが昔庄屋の役割を果たしていたと、近所の方が言われていた。
12時10分、中畑新田宿本陣跡を通る。
大和久宿から37分、2212歩(約1.0km)。
やがて矢吹宿に入る。パン屋があったので早速買って食べる。矢吹にはコンビニが一軒、食堂も一軒あった。
ここには大正期のままの姿をした産婦人科医院がある。大正9年から昭和40年代まで使われていたそうで、この建物を大正ロマンの館と銘うってライトアップをしているそうだ。
矢吹宿の庄屋跡は門だけが残っていた。ここは今は誰も住んでいないということだった。
12時56分、矢吹宿本陣跡を通る。
中畑新田宿から46分、4669歩(約1.3km)。
「北町地蔵尊」がある。かなり大きなお地蔵様で、台座のところに寛延という文字が見えるので1748年頃の作ではないかと思った。お地蔵様をみていると、隣の家の奥さんが来られて色々と話をする。こうしたちょっとしたふれあいが旅をしているなぁという気持ちになってなかなか楽しいものがある。
久米石宿は鈴木氏という大臣までなられた方の家が、昔の庄屋だったようだ。ここも大きな家だ。
13時42分、久米石宿本陣跡を通る。
矢吹宿から46分、4466歩(約2.8km)。
笠石宿は小林家が庄屋だったとこれも近所の方から聞く。どこも看板を出しているわけではないので、ご近所の方に確かめつつ歩く。ただ、この時間帯は外に出ている人が少なく、たまにいても若い人は宿場のことを知らない方が多い。そのためお年寄りに聞くのだが、これがかなりの難物。言葉がなかなか聞き取れないのだ。東北地方だなぁ~と実感する。
14時09分、笠石宿本陣跡を通る。
久米石宿から27分、2583歩(約1.5km)。
鏡石町の中心街のところに、「笠地蔵」とその横に樹齢250年の枝垂桜が立っている。笠地蔵の由来として「白河風土記に「笠石の碑」とあり年号摩滅して詳ならず里人これを笠地蔵といい、また一説には「和田胤長の供養塔か」とある。拓本をとると明暦の年号で、釈迦如来の梵字と施主の字がある。名は不明である。近世になり地蔵菩薩の信仰が盛んになりこの板碑に笠のあるところから笠地蔵尊として里人の信仰と結びついて今日に至った。笠のある板碑は国内でも珍しい。」と説明書きがあった。
板戸に一カ所穴が開いていて、そこから中を覗いてみたが、中は真っ暗だ。それでカメラを差し込んで写してみると、フラッシュがたかれて中の様子が写り、笠地蔵と書かれた笠が両側にかかっていた。
「鏡田西光寺」がある。ここは永禄年間(1558年~1570年)二階堂家臣鏡沼藤内の建立とされていて、福島県の文化財にも指定されている杉戸襖絵がある。ただ、資料にこの襖絵は保管が難しいので気軽に鑑賞できないため、訪れる前に連絡のことと書かれていたので見ることをあきらめていた。それでも一応行ってみると、ここの奥さんがおられて思いがけず中を見せてもらうことができた。杉戸絵はまだあったそうだが、このお寺の庫裡を建てるときに売ってしまったそうで、それもかなり安価だったということで残念そうだった。ここでもしばらく話を聞かせていただいた。
「須賀川の一里塚」がある。ここには見事な両塚が残っていた。15時半を過ぎた頃だというのに曇っているせいか、周囲はもう薄暗い感じになってきているが、そんな中にあって威風堂々とした一里塚だ。国指定史跡になっているという。
118号線を越えたところで、資料では線路と平行して歩き、その後JRの線路を越えるようになっていたが、線路を渡ることができない。それでしかたなく118号線まで戻り、ガード下を通ってJRを越え、すぐ横にある細道を歩く。やがて須賀川宿に入るが本陣跡がわからない。地元の人に何人も聞いたがわからないということだったので、やむなく本町、現在の市役所の近くでカウントする。
16時14分、須賀川宿を通る。
笠石宿から2時間5分、10147歩(約6.6km)。
今日は須賀川で宿を取っており、あわよくば一旦宿に荷物を置いて笹川まで歩こうかと思っていた。しかしここから笹川まで約6Kmほどあり、時間的にもう無理なので宿に入ることにする。釈迦堂川を渡って須賀川駅まで一旦でて、そこから宿に電話を入れたところ、宿は釈迦堂川の袂にあるとのこと。たった今歩いてきたところだ。戻ってみると私が歩いた道の反対側に宿があった。ここでも無駄な歩きをやってしまった。
本日の歩数 50150歩(約30.6km)
本日の歩行時間 9時間30分
旅の地図
記録
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2007年10月11日(木)
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2007年10月12日(金)
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2007年10月13日(土)
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2007年10月14日(日)
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2007年10月15日(月)
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2007年10月16日(火)
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2007年10月17日(水)
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2007年10月18日(木)
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2007年10月19日(金)
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2007年10月20日(土)
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2007年10月21日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん