2007年05月24日(木)
中津川~大井~大湫~細久手
晴れ
出発しようとすると宿の女将さんが記念にといって写真を撮ってくれた。お世話になりました。とても感じのいいご夫婦だった。7時35分出発する。
小石塚立場跡碑のあることろは中津口インターの入口になっていてややこしい道筋になっているのだが、案内表示が出ておりそれに従うことで間違わずに歩くことができた。
昨日の妻籠、馬籠からこのあたりまでは案内表示が数多くなされており、迷うことが少なかった。しばらくは若干の上り下りはあるものの平坦な道が続いており歩きやすい。
将監塚がある。二代目美濃の代官だった岡田将監の墓と説明がなされていた。
更に行くと黒壁の家がある。茄子川村の庄屋だった「篠原家」で和宮が立ち寄り、明治天皇も小休されたところで「明治天皇茄子子川小休所碑」が立っている。

前方に高い山が見える。何という山だろうかと思いながら歩いているとおばさんが庭木に水をやっていたので聞くと笠置山とのこと。おばさんが小さい頃、恵那山に三度雪が降ると中津川も本格的な雪になり、笠置山が晴れると中津川も晴れてくるとよく言ったものだと話をしてくれた。
10時05分大井宿本陣跡を通る。
中津川宿から2時間30分、15448歩。
ここの本陣は昭和22年の火災で焼失したが、本陣表門周辺は焼け残り、安土桃山様式を今に伝えていると説明されていた。

ここを過ぎるといよいよ山の中に入るため近くにあったスーパーで昼食用としてパンとジュースを買う。
西行硯水公園を左手に見ながらJRの踏切を渡り高速道路の下をくぐって進む。
10時53分十三峠の入口に来る。十三峠は碓氷峠、和田峠と並んで中山道の三大難所といわれたところで、小さな坂が次々に出てくる。

まず最初は西行坂だ。これを登ると西行塚があり、その入口から階段を登ると展望台がある。天気がよければ見晴らしはいいようだが、今日は霞んでいて展望はいまひとつだった。西行塚は西行法師供養のために建てられたもので、五輪の塔は室町時代末期と推測されるそうだ。
槇ヶ根の一里塚を過ぎ、槇ヶ根坂を登ると「左 西京大坂 右 伊勢名古屋」の道標がある。当時中山道を上街道といい、ここから分かれて下る道を下街道と呼んだそうだ。下街道は現在の土岐市や多治見市を経て名古屋へ行く道で、平坦であり、かつ中山道より四里半短かったので利用者が多かった。そのため幕府は中山道宿場保護のため、商人荷の通行を禁止したが中々徹底しなかったと説明されていた。現在の「行政指導」というものに似ているのかなと思った。坂は相変わらず上って下ってを繰り返す。
坂の名前を気がついただけ記すと、みだれ坂(みたらし坂ともいう)、お継原坂、かくれ神坂、平六坂、紅坂、三城坂、新道坂、吾郎坂、巡礼坂、ぴあいと坂、しゃれこ坂、山ノ神坂といったところだった。小さい坂が多く、これでもいくつかは見逃していると思う。
首なし地蔵碑があった。宝暦6年(1756年)地元の人が旅行者の安全を祈って立てたものだそうだが、その由来は昔、二人の中間が休んでいる間に一人が首を切られて死んでしまった。これを見たもう一人が、お地蔵様に向かって黙ってみているとは何事だといってお地蔵様の首を切ってしまった。以来いくら首をつけようとしてもつかなかったそうで、今でも首のない地蔵様のままだ。ただ、それが旅人の安全とどのように結びつくのかはわからなかったが、面白い話ではある。
中山道四ッ谷休憩所があったので、その縁側に座って昼食を食べる。ここにはちょっとした集落がある。
ここを過ぎるとまた山の中である。行けども行けども山の中だ。地図で見ると大湫宿はもうすぐのはずだが、こんな山の中に宿場があるのだろうかと思いながら歩いていくと、道は下り坂になり、突然目の前が開けて集落があった。
大湫宿だ。14時35分到着する。
大井宿から4時間30分、21481歩。
ここの本陣跡は大湫小学校になっており、その校庭に和宮の歌碑が立っていた。

ここでカメラのフィルムがなくなってしまった。デジカメを使うときはフィルムの残数なんてほとんど気にしないで使うが、このカメラは27枚しかないので一応撮る枚数を少なくするように心がけてきたつもりだったが、それでも失敗してしまった。ここにはフィルムを売っている店などない。困ってしまったがどうすることもできない。こんなことなら少なくとも二本は買っておくべきだったと後悔しても後の祭りだ。ただこのペースで写真を撮り続けると旅が終わるまでに10本近いカメラが必要になってしまう。これ以上荷物が増えるのはイヤなのでできる限り写真を撮る枚数を減らすようにしようと思った。
宿場のはずれに大きな病院がある。かなりの規模のようだ。この近隣の人たちがやってくるのだろう。
更に少し歩いたところに石畳の琵琶峠がある。標高540m美濃十六宿で最も高い峠で伊吹山や鈴鹿峠が一望できるそうだが、写真が取れないとなると展望台に行く気がせず、そのまま下る。我ながらゲンキンなものだ。
両塚が残る日本橋から九十一里目の八瀬沢の一里塚を過ぎ、北野沢の廻国石塔のところを左に進む。ここでどちらに進むか少し迷ったが手元の資料にこの先に国際警察犬訓練所があるようになっており、その標識が立っていたので間違わずに進むことができた。
大湫から細久手までの間は巨岩が目に付く。それと昨日、今日とやけに蛇が目に付く。これまで全く出会わなかっただけに様変わりだ。蛇はまむしだと困るが幸いそれには出会わなかった。
16時15分細久手本陣跡大黒屋旅館に着く。
大湫宿から1時間40分、10368歩。
大黒屋は尾張藩の定本陣で安政6年(18589年)に建てられており歴史を感じさせる造りだ。
夕食は同じように歩いておられるという男性の方と愛想のいい若女将さんの3人で話をしながら食べる。久しぶりにこのような夕食をすることができた。同宿した男性は一日に40km歩いているとのことで、日本橋からここまで9日で来たそうだ。すごいスピードだと驚きながら話をしていると、この方はフルマラソンを何度か経験されているそうで足には自信をもたれているようだった。ただ一日にこれほどの距離を歩くと途中で色々なところをゆっくり見物する余裕はないともいわれていた。私も似たような傾向があるので全く同感だ。私の場合、急ぐ必要のない旅なのになぜか先を急ぐ自分がいる。。。
翌朝、この方は朝食もとらず5時過ぎには出発していた。世の中すごい人がいるものだ。
本日の歩行時間 8時間40分
本日の歩数&距離 47292歩(約32.2km)
出発しようとすると宿の女将さんが記念にといって写真を撮ってくれた。お世話になりました。とても感じのいいご夫婦だった。7時35分出発する。
小石塚立場跡碑のあることろは中津口インターの入口になっていてややこしい道筋になっているのだが、案内表示が出ておりそれに従うことで間違わずに歩くことができた。
昨日の妻籠、馬籠からこのあたりまでは案内表示が数多くなされており、迷うことが少なかった。しばらくは若干の上り下りはあるものの平坦な道が続いており歩きやすい。
将監塚がある。二代目美濃の代官だった岡田将監の墓と説明がなされていた。
更に行くと黒壁の家がある。茄子川村の庄屋だった「篠原家」で和宮が立ち寄り、明治天皇も小休されたところで「明治天皇茄子子川小休所碑」が立っている。

前方に高い山が見える。何という山だろうかと思いながら歩いているとおばさんが庭木に水をやっていたので聞くと笠置山とのこと。おばさんが小さい頃、恵那山に三度雪が降ると中津川も本格的な雪になり、笠置山が晴れると中津川も晴れてくるとよく言ったものだと話をしてくれた。
10時05分大井宿本陣跡を通る。
中津川宿から2時間30分、15448歩。
ここの本陣は昭和22年の火災で焼失したが、本陣表門周辺は焼け残り、安土桃山様式を今に伝えていると説明されていた。

ここを過ぎるといよいよ山の中に入るため近くにあったスーパーで昼食用としてパンとジュースを買う。
西行硯水公園を左手に見ながらJRの踏切を渡り高速道路の下をくぐって進む。
10時53分十三峠の入口に来る。十三峠は碓氷峠、和田峠と並んで中山道の三大難所といわれたところで、小さな坂が次々に出てくる。

まず最初は西行坂だ。これを登ると西行塚があり、その入口から階段を登ると展望台がある。天気がよければ見晴らしはいいようだが、今日は霞んでいて展望はいまひとつだった。西行塚は西行法師供養のために建てられたもので、五輪の塔は室町時代末期と推測されるそうだ。
槇ヶ根の一里塚を過ぎ、槇ヶ根坂を登ると「左 西京大坂 右 伊勢名古屋」の道標がある。当時中山道を上街道といい、ここから分かれて下る道を下街道と呼んだそうだ。下街道は現在の土岐市や多治見市を経て名古屋へ行く道で、平坦であり、かつ中山道より四里半短かったので利用者が多かった。そのため幕府は中山道宿場保護のため、商人荷の通行を禁止したが中々徹底しなかったと説明されていた。現在の「行政指導」というものに似ているのかなと思った。坂は相変わらず上って下ってを繰り返す。
坂の名前を気がついただけ記すと、みだれ坂(みたらし坂ともいう)、お継原坂、かくれ神坂、平六坂、紅坂、三城坂、新道坂、吾郎坂、巡礼坂、ぴあいと坂、しゃれこ坂、山ノ神坂といったところだった。小さい坂が多く、これでもいくつかは見逃していると思う。
首なし地蔵碑があった。宝暦6年(1756年)地元の人が旅行者の安全を祈って立てたものだそうだが、その由来は昔、二人の中間が休んでいる間に一人が首を切られて死んでしまった。これを見たもう一人が、お地蔵様に向かって黙ってみているとは何事だといってお地蔵様の首を切ってしまった。以来いくら首をつけようとしてもつかなかったそうで、今でも首のない地蔵様のままだ。ただ、それが旅人の安全とどのように結びつくのかはわからなかったが、面白い話ではある。
中山道四ッ谷休憩所があったので、その縁側に座って昼食を食べる。ここにはちょっとした集落がある。
ここを過ぎるとまた山の中である。行けども行けども山の中だ。地図で見ると大湫宿はもうすぐのはずだが、こんな山の中に宿場があるのだろうかと思いながら歩いていくと、道は下り坂になり、突然目の前が開けて集落があった。
大湫宿だ。14時35分到着する。
大井宿から4時間30分、21481歩。
ここの本陣跡は大湫小学校になっており、その校庭に和宮の歌碑が立っていた。

ここでカメラのフィルムがなくなってしまった。デジカメを使うときはフィルムの残数なんてほとんど気にしないで使うが、このカメラは27枚しかないので一応撮る枚数を少なくするように心がけてきたつもりだったが、それでも失敗してしまった。ここにはフィルムを売っている店などない。困ってしまったがどうすることもできない。こんなことなら少なくとも二本は買っておくべきだったと後悔しても後の祭りだ。ただこのペースで写真を撮り続けると旅が終わるまでに10本近いカメラが必要になってしまう。これ以上荷物が増えるのはイヤなのでできる限り写真を撮る枚数を減らすようにしようと思った。
宿場のはずれに大きな病院がある。かなりの規模のようだ。この近隣の人たちがやってくるのだろう。
更に少し歩いたところに石畳の琵琶峠がある。標高540m美濃十六宿で最も高い峠で伊吹山や鈴鹿峠が一望できるそうだが、写真が取れないとなると展望台に行く気がせず、そのまま下る。我ながらゲンキンなものだ。
両塚が残る日本橋から九十一里目の八瀬沢の一里塚を過ぎ、北野沢の廻国石塔のところを左に進む。ここでどちらに進むか少し迷ったが手元の資料にこの先に国際警察犬訓練所があるようになっており、その標識が立っていたので間違わずに進むことができた。
大湫から細久手までの間は巨岩が目に付く。それと昨日、今日とやけに蛇が目に付く。これまで全く出会わなかっただけに様変わりだ。蛇はまむしだと困るが幸いそれには出会わなかった。
16時15分細久手本陣跡大黒屋旅館に着く。
大湫宿から1時間40分、10368歩。
大黒屋は尾張藩の定本陣で安政6年(18589年)に建てられており歴史を感じさせる造りだ。
夕食は同じように歩いておられるという男性の方と愛想のいい若女将さんの3人で話をしながら食べる。久しぶりにこのような夕食をすることができた。同宿した男性は一日に40km歩いているとのことで、日本橋からここまで9日で来たそうだ。すごいスピードだと驚きながら話をしていると、この方はフルマラソンを何度か経験されているそうで足には自信をもたれているようだった。ただ一日にこれほどの距離を歩くと途中で色々なところをゆっくり見物する余裕はないともいわれていた。私も似たような傾向があるので全く同感だ。私の場合、急ぐ必要のない旅なのになぜか先を急ぐ自分がいる。。。
翌朝、この方は朝食もとらず5時過ぎには出発していた。世の中すごい人がいるものだ。
本日の歩行時間 8時間40分
本日の歩数&距離 47292歩(約32.2km)
旅の地図
記録
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2007年05月23日(水)
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2007年05月30日(水)
プロフィール

歩人
かっちゃん