2007年05月20日(日)
下諏訪~塩尻~洗馬~本山~贄川~JR贄川駅~JR奈良井駅
晴れ
8時にホテルを出て、諏訪大社秋宮へ参拝後出発する。
甲州街道終点碑近くから左折して歩く。
「魁塚」が左手にある。これは赤報隊隊長相楽総三以下8名を供養する塔として建てられたものである。赤報隊は慶応4年(1868年)近江国(滋賀県)で薩摩の西郷隆盛や公家の岩倉具視らの支援の下結成され、江戸市内で旧幕府軍に対する挑発行為等を行っていたが、やがて新政府の許可を得て「年貢半減」を掲げて信州へ進み、旧幕府に対し反感を持つ民衆の支持を得た。しかし新政府は現実には年貢半減は無理と見て、相良らが勝手に触れ回ったこととして彼らを偽官軍として処罰し、この地で処刑したのだ。幕末から明治初頭にかけて、後世に名前を残しているもの、そうでないものにかかわらず、前途有為な若者がこうして数多く死んでいったのだろう。惜しいことだと思う。
富士見橋を渡ってしばらく行くと東堀の一里塚がある。日本橋から五十六里の塚だ。静かな住宅街を歩いていると三人のお年寄りが何か話をしていたが、その中の一人が私を見て「オジサン、足が動いているよ」と声をかけてきた。「エッ」と思って思わず足元を見てしまった。
「足が、・・・動いている」、あたりまえじゃ。随分昔、私達がまだ小さかった頃によく使ったギャクだ。「やられてしまいましたね」と返すと大笑いしていた。それにしてもあのお年寄りからオジサンと呼ばれるとは、ちょっと複雑な気持ちだ。
「今井の茶屋本陣跡」がある。立派な造りの建物だ。明治天皇御小休所跡碑が立っている。
「右 しもすわ、左 しおじり峠」と彫られた石碑がある。
ここから塩尻峠への登りがはじまる。
左手に高速道路のジャンクションを見ながら丸山坂という急な坂を登る。登り始めてすぐ、右手に「石船観音」がある。足腰の弱い人の信仰が厚いそうで石段を登ってみるとわらじ、靴が多数供えられていた。
ここから後ろを振り返ると諏訪湖の向こうに雪をかぶった富士山の頭頂部が見えた。
天気がいいので遠くまで見通すことができる。きれいな眺めだ。
塩尻峠への登り道は車一台が通れるほどの舗装された道で迷うことはないのだが、かなりきつい登りだった。
頂上は標高1060m、そしてここにも「熊出没注意」の看板が出ていた。
左手後方には雪をかぶった木曾の峰が見える。見晴らしがいい。
下っていく途中で東山の一里塚跡を通る。五十七里目だ。ここは原型がかなり残っている。ここで京都から歩いてきているという男性の二人連れに会う。まだ仕事は現役の方のようで、何度も区切って歩いているといわれていた。この二三日歩いている人に時々会う。週末ということも関係しているのだろう。峠を下ってしばらく行くと永福寺がある。木曾義仲の信仰が厚かった駒形観世音を祭っている。わらぶきの屋根で、山門は立派な造りだが、これは明治29年に建立されたと説明されていた。
11時05分塩尻宿本陣跡を通る。
下諏訪宿から3時間05分、18960歩。
塩尻宿をでて少し行くと堀内家がある。旧堀の内村の庄屋を務めた家で、築200年経っているそうだ。国の重要文化財となっている。更に行くと右手に昭和電工の大きな工場があり、前方に穂高連峰が見えてくる。
平出の一里塚は日本橋から五十九里目の一里塚で道の両側に塚が残っている数少ない一里塚の一つだ。
この近く、道から少し入ったところに「平井遺跡」がある。縄文時代の集落の跡で当時199軒の住居があったそうで竪穴式の住居が復元されていた。中に入ってみると囲炉裏があるだけ。冬の寒さにはどのようにして耐えたのだろう、そもそもこんな高地にどこから、どのようにしてやってきたのだろう、と次々と疑問が湧く。
洗馬宿入口に来る。道標が立っており正面は「右 中山道」、左面には「左 北国往還 善光寺道」と彫られている。
13時16分 洗馬宿本陣跡を通る。
塩尻宿から2時間11分、10210歩。
ここは民家の前に表示板が立っているだけである。
牧野の一里塚があり「京へ七二里、江戸へ六○里」と書いてある。まだ半分来ていないのだと改めて思う。
14時も本山宿本陣跡を通る。
洗馬宿から44分、5390歩。
本陣跡は本通りから細い路地を通って奥まったところにあった。ここにも「明治天皇行在所跡碑」が立っている。
本陣のあった家の道を挟んだ前にいかにも昔を偲ばせるような造りの家が並んでいた。歴史を感じさせる造りだ。
日出塩の一里塚跡がある。日本橋から六十一里だ。こうした一里塚があるとたしかに気持ちの上で一つの区切りになるものだと改めて感じる。
「是より南 木曽路」の碑がある。これからいよいよ木曽路に入るのだ。
この碑のところから山道を登り左手は山の崖、右手は切り立った崖という道を歩く。右手崖のすぐ下は国道が走っておりその向こうに奈良井川が流れている。かなりの高さがある。ただこの道は長く続かず間もなく国道に合流する。
合流したところに桜沢茶屋本陣跡があり、ここには明治天皇櫻澤御小休所の碑がある。
「木曽路は全て山の中である」とは「夜明け前」の書き出しの文章だが、確かにここから始まる木曽路は山の中だ。両側に山が迫ってきており、谷間に線路、道路が通っているという感じだ。いまでこそ交通網がこうして整備されているからそう感じないが、昔はすごい山の中の道だったのだろう。
「
日本橋から六十二里目の若神子の一里塚を過ぎたところから国道を離れ右手の旧道に入っていくと若神子村に入っていく。
しばらく歩いていくと国道に合流し、左手にJR贄川駅がある。
贄川駅の先で国道と分かれJR線路を越えると贄川宿の入口になり関所跡がある。この関所は木曽路北門の関と呼ばれここを通るときは厳しい取締りがあったそうだ。
贄川宿に入るとこの地にある麻衣廼神社のお祭りが行われていた。山車が出ており、いかにも地域の祭りといった感じで行われていた。
ただ本陣跡ははっきりしなかったので国の重要文化財である深澤家住宅三棟の前をとりあえずのカウント場所とした。
16時07分贄川宿。
本山宿から2時間7分、12387歩。
今日の歩きはここまででここから奈良井まではJRで行くことにする。JRは2時間に一本しかないため時間に注意をして見物し、16時19分のJRに乗ることができた。16時27分奈良井駅に到着する。
今日の宿は駅からすぐ近くだ。
本日の歩行時間 8時間15分
本日の歩数&距離 48744歩(約33.1km)
8時にホテルを出て、諏訪大社秋宮へ参拝後出発する。
甲州街道終点碑近くから左折して歩く。
「魁塚」が左手にある。これは赤報隊隊長相楽総三以下8名を供養する塔として建てられたものである。赤報隊は慶応4年(1868年)近江国(滋賀県)で薩摩の西郷隆盛や公家の岩倉具視らの支援の下結成され、江戸市内で旧幕府軍に対する挑発行為等を行っていたが、やがて新政府の許可を得て「年貢半減」を掲げて信州へ進み、旧幕府に対し反感を持つ民衆の支持を得た。しかし新政府は現実には年貢半減は無理と見て、相良らが勝手に触れ回ったこととして彼らを偽官軍として処罰し、この地で処刑したのだ。幕末から明治初頭にかけて、後世に名前を残しているもの、そうでないものにかかわらず、前途有為な若者がこうして数多く死んでいったのだろう。惜しいことだと思う。
富士見橋を渡ってしばらく行くと東堀の一里塚がある。日本橋から五十六里の塚だ。静かな住宅街を歩いていると三人のお年寄りが何か話をしていたが、その中の一人が私を見て「オジサン、足が動いているよ」と声をかけてきた。「エッ」と思って思わず足元を見てしまった。
「足が、・・・動いている」、あたりまえじゃ。随分昔、私達がまだ小さかった頃によく使ったギャクだ。「やられてしまいましたね」と返すと大笑いしていた。それにしてもあのお年寄りからオジサンと呼ばれるとは、ちょっと複雑な気持ちだ。
「今井の茶屋本陣跡」がある。立派な造りの建物だ。明治天皇御小休所跡碑が立っている。
「右 しもすわ、左 しおじり峠」と彫られた石碑がある。
ここから塩尻峠への登りがはじまる。
左手に高速道路のジャンクションを見ながら丸山坂という急な坂を登る。登り始めてすぐ、右手に「石船観音」がある。足腰の弱い人の信仰が厚いそうで石段を登ってみるとわらじ、靴が多数供えられていた。
ここから後ろを振り返ると諏訪湖の向こうに雪をかぶった富士山の頭頂部が見えた。
天気がいいので遠くまで見通すことができる。きれいな眺めだ。
塩尻峠への登り道は車一台が通れるほどの舗装された道で迷うことはないのだが、かなりきつい登りだった。
頂上は標高1060m、そしてここにも「熊出没注意」の看板が出ていた。
左手後方には雪をかぶった木曾の峰が見える。見晴らしがいい。
下っていく途中で東山の一里塚跡を通る。五十七里目だ。ここは原型がかなり残っている。ここで京都から歩いてきているという男性の二人連れに会う。まだ仕事は現役の方のようで、何度も区切って歩いているといわれていた。この二三日歩いている人に時々会う。週末ということも関係しているのだろう。峠を下ってしばらく行くと永福寺がある。木曾義仲の信仰が厚かった駒形観世音を祭っている。わらぶきの屋根で、山門は立派な造りだが、これは明治29年に建立されたと説明されていた。
11時05分塩尻宿本陣跡を通る。
下諏訪宿から3時間05分、18960歩。
塩尻宿をでて少し行くと堀内家がある。旧堀の内村の庄屋を務めた家で、築200年経っているそうだ。国の重要文化財となっている。更に行くと右手に昭和電工の大きな工場があり、前方に穂高連峰が見えてくる。
平出の一里塚は日本橋から五十九里目の一里塚で道の両側に塚が残っている数少ない一里塚の一つだ。
この近く、道から少し入ったところに「平井遺跡」がある。縄文時代の集落の跡で当時199軒の住居があったそうで竪穴式の住居が復元されていた。中に入ってみると囲炉裏があるだけ。冬の寒さにはどのようにして耐えたのだろう、そもそもこんな高地にどこから、どのようにしてやってきたのだろう、と次々と疑問が湧く。
洗馬宿入口に来る。道標が立っており正面は「右 中山道」、左面には「左 北国往還 善光寺道」と彫られている。
13時16分 洗馬宿本陣跡を通る。
塩尻宿から2時間11分、10210歩。
ここは民家の前に表示板が立っているだけである。
牧野の一里塚があり「京へ七二里、江戸へ六○里」と書いてある。まだ半分来ていないのだと改めて思う。
14時も本山宿本陣跡を通る。
洗馬宿から44分、5390歩。
本陣跡は本通りから細い路地を通って奥まったところにあった。ここにも「明治天皇行在所跡碑」が立っている。
本陣のあった家の道を挟んだ前にいかにも昔を偲ばせるような造りの家が並んでいた。歴史を感じさせる造りだ。
日出塩の一里塚跡がある。日本橋から六十一里だ。こうした一里塚があるとたしかに気持ちの上で一つの区切りになるものだと改めて感じる。
「是より南 木曽路」の碑がある。これからいよいよ木曽路に入るのだ。
この碑のところから山道を登り左手は山の崖、右手は切り立った崖という道を歩く。右手崖のすぐ下は国道が走っておりその向こうに奈良井川が流れている。かなりの高さがある。ただこの道は長く続かず間もなく国道に合流する。
合流したところに桜沢茶屋本陣跡があり、ここには明治天皇櫻澤御小休所の碑がある。
「木曽路は全て山の中である」とは「夜明け前」の書き出しの文章だが、確かにここから始まる木曽路は山の中だ。両側に山が迫ってきており、谷間に線路、道路が通っているという感じだ。いまでこそ交通網がこうして整備されているからそう感じないが、昔はすごい山の中の道だったのだろう。
「
日本橋から六十二里目の若神子の一里塚を過ぎたところから国道を離れ右手の旧道に入っていくと若神子村に入っていく。
しばらく歩いていくと国道に合流し、左手にJR贄川駅がある。
贄川駅の先で国道と分かれJR線路を越えると贄川宿の入口になり関所跡がある。この関所は木曽路北門の関と呼ばれここを通るときは厳しい取締りがあったそうだ。
贄川宿に入るとこの地にある麻衣廼神社のお祭りが行われていた。山車が出ており、いかにも地域の祭りといった感じで行われていた。
ただ本陣跡ははっきりしなかったので国の重要文化財である深澤家住宅三棟の前をとりあえずのカウント場所とした。
16時07分贄川宿。
本山宿から2時間7分、12387歩。
今日の歩きはここまででここから奈良井まではJRで行くことにする。JRは2時間に一本しかないため時間に注意をして見物し、16時19分のJRに乗ることができた。16時27分奈良井駅に到着する。
今日の宿は駅からすぐ近くだ。
本日の歩行時間 8時間15分
本日の歩数&距離 48744歩(約33.1km)
旅の地図
記録
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2007年05月11日(金)
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2007年05月12日(土)
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2007年05月13日(日)
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2007年05月14日(月)
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2007年05月15日(火)
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2007年05月16日(水)
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2007年05月17日(木)
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2007年05月18日(金)
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2007年05月19日(土)
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2007年05月20日(日)
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2007年05月21日(月)
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2007年05月22日(火)
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2007年05月23日(水)
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2007年05月24日(木)
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2007年05月25日(金)
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2007年05月26日(土)
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2007年05月27日(日)
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2007年05月28日(月)
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2007年05月29日(火)
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2007年05月30日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん