2007年10月04日(木)
福岡~日本橋~千住~草加
晴れ
5時半に起床。雨戸を開けたが外はまだ暗い。中山道へ出発の日、同じ時刻に朝日が昇り始めたことを思い出し、季節の移り変わりを実感する。
飛行機は今回もマイレージを使い、9時の便を予約していたのだが、予約状況をPCで見てみると8時20分の便にも空席があるようなので早めに出かけ無事搭乗。10時には羽田に着くことができた。ここからいつものようにインソールのチェックを受けるため日本橋へ行く。これまではインソールは大きな効果を発揮し順調に歩くことができたのだが今回は失敗。足のマメに悩まされることになる。
11時20分、日本橋を出発する。今年に入って今回で4回目となるので、さすがにもう写真は不要ということで先に進む。天気は晴れ、日差しはかなり強いが、飛行機の中の案内では気温は22℃とのこと。さすがに盛夏の厳しさはない。
歩き始めは中山道を歩いた時と同じ方向へ進むが、三越前を過ぎたところから右折する。少し行くとホテルギンモンド東京があり、ここの植栽の中に「旧日光街道本通」の道標が立っている。
道の両側には高いビルが建っているので、日陰ができており歩くには好都合だ。
神田川に架かる浅草橋を渡る。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をしていた。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから門が築かれており浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附ともいわれ、橋を渡った左手に浅草見附跡の碑が立っている。ここにはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことで、浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたが、いつしか「浅草橋」になったそうだ。
このあたりはビジネス街だが、今日は昼休み前ということもあってか、人通りはさほど多くはない。ただつい先日までクールビズ姿が多かったビジネスマンも、今日はスーツにネクタイ姿の人が多い。ここでもやはり季節を感じる。
やがて道は「浅草観音の雷門」に行き当たる。折角なので旅の無事を祈って参拝したが、仲見世は平日というのに人が一杯で歩きにくくて中々前に進めない。そのためここで思わぬ時間を食ってしまった。海外からの観光客も多く、特に韓国、中国の人ではないかと思われる人が多かった。
言問橋西の信号から斜め左に進むと、明治通りと交差する泪橋の交差点に来る。昔、明治通りは二番用水という小川で、小塚原の刑場に護送される罪人が身内との別れに涙をながしたことからこの名前がついたそうだが、どこの刑場にも同様の名前の場所があったことを思い出す。
数多くの罪人がここで涙の別れをしたのだろうと思いながら歩いていくと、JR常磐線を渡った左手に「小塚原刑場跡」があった。お地蔵様が二体立っている。
昔は「浅草はりつけ場」と称されており、ここが開設されて220年余の間に埋葬された屍体はなんと20余万人に及ぶと説明されていた。年間900人程の罪人が処刑された計算になる。すごい数だ。当時のことだ。その中には冤罪もかなりの数になっていたのではないかなどと考えながら先に進むと「小塚原回向院」があった。ここは寛文7年(1667年)に刑死者の菩提を弔うために設立されたもので、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られていると説明されていた。
「素盞雄(スサノウ)神社」がある。ここは石神信仰に基ずく縁起を有しており、素盞雄命と事代主命の二神を祭神として祭っている。このあたりは昔は巨木が林立していたそうで、今もある大銀杏は幹の周囲3.3m、高さ30mもある。この木に絵馬を奉納する慣わしがあり、現在も沢山の絵馬が奉納されていた。
やがて隅田川に架かる千住大橋を渡ると千住宿に入る。
宿の入口に千住宿歴史プチテラスがあり、芭蕉の石碑が立っていた。千住河原町は青物市場「やっちゃ場」として名を馳せたところで、この名前はせりのときの掛け声からきているということだ。
一里塚跡の標識が立っている。日本橋から二里目だ。千住仲町の商店街を通り、本陣跡に着く。
千住宿本陣跡。14時23分着。
日本橋から3時間3分、14847歩(約8.3Km)。
ここの高札場跡に宿の全体図を書いたものがあり、そこで地元の人がここを訪れた人たちに色々と説明をされていた。私もその中に入って話を聞いていると、どこから来たのかと聞かれたので、九州から来たというと驚かれていた。どこまで歩くのかと聞くので、できれば仙台まで歩きたいと思っていますと答えると、皆さん目を丸くされていた。
荒川放水路に架かる千住新橋を渡り、左折して土手道を歩き、川田橋の信号を右折する。ここからはほぼ直線の道を淡々と歩く。毛長川を渡ってしばらく行くと火あぶり地蔵がある。これは奉公に出た娘が、病の重い母親に会いたさに主人の家に放火をしたために火あぶりの刑になり、そのことを村人が哀れんで建立されたとされている。
やがて草加宿に入るが、すぐに今日の宿があった。とりあえず荷物を預けて本陣跡を探しに行く。左手に市役所があるが、ここは浅古半兵衛という豪商の邸宅跡で、市役所の入口、街道に面したところに浅古家の邸宅角にあった屋敷神の祠がある。先に進んで本陣を探したが良くわからない。
本陣近くと思われるところの近くに道路原票があり、かなり痛んでいて周囲を金属で補修していた。これには「明治44年設定 千住町から弐里拾七町五拾間三尺 越ケ谷町へ壱里三拾三町参拾間三尺」と書かれていた。
ここでとりあえずカウントを行う。
草加宿跡。17時5分着。
千住宿から2時間42分、14707歩(約10.2Km)。
旧道の一つ外れた通りに「明治天皇草加行在所」の碑が立っていた。ここは大川家で本陣跡ではないようだ。
暗くなってきたので17時20分宿へ戻り風呂に行くと、一人のお年寄りが入っていた。「こんちは」と声を掛けてくれたのでこちらも挨拶を返す。この方はご近所の方で、この旅館は500円で入浴をすることができるようになっており、週に何度かは入りに来るといわれていた。ここでも歩いていることを話すと驚かれていた。
本日の歩行時間 6時間
本日の歩数&距離 31066歩(約20.7km)
5時半に起床。雨戸を開けたが外はまだ暗い。中山道へ出発の日、同じ時刻に朝日が昇り始めたことを思い出し、季節の移り変わりを実感する。
飛行機は今回もマイレージを使い、9時の便を予約していたのだが、予約状況をPCで見てみると8時20分の便にも空席があるようなので早めに出かけ無事搭乗。10時には羽田に着くことができた。ここからいつものようにインソールのチェックを受けるため日本橋へ行く。これまではインソールは大きな効果を発揮し順調に歩くことができたのだが今回は失敗。足のマメに悩まされることになる。
11時20分、日本橋を出発する。今年に入って今回で4回目となるので、さすがにもう写真は不要ということで先に進む。天気は晴れ、日差しはかなり強いが、飛行機の中の案内では気温は22℃とのこと。さすがに盛夏の厳しさはない。
歩き始めは中山道を歩いた時と同じ方向へ進むが、三越前を過ぎたところから右折する。少し行くとホテルギンモンド東京があり、ここの植栽の中に「旧日光街道本通」の道標が立っている。
道の両側には高いビルが建っているので、日陰ができており歩くには好都合だ。
神田川に架かる浅草橋を渡る。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をしていた。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから門が築かれており浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附ともいわれ、橋を渡った左手に浅草見附跡の碑が立っている。ここにはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことで、浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたが、いつしか「浅草橋」になったそうだ。
このあたりはビジネス街だが、今日は昼休み前ということもあってか、人通りはさほど多くはない。ただつい先日までクールビズ姿が多かったビジネスマンも、今日はスーツにネクタイ姿の人が多い。ここでもやはり季節を感じる。
やがて道は「浅草観音の雷門」に行き当たる。折角なので旅の無事を祈って参拝したが、仲見世は平日というのに人が一杯で歩きにくくて中々前に進めない。そのためここで思わぬ時間を食ってしまった。海外からの観光客も多く、特に韓国、中国の人ではないかと思われる人が多かった。
言問橋西の信号から斜め左に進むと、明治通りと交差する泪橋の交差点に来る。昔、明治通りは二番用水という小川で、小塚原の刑場に護送される罪人が身内との別れに涙をながしたことからこの名前がついたそうだが、どこの刑場にも同様の名前の場所があったことを思い出す。
数多くの罪人がここで涙の別れをしたのだろうと思いながら歩いていくと、JR常磐線を渡った左手に「小塚原刑場跡」があった。お地蔵様が二体立っている。
昔は「浅草はりつけ場」と称されており、ここが開設されて220年余の間に埋葬された屍体はなんと20余万人に及ぶと説明されていた。年間900人程の罪人が処刑された計算になる。すごい数だ。当時のことだ。その中には冤罪もかなりの数になっていたのではないかなどと考えながら先に進むと「小塚原回向院」があった。ここは寛文7年(1667年)に刑死者の菩提を弔うために設立されたもので、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの志士たちが葬られていると説明されていた。
「素盞雄(スサノウ)神社」がある。ここは石神信仰に基ずく縁起を有しており、素盞雄命と事代主命の二神を祭神として祭っている。このあたりは昔は巨木が林立していたそうで、今もある大銀杏は幹の周囲3.3m、高さ30mもある。この木に絵馬を奉納する慣わしがあり、現在も沢山の絵馬が奉納されていた。
やがて隅田川に架かる千住大橋を渡ると千住宿に入る。
宿の入口に千住宿歴史プチテラスがあり、芭蕉の石碑が立っていた。千住河原町は青物市場「やっちゃ場」として名を馳せたところで、この名前はせりのときの掛け声からきているということだ。
一里塚跡の標識が立っている。日本橋から二里目だ。千住仲町の商店街を通り、本陣跡に着く。
千住宿本陣跡。14時23分着。
日本橋から3時間3分、14847歩(約8.3Km)。
ここの高札場跡に宿の全体図を書いたものがあり、そこで地元の人がここを訪れた人たちに色々と説明をされていた。私もその中に入って話を聞いていると、どこから来たのかと聞かれたので、九州から来たというと驚かれていた。どこまで歩くのかと聞くので、できれば仙台まで歩きたいと思っていますと答えると、皆さん目を丸くされていた。
荒川放水路に架かる千住新橋を渡り、左折して土手道を歩き、川田橋の信号を右折する。ここからはほぼ直線の道を淡々と歩く。毛長川を渡ってしばらく行くと火あぶり地蔵がある。これは奉公に出た娘が、病の重い母親に会いたさに主人の家に放火をしたために火あぶりの刑になり、そのことを村人が哀れんで建立されたとされている。
やがて草加宿に入るが、すぐに今日の宿があった。とりあえず荷物を預けて本陣跡を探しに行く。左手に市役所があるが、ここは浅古半兵衛という豪商の邸宅跡で、市役所の入口、街道に面したところに浅古家の邸宅角にあった屋敷神の祠がある。先に進んで本陣を探したが良くわからない。
本陣近くと思われるところの近くに道路原票があり、かなり痛んでいて周囲を金属で補修していた。これには「明治44年設定 千住町から弐里拾七町五拾間三尺 越ケ谷町へ壱里三拾三町参拾間三尺」と書かれていた。
ここでとりあえずカウントを行う。
草加宿跡。17時5分着。
千住宿から2時間42分、14707歩(約10.2Km)。
旧道の一つ外れた通りに「明治天皇草加行在所」の碑が立っていた。ここは大川家で本陣跡ではないようだ。
暗くなってきたので17時20分宿へ戻り風呂に行くと、一人のお年寄りが入っていた。「こんちは」と声を掛けてくれたのでこちらも挨拶を返す。この方はご近所の方で、この旅館は500円で入浴をすることができるようになっており、週に何度かは入りに来るといわれていた。ここでも歩いていることを話すと驚かれていた。
本日の歩行時間 6時間
本日の歩数&距離 31066歩(約20.7km)
旅の地図
記録
-
2007年10月04日(木)
-
2007年10月05日(金)
-
2007年10月06日(土)
-
2007年10月07日(日)
-
2007年10月08日(月)
-
2007年10月09日(火)
-
2007年10月10日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん