2007年05月15日(火)
高崎~板鼻~安中~松井田~JR横川駅~JR高崎駅
晴れ
7時20分にホテルを出発し、新町の信号のところで中山道に合流する。本町三丁目の信号を左折し少し行くと本町一丁目の信号があり、ここから道は急に細くなる。常盤町の信号を右折し烏川にかかる君が代橋を渡って下豊岡西の信号の次を左折する。この分岐点に信州街道分去れの道標がある。ここから右折する道は信濃の国へ通じる信濃街道で古くは「信州みち」あるいは草津温泉へ通じる道でもあるところから「草津みち」とも呼ばれていたという説明書きが立っていた。ここを左折すると車が急に少なくなった。気持ちのいい季節で天気もいい。この時期こうして朝早く車の少ない道を歩くのは快適だ。
左手に「若宮八幡神社」がある。ここは平安末期、永承6年(1051年)に源頼義、義家父子が建立したという古い神社で、境内に源義家の「腰掛石」があるそうだがどこにあるのかわからなかった。ただ、歴史を感じさせる大きな樹木が繁っており気持ちがよかった。
神社から少し行くと皇女和宮が小休止されたという茶屋本陣跡が残っている。現在も住居として使われているようだが立派な造りだ。
下豊岡町の信号で国道を横切り碓氷川の堤に登って歩く。「碓氷」という言葉が出てきた。いよいよ難所といわれている碓氷峠が近づいたのだ。この堤は一段高くなっておりすぐ下を国道が走っているのだが、車の騒音もさほど気にならず気持ちがいい。堤の横に豊岡の一里塚がある。群馬県下で唯一現存している一里塚で日本橋から二十八里目となっている。
堤を下り再び国道に合流するところの右手に上野国一社八幡宮の鳥居があり、600m程の参道が見える。ここからしばらく行くと右手に「かねつ橋供養塔」がある。板鼻宿の念仏講中が寒念仏供養で得た報謝金で享保17年(1732年)に石橋を改修し大きな効果があったと説明されている。地元では寒念仏橋をかねつ橋と呼んでいるそうだが現在では川幅は狭い。昔はもっと大きな流れだったのだろう。
9時35分板鼻本陣跡を通る。
高崎宿から2時間15分、13228歩。
ここは本陣跡の標柱が立っているだけで現在は公民館となっている。
碓氷川にかかる鷹の巣橋を渡って少し行くと「從是一宮 大日街道」と刻まれた一宮道の道標が立っていた。
もう一度久芳橋で碓氷川を渡り下野尻の信号から左折すると間もなく安中宿だ。安中宿本陣跡は安中郵便局の敷地内にあるがここも痕跡はなく標柱が立っているだけだ。
10時18分本陣跡を通る。
板鼻宿から43分、3932歩。
上野尻郵便局を過ぎて左手に入ったところに「新島襄の旧宅」があった。同志社大学の創始者だが、父親が安中藩士だったためここに旧宅がある。もっとも新島襄本人は神田神保町で生まれ、ここには13、4歳の頃から20歳ぐらいまでしかいなかったということだ。地元の教育委員会が管理をしており、案内の方も常駐されていた。私が行った少し前には孫が同志社に進学したという女性の方が見えていたそうだ。
「松並木」がある。天保15年(1844)には700本ほどの松並木だったそうで、日光の杉並木と並び称される程だったが、現在では数十本を残すのみとなっている。ただその中でも大きな杉がいくつか残っており当時を偲ばせる。
昭和8年に天然記念物に指定をされており「史蹟 安中原市ノ杉並木」の碑がある。
原市高札場跡に「明治天皇原市御小休所碑」がある。明治11年の巡幸の際に小休止されたところということだ。
原市を過ぎると道は更に閑散としたものになる。
一旦国道と合流するところがあり、道路を挟んだ向かい側に妙義道常夜燈がある。これは妙義山への追分で文化5年(1808年)に建立されたものだが、道路工事に伴い昭和60年に50m程東から現在地へ移設されたと書かれていた。ここから斜め右の坂道を下り沼地の横を通って行くと松井田宿に到る。
このあたりから「妙義山」が見えてくる。妙義山は四国小豆島の寒霞渓、九州大分の耶馬溪と並んで日本三大奇勝の一つといわれているが遠くから見ても魅力を感じる山だ。
13時33分松井田宿を通る。金井本陣跡は群馬県信用組合、松本本陣跡はヨロズヤ書店のあたりと資料には書かれているが特に標示されているものはない。近所の人に尋ねてもよくわからないということだったので信用組合前でカウントする。
安中宿から3時間15分、15121歩。
しばらく県道を歩き松井田警察署の前から左折して旧道を歩く。やがてJR信越本線の踏切を越えていくと線路の向こう側に「五料の茶屋本陣跡」がある。名主を勤めた中島家で本家が
「お西」、分家が「お東」となっていた。写真は「お西」である。ここは一年交代で茶屋本陣を務めたということだ。
線路を横切って元に戻り、線路沿いに少し歩いて五料平踏切でおよびJR線路を越えて山道に入る。ここに「夜泣地蔵と茶釜石」がある。昔、地蔵の首が落ちていたのを馬方が拾って深谷まで持って行きそこで捨てたが、夜になると首が泣くのでここまで首を持ってきて地蔵の上に乗せてやったことから夜泣地蔵と呼ばれている。また茶釜石(写真真中の石)はたたくと空の茶釜のような音がすると書かれており、たたく石まで置かれていた。 たたいてみるとたしかに「コンコン」という金属音のような音がした。
ここからJRの踏切を再び渡るのだが、御所平踏切というこの踏切、農作業用と資料に書かれていたが下り線こそ線路を渡る道があるものの上り線にはない。線路を横切ってガードレールの隙間から道路に出たがその隙間の横には線路内に立ち入らないでくださいという看板が立っている。何だがよくわからない踏切だった。翌朝早速この踏切を横断する人がいて電車が停まる事態が起こっていた。
JA碓氷安中の臼井支所の前を通りしばらく歩いて、第15中山道踏切で再びJR線路を横切り、15時10分JR横川駅に到着する。
駅の近くの東京屋旅館に立ち寄る。本当はここに宿泊したかったのだが満員ということで断念したのだ。コーヒーを飲み店の女将さんを話をした後、JRで高崎まで戻る。距離からいけば軽井沢のほうがはるかに近いのだが、JR線は横川駅~軽井沢間は廃止されており、代替バスが走っているのだが、本数が非常に少ないため、高崎まで戻るほうが便利なのだ。
本日の歩行時間 7時間50分
本日の歩数&距離 43705歩(約29.7km)
7時20分にホテルを出発し、新町の信号のところで中山道に合流する。本町三丁目の信号を左折し少し行くと本町一丁目の信号があり、ここから道は急に細くなる。常盤町の信号を右折し烏川にかかる君が代橋を渡って下豊岡西の信号の次を左折する。この分岐点に信州街道分去れの道標がある。ここから右折する道は信濃の国へ通じる信濃街道で古くは「信州みち」あるいは草津温泉へ通じる道でもあるところから「草津みち」とも呼ばれていたという説明書きが立っていた。ここを左折すると車が急に少なくなった。気持ちのいい季節で天気もいい。この時期こうして朝早く車の少ない道を歩くのは快適だ。
左手に「若宮八幡神社」がある。ここは平安末期、永承6年(1051年)に源頼義、義家父子が建立したという古い神社で、境内に源義家の「腰掛石」があるそうだがどこにあるのかわからなかった。ただ、歴史を感じさせる大きな樹木が繁っており気持ちがよかった。
神社から少し行くと皇女和宮が小休止されたという茶屋本陣跡が残っている。現在も住居として使われているようだが立派な造りだ。
下豊岡町の信号で国道を横切り碓氷川の堤に登って歩く。「碓氷」という言葉が出てきた。いよいよ難所といわれている碓氷峠が近づいたのだ。この堤は一段高くなっておりすぐ下を国道が走っているのだが、車の騒音もさほど気にならず気持ちがいい。堤の横に豊岡の一里塚がある。群馬県下で唯一現存している一里塚で日本橋から二十八里目となっている。
堤を下り再び国道に合流するところの右手に上野国一社八幡宮の鳥居があり、600m程の参道が見える。ここからしばらく行くと右手に「かねつ橋供養塔」がある。板鼻宿の念仏講中が寒念仏供養で得た報謝金で享保17年(1732年)に石橋を改修し大きな効果があったと説明されている。地元では寒念仏橋をかねつ橋と呼んでいるそうだが現在では川幅は狭い。昔はもっと大きな流れだったのだろう。
9時35分板鼻本陣跡を通る。
高崎宿から2時間15分、13228歩。
ここは本陣跡の標柱が立っているだけで現在は公民館となっている。
碓氷川にかかる鷹の巣橋を渡って少し行くと「從是一宮 大日街道」と刻まれた一宮道の道標が立っていた。
もう一度久芳橋で碓氷川を渡り下野尻の信号から左折すると間もなく安中宿だ。安中宿本陣跡は安中郵便局の敷地内にあるがここも痕跡はなく標柱が立っているだけだ。
10時18分本陣跡を通る。
板鼻宿から43分、3932歩。
上野尻郵便局を過ぎて左手に入ったところに「新島襄の旧宅」があった。同志社大学の創始者だが、父親が安中藩士だったためここに旧宅がある。もっとも新島襄本人は神田神保町で生まれ、ここには13、4歳の頃から20歳ぐらいまでしかいなかったということだ。地元の教育委員会が管理をしており、案内の方も常駐されていた。私が行った少し前には孫が同志社に進学したという女性の方が見えていたそうだ。
「松並木」がある。天保15年(1844)には700本ほどの松並木だったそうで、日光の杉並木と並び称される程だったが、現在では数十本を残すのみとなっている。ただその中でも大きな杉がいくつか残っており当時を偲ばせる。
昭和8年に天然記念物に指定をされており「史蹟 安中原市ノ杉並木」の碑がある。
原市高札場跡に「明治天皇原市御小休所碑」がある。明治11年の巡幸の際に小休止されたところということだ。
原市を過ぎると道は更に閑散としたものになる。
一旦国道と合流するところがあり、道路を挟んだ向かい側に妙義道常夜燈がある。これは妙義山への追分で文化5年(1808年)に建立されたものだが、道路工事に伴い昭和60年に50m程東から現在地へ移設されたと書かれていた。ここから斜め右の坂道を下り沼地の横を通って行くと松井田宿に到る。
このあたりから「妙義山」が見えてくる。妙義山は四国小豆島の寒霞渓、九州大分の耶馬溪と並んで日本三大奇勝の一つといわれているが遠くから見ても魅力を感じる山だ。
13時33分松井田宿を通る。金井本陣跡は群馬県信用組合、松本本陣跡はヨロズヤ書店のあたりと資料には書かれているが特に標示されているものはない。近所の人に尋ねてもよくわからないということだったので信用組合前でカウントする。
安中宿から3時間15分、15121歩。
しばらく県道を歩き松井田警察署の前から左折して旧道を歩く。やがてJR信越本線の踏切を越えていくと線路の向こう側に「五料の茶屋本陣跡」がある。名主を勤めた中島家で本家が
「お西」、分家が「お東」となっていた。写真は「お西」である。ここは一年交代で茶屋本陣を務めたということだ。
線路を横切って元に戻り、線路沿いに少し歩いて五料平踏切でおよびJR線路を越えて山道に入る。ここに「夜泣地蔵と茶釜石」がある。昔、地蔵の首が落ちていたのを馬方が拾って深谷まで持って行きそこで捨てたが、夜になると首が泣くのでここまで首を持ってきて地蔵の上に乗せてやったことから夜泣地蔵と呼ばれている。また茶釜石(写真真中の石)はたたくと空の茶釜のような音がすると書かれており、たたく石まで置かれていた。 たたいてみるとたしかに「コンコン」という金属音のような音がした。
ここからJRの踏切を再び渡るのだが、御所平踏切というこの踏切、農作業用と資料に書かれていたが下り線こそ線路を渡る道があるものの上り線にはない。線路を横切ってガードレールの隙間から道路に出たがその隙間の横には線路内に立ち入らないでくださいという看板が立っている。何だがよくわからない踏切だった。翌朝早速この踏切を横断する人がいて電車が停まる事態が起こっていた。
JA碓氷安中の臼井支所の前を通りしばらく歩いて、第15中山道踏切で再びJR線路を横切り、15時10分JR横川駅に到着する。
駅の近くの東京屋旅館に立ち寄る。本当はここに宿泊したかったのだが満員ということで断念したのだ。コーヒーを飲み店の女将さんを話をした後、JRで高崎まで戻る。距離からいけば軽井沢のほうがはるかに近いのだが、JR線は横川駅~軽井沢間は廃止されており、代替バスが走っているのだが、本数が非常に少ないため、高崎まで戻るほうが便利なのだ。
本日の歩行時間 7時間50分
本日の歩数&距離 43705歩(約29.7km)
旅の地図
記録
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2007年05月11日(金)
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2007年05月12日(土)
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2007年05月13日(日)
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2007年05月14日(月)
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2007年05月15日(火)
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2007年05月16日(水)
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2007年05月17日(木)
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2007年05月18日(金)
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2007年05月19日(土)
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2007年05月20日(日)
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2007年05月21日(月)
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2007年05月22日(火)
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2007年05月23日(水)
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2007年05月25日(金)
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2007年05月26日(土)
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2007年05月27日(日)
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2007年05月28日(月)
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2007年05月29日(火)
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2007年05月30日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん