2007年10月05日(金)
草加~越ケ谷~粕壁~杉戸~幸手
晴れ
7時丁度に出発する。昨夜は雨が降っていたようだが出発時にはやんでおり、歩くには好都合の天候だ。
昨日通った道を再度歩く。明るい朝の光の中でもう一度草加宿清水本陣跡を探すが結局わからず、道路元標の写真を撮りなおして先に進む。
神明宮という草加宿の総鎮守の前を通ると札場河岸に出て、ここで国道49号線に合流する。右手は綾瀬川が流れていて道の両側は1.5kmに渡って松並木になっている。ここはもともと天和3年(1683年)に綾瀬川を改修したときに、松を植えた事が発端ということだが、昭和60年に市として整備をして草加松原公園と名づけられている。松尾芭蕉の「奥の細道」にちなんだ二つの太鼓型の橋「百代橋」と「矢立橋」が架かっている。
松並木が途切れると今度はソメイヨシノの桜並木となっている。これは平成6年に植えられたようで、綾瀬川に架かる東京外環自動車道298号線の前後に渡って植えられており、きれいに整備された公園だ。
蒲生大橋で綾瀬川を渡ると右手に「蒲生の一里塚」がある。日本橋から五里目で埼玉県内の日光街道では唯一現存する一里塚である。
ここで道を間違えてしまった。橋を渡ってすぐに川に沿って左折しなければいけないのにそのまま直進してしまったのだ。しばらく歩いてなんとなくおかしいなと思い、洗濯物を干していた奥さんがおられたので聞いたところ間違っていることがわかり、一里塚のところまで後戻りする。この間15分、約1km強の無駄足を踏んでしまった。どうも注意力散漫だ。今回は初めての試みとしてGPSをぶら下げて歩いている。この機器を使うと自分が歩いた道が記憶されるので、それを地図上に落とすことができるのだ。今日のこのチョンボ、しっかりと地図上に記録されている。
気を取り直して歩いていくと「清蔵院」がある。ここは天文3年(1534年)に創建され、現在の建物は寛永15年(1638年)に関西の工匠によって建立されたもので、越谷市有形文化財となっている。ここの山門に彫られた龍は左甚五郎の作といわれている。この龍は夜ごとここから抜け出して畑を荒らすので金網で囲まれている、と説明文に書かれていたが、確かに前面は金網に囲まれていた。畑荒らしの汚名を着せられた龍、ちょっとかわいそうだ。
しばらく国道49号線を歩くが、ここは歩道が広く歩きやすい。左手に明治天皇田植御覧之所碑があり、傍らに大きな忠魂碑が立っていた。これは大山巌元帥の書で明治39年、日露戦争の際のものだという。
JR武蔵野線を越えて更に進むと、道は国道49号線から分かれて52号線へと進むが、その分かれ道のところ右手に「照蓮院」がある。
甲斐武田家の家臣秋山長慶が武田家滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸を伴なってここ瓦曽根村に潜居したが、千徳丸はまもなく早世してしまった。それを悲しんだ長慶は、この照蓮院の住職となって菩提を弔ったといわれており、境内に千徳丸の供養塔があった。
ここから越ヶ谷宿に入っていくと時計屋があったので入る。昨日から時計が動かなくなっていたのだ。電池がなくなったのだろうと思って入ったのだが、どうも故障らしいということで修理をあきらめる。調べてもらっている間に店のご主人と奥さんと話をする。通りに垂れ幕が並んでいることを尋ねると、明日から越ヶ谷の総鎮守である久伊豆神社の3年に一回のお祭りがあるとのこと。クイズって書くのよと奥さん。山車も4台出るそうで、町内はその準備で忙しそうだった。ここで大分時間を費やしたので先を急ぐ。越ヶ谷宿の本陣は遺構が全く残っておらず、通りかかった3人の奥さん達に聞いてもわからないということだったので、やむを得ず大沢橋を渡ったところあたりと推測してカウントする。
越ヶ谷宿。9時47分に通る。
草加宿から2時間34分、13149歩(約8.5Km)。
左手に「宮内庁埼玉鴨場」が広がっている。11万7000㎡の敷地があるそうで広大な森になっている。ここは江戸幕府からそのまま引き継いだということだ。入口は頑丈な門がありピタリと門を閉じていた。
このあたりはいかにも旧道という雰囲気はあるものの、車の通行量は多く、しかも歩道がないので歩きにくい。
その後、陸橋入口という信号で国道4号線に合流し歩道を歩くことができるようになる。やはり歩道があると歩きやすい。備後一里塚を通る。ここは日本橋から9里目だが標識が立っているのみだ。
信号一宮から左折して粕壁宿跡を通る。
粕壁本陣はここも遺構なし。大体の場所でカウントする。
粕壁宿を12時20分に通る。
越谷宿から2時間33分、14803歩(約11.3Km)。
信号新町橋西から右折し古利根川に架かる新町橋を渡り、渡ったところで左折して進むと小渕一里塚がある。日本橋から10里目だが、ここも標識が立っているのみである。
国道4号線に合流する少し手前で「追分道標」が二基立っている。一つは宝暦4年に建てられたもので、「左日光街道」と彫られており、もう一つは「左方おうしう道、右方せきやど道」と彫られている。
「小渕山観音院」がある。山門は元禄2年(1689年)、本堂は文政8年(1825年)に再建されたというから古い建物だ。見るからになんともいえぬ風格を感じる。ここの本尊の観音様はこぶ、あざ、いぼとりに霊験あるところから「こぶとり観音」ともいわれている。
信号堤根で国道4号線と別れて373号線を進むと杉戸宿に来る。
ここには「明治天皇御小休所址碑」が立っているが本陣跡はなく、脇本陣だった小林家が残っていた。
ここでカウントする。
杉戸宿。14時52分に通る。
粕壁から2時間32分、10946歩(約7.1Km)。
杉戸宿を出て永享10年(1438年)に創建されたという宝性院を左手に見ながら進むと、国道4号線と合流し、しばらくは一直線の道だ。北海道を歩いたときのことを思い出す。
日光御成道を過ぎて右折すると「神宮寺」がある。ここは源頼朝が奥州征伐の際、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師様に祈って開基したと伝えられ、このことから鷹尾山誓願寺という名前がつけられたといわれている。ここにはお寺の参道の両側に石仏がズラッと並んでいた。
幸手宿本陣跡を通る。16時22分。
杉戸宿から1時間30分、8256歩(約5.8Km)。
ここにも明治天皇行在所御跡碑が立っている。ここから今日の宿はすぐそこだった。
本日の歩数 48890歩(約32.9Km)
本日の歩行時間 9時間22分
7時丁度に出発する。昨夜は雨が降っていたようだが出発時にはやんでおり、歩くには好都合の天候だ。
昨日通った道を再度歩く。明るい朝の光の中でもう一度草加宿清水本陣跡を探すが結局わからず、道路元標の写真を撮りなおして先に進む。
神明宮という草加宿の総鎮守の前を通ると札場河岸に出て、ここで国道49号線に合流する。右手は綾瀬川が流れていて道の両側は1.5kmに渡って松並木になっている。ここはもともと天和3年(1683年)に綾瀬川を改修したときに、松を植えた事が発端ということだが、昭和60年に市として整備をして草加松原公園と名づけられている。松尾芭蕉の「奥の細道」にちなんだ二つの太鼓型の橋「百代橋」と「矢立橋」が架かっている。
松並木が途切れると今度はソメイヨシノの桜並木となっている。これは平成6年に植えられたようで、綾瀬川に架かる東京外環自動車道298号線の前後に渡って植えられており、きれいに整備された公園だ。
蒲生大橋で綾瀬川を渡ると右手に「蒲生の一里塚」がある。日本橋から五里目で埼玉県内の日光街道では唯一現存する一里塚である。
ここで道を間違えてしまった。橋を渡ってすぐに川に沿って左折しなければいけないのにそのまま直進してしまったのだ。しばらく歩いてなんとなくおかしいなと思い、洗濯物を干していた奥さんがおられたので聞いたところ間違っていることがわかり、一里塚のところまで後戻りする。この間15分、約1km強の無駄足を踏んでしまった。どうも注意力散漫だ。今回は初めての試みとしてGPSをぶら下げて歩いている。この機器を使うと自分が歩いた道が記憶されるので、それを地図上に落とすことができるのだ。今日のこのチョンボ、しっかりと地図上に記録されている。
気を取り直して歩いていくと「清蔵院」がある。ここは天文3年(1534年)に創建され、現在の建物は寛永15年(1638年)に関西の工匠によって建立されたもので、越谷市有形文化財となっている。ここの山門に彫られた龍は左甚五郎の作といわれている。この龍は夜ごとここから抜け出して畑を荒らすので金網で囲まれている、と説明文に書かれていたが、確かに前面は金網に囲まれていた。畑荒らしの汚名を着せられた龍、ちょっとかわいそうだ。
しばらく国道49号線を歩くが、ここは歩道が広く歩きやすい。左手に明治天皇田植御覧之所碑があり、傍らに大きな忠魂碑が立っていた。これは大山巌元帥の書で明治39年、日露戦争の際のものだという。
JR武蔵野線を越えて更に進むと、道は国道49号線から分かれて52号線へと進むが、その分かれ道のところ右手に「照蓮院」がある。
甲斐武田家の家臣秋山長慶が武田家滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸を伴なってここ瓦曽根村に潜居したが、千徳丸はまもなく早世してしまった。それを悲しんだ長慶は、この照蓮院の住職となって菩提を弔ったといわれており、境内に千徳丸の供養塔があった。
ここから越ヶ谷宿に入っていくと時計屋があったので入る。昨日から時計が動かなくなっていたのだ。電池がなくなったのだろうと思って入ったのだが、どうも故障らしいということで修理をあきらめる。調べてもらっている間に店のご主人と奥さんと話をする。通りに垂れ幕が並んでいることを尋ねると、明日から越ヶ谷の総鎮守である久伊豆神社の3年に一回のお祭りがあるとのこと。クイズって書くのよと奥さん。山車も4台出るそうで、町内はその準備で忙しそうだった。ここで大分時間を費やしたので先を急ぐ。越ヶ谷宿の本陣は遺構が全く残っておらず、通りかかった3人の奥さん達に聞いてもわからないということだったので、やむを得ず大沢橋を渡ったところあたりと推測してカウントする。
越ヶ谷宿。9時47分に通る。
草加宿から2時間34分、13149歩(約8.5Km)。
左手に「宮内庁埼玉鴨場」が広がっている。11万7000㎡の敷地があるそうで広大な森になっている。ここは江戸幕府からそのまま引き継いだということだ。入口は頑丈な門がありピタリと門を閉じていた。
このあたりはいかにも旧道という雰囲気はあるものの、車の通行量は多く、しかも歩道がないので歩きにくい。
その後、陸橋入口という信号で国道4号線に合流し歩道を歩くことができるようになる。やはり歩道があると歩きやすい。備後一里塚を通る。ここは日本橋から9里目だが標識が立っているのみだ。
信号一宮から左折して粕壁宿跡を通る。
粕壁本陣はここも遺構なし。大体の場所でカウントする。
粕壁宿を12時20分に通る。
越谷宿から2時間33分、14803歩(約11.3Km)。
信号新町橋西から右折し古利根川に架かる新町橋を渡り、渡ったところで左折して進むと小渕一里塚がある。日本橋から10里目だが、ここも標識が立っているのみである。
国道4号線に合流する少し手前で「追分道標」が二基立っている。一つは宝暦4年に建てられたもので、「左日光街道」と彫られており、もう一つは「左方おうしう道、右方せきやど道」と彫られている。
「小渕山観音院」がある。山門は元禄2年(1689年)、本堂は文政8年(1825年)に再建されたというから古い建物だ。見るからになんともいえぬ風格を感じる。ここの本尊の観音様はこぶ、あざ、いぼとりに霊験あるところから「こぶとり観音」ともいわれている。
信号堤根で国道4号線と別れて373号線を進むと杉戸宿に来る。
ここには「明治天皇御小休所址碑」が立っているが本陣跡はなく、脇本陣だった小林家が残っていた。
ここでカウントする。
杉戸宿。14時52分に通る。
粕壁から2時間32分、10946歩(約7.1Km)。
杉戸宿を出て永享10年(1438年)に創建されたという宝性院を左手に見ながら進むと、国道4号線と合流し、しばらくは一直線の道だ。北海道を歩いたときのことを思い出す。
日光御成道を過ぎて右折すると「神宮寺」がある。ここは源頼朝が奥州征伐の際、この地で鷹狩りをし、戦勝を薬師様に祈って開基したと伝えられ、このことから鷹尾山誓願寺という名前がつけられたといわれている。ここにはお寺の参道の両側に石仏がズラッと並んでいた。
幸手宿本陣跡を通る。16時22分。
杉戸宿から1時間30分、8256歩(約5.8Km)。
ここにも明治天皇行在所御跡碑が立っている。ここから今日の宿はすぐそこだった。
本日の歩数 48890歩(約32.9Km)
本日の歩行時間 9時間22分
旅の地図
記録
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2007年10月04日(木)
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2007年10月05日(金)
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2007年10月06日(土)
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2007年10月07日(日)
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2007年10月08日(月)
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2007年10月09日(火)
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2007年10月10日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん