2008年07月07日(月)
JR肥後二見~赤松太郎峠~JR肥後田ノ浦
晴れ
九州内とはいえ、前回歩いた肥後二見まではかなり距離があるため、朝一番の在来線特急で出発することにする。博多まで行く新幹線はまだ動いていないのだ。午前5時に家を出発し、5時26分小倉から乗車する。駅まで行く公共機関もまだ何も動いていないので人は少ないと思っていたのだが、かなりの乗客がいるのには驚いた。
この後,博多、新八代と列車を乗り継いで肥後二見に9時5分に到着する。家を出てから4時間が経過している。
今日は快晴。二日前から雨が止み、急激な暑さが襲ってきている。結局いつの間にか梅雨明けしていたようだが、まだこの時点では梅雨明け宣言は出ていない。
肥後二見駅のすぐ前で右へ進む道があり、その先のY字路を左へ進むとやがて3号線に合流する。
二見橋を渡って進むが、まだ歩き始めて30分ほどしか経過していないのに、もう滝の汗だ。とにかく暑い!これは大変な一日になりそうだと覚悟する。
やがて左手に弁当、たこやきの大きな看板を掲げている店があり、その前に右折する道がある。八代学園の看板がかかっているこの道を進む。
最初の角を左折し、橋を渡っていくと八代学園が右手に見えてくる。ここは知的障害者の支援施設だ。
ここからしばらく道なりに進むと「新免眼鏡橋」がある。長さ14.4m、幅1.8m、高さ4.6mで、嘉永6年(1853)頃に架けられたという標識が立っている。石を積んできれいなアーチ型になっている。
ここから先で3号線に合流する道があり、その手前に「十五里木跡」が立っている。
そこには赤松太郎峠へ0.5kmと書かれている。いよいよ三太郎峠と呼ばれる三つの峠の最初の峠を登るのだ。
そのまま3号線を歩き、最初に右へ下る道があるのでここを歩いていく。左手に住宅が立っており、古い石垣が積まれている。右手は林だ。
「赤松第一号眼鏡橋」がある。長さ12.3m、幅3.8m、高さ4.7mで嘉永5年(1852)頃に架けられたと説明されている。
このあたりは山間部で棚田がきれいだ。
更に「太平眼鏡橋」がある。長さ4.1m、幅2.5m、高さ3.7m、これも嘉永5年(1852)頃とある。このあたりの橋は同じ時期にまとまって架けられたようだ。この太平眼鏡橋がいくつかある橋の中で最も小さい橋だった。
坂を下ったところに「御籠据所跡入口」と書かれた碑が立っている。
薩摩街道のうち二見が属していた江戸時代の田ノ浦手永には塩釜坂、白鳥坂、君が淵坂、赤松太郎坂などの大小の坂があり、道行く人が汗をかきながらこれらを越えていった。坂や峠の頂上には参勤交代の行列を休ませる「御籠据所」と呼ばれる場所があった。ここにも「御籠据所」は30m先と書かれていたので探してみたが、どこがその場所かわからなかった。
ここから先、道が三本に分かれている。資料を見るとその真ん中の道、旧国道を通るほうが無難と書かれていたが、左手の道の先のほうに表示板のようなものが見えたのでその道を行ってみた。
表示板には「小藪眼鏡橋」と書かれており、嘉永5年(1852)頃に架けられたとなっていた。
この橋があるということはこの道が旧街道なのだろうと思い先へ進んでいると、地元の方がおられたので道を聞いてみた。そうすると旧国道を歩いたほうが分かりやすいが、この先にもう一つ橋があり、旧国道を歩くとその橋を通ることはできない。その橋へ行くには前方に見える竹林の先から右に下る道がある。立派な家が一軒立っているのですぐ分かると思う。その先に橋があり、更にその先に栗畑の中を通る道がある。ただこの道は地元の人間でないと分かりにくいよと教えていただいた。
3号線を歩いていると右に下る道があり、二軒の家が立っていた。一瞬迷ったが一軒家と聞いていたのでそのまま進むと、また右へ下る道があったのでこれを下っていった。
確かに家が一軒立っており、その先に「須田眼鏡橋」があった。
この橋は嘉永2年(1849)頃に架けられたということで、これまでの橋よりも少しだけ古い橋だが全て同じ造りだ。
ここから先に棚田がある。その田の先に上の方に登る道がかすかにあるように見えた。上を見ると旧国道らしい道が見える。棚田の後ろに回り、そこから上に登る道を探したがよくわからない。ただ、なんとなく人が歩いたような感じがある、道とは呼べないような道がついているのでそれを登る。かなり急坂だが、とにかく上に登れば旧国道に出そうだ。栗の木が植わっているのでこの場所で間違いはないようだと思いながら登ると大きな電柱の下にでて、そこが旧国道だった。
ここから旧国道を歩いたが、この道はほとんど使われていないようで、途中出会った車は二台だけだった。もちろん人は誰も通っていなかった。所々に木陰があるものの、舗装されているので照り返しがきつい。
左手に採石場があり、犬がいてえらく吠えられてしまった。この犬、しつこくて、いつまでも後ろをついてきて吠えかかるのでうんざりしてしまった。
そのすぐ先で前方に海が見えた。ずっと山の中を歩いてきて、急に海が見えたのでちょっと感動した。
その先に「薩摩街道」の標識が立っていた。この道で間違っていないと思ってそのまま旧国道を歩いていったが、後で聞くと、ここから旧道に入るそうで、その目印として立てたということだった。
ただ、記憶があいまいなのだが、木が繁っていて旧道と分かるような道はなかったように思う。単に私が気がつかなかっただけかな?
旧道があるということは知っていたので、これ以降も旧道を探しながら歩く。先ほどの標識から約20分ほど歩いたところで、左に下る道があったので、これが旧道かなと思っていってみたが違っていた。更にその先で入口に「みかん口」とコンクリートに刻まれた道があったのでここも行ってみたが、これも違っていた。
そのまま旧国道を下っていると車が一台下ってきたので、旧道のことを聞いてみたが知らないようだった。ここで別れてものの20mも行かないうちに、その車が急ブレーキをかけて停まり、乗っていた二人が車から降りてきた。どうしたのだろうと思っていると「まむし」がいるという。見ると車輪で尻尾の部分を轢かれたらしい「まむし」がもがいていた。これまで随分山道を歩いてきたが「まむし」と出会うのは初めてだ。これは殺さなければいけないということで、一人の方が枯れ枝を持ってきて、三角形の頭をゴツンとつぶして殺した。この方々は山仕事をされているようで手馴れたものだったが、それにしても車の中からよく気がついたものだ。もし気がつかなければ、私ともろにご対面していたはずだ。クワバラ、クワバラ。
やがて田ノ浦の町へ出て昼食。13時に今回色々と教えていただいた芦北町教育委員会を訪問し、お話を聞かせていただく。ここで先ほどの標識が赤松太郎峠の旧道の入口だったことを知った。
これから先、歩く予定の佐敷峠等の話を約一時間ほどして退出したが、この話の途中で身体に異変が起きた。
なんとなく頭がフラつくのだ。昼食を食べるまでなんともなかったのだし、庁舎の中は涼しいので体調は回復するはずなのに、逆におかしくなってきた。話が終わって外に出ると、午後2時ごろの猛烈な暑さが身体を包む。歩き始めたが日陰は全くなく、暑さは強烈だ。これはちょっとやばいぞと思いながら、それでも歩いていった。1.5kmほど先にあるJR肥後田ノ浦駅まできても頭のフラフラが治まらないため、これはやめたほうがよさそうだと思い、歩きを中止することにする。
ここも列車が少なく、次の列車まで約40分ほどあったので自販機で冷たい水を買い、頭や首筋を冷やして列車を待つ。
大分落ち着いてきたころ、15時10分のJRが来たのでこれに乗って帰途に着き、18時24分小倉に帰着した。
今週に入って、梅雨明けと同時に一気に暑さが本格化。昨今の暑さは尋常ではないので、今日で歩きは一旦中断し、涼しくなってから再開することにする。
当初の予定では夏までに薩摩街道を踏破しようと思っていたが、資料の収集に思った以上に時間がかかってしまい、スタートが遅れたため少し残ってしまった。残念だがやむをえないことだ。
本日の歩行時間 5時間25分
本日の歩数&距離 29098歩、14.6km。
九州内とはいえ、前回歩いた肥後二見まではかなり距離があるため、朝一番の在来線特急で出発することにする。博多まで行く新幹線はまだ動いていないのだ。午前5時に家を出発し、5時26分小倉から乗車する。駅まで行く公共機関もまだ何も動いていないので人は少ないと思っていたのだが、かなりの乗客がいるのには驚いた。
この後,博多、新八代と列車を乗り継いで肥後二見に9時5分に到着する。家を出てから4時間が経過している。
今日は快晴。二日前から雨が止み、急激な暑さが襲ってきている。結局いつの間にか梅雨明けしていたようだが、まだこの時点では梅雨明け宣言は出ていない。
肥後二見駅のすぐ前で右へ進む道があり、その先のY字路を左へ進むとやがて3号線に合流する。
二見橋を渡って進むが、まだ歩き始めて30分ほどしか経過していないのに、もう滝の汗だ。とにかく暑い!これは大変な一日になりそうだと覚悟する。
やがて左手に弁当、たこやきの大きな看板を掲げている店があり、その前に右折する道がある。八代学園の看板がかかっているこの道を進む。
最初の角を左折し、橋を渡っていくと八代学園が右手に見えてくる。ここは知的障害者の支援施設だ。
ここからしばらく道なりに進むと「新免眼鏡橋」がある。長さ14.4m、幅1.8m、高さ4.6mで、嘉永6年(1853)頃に架けられたという標識が立っている。石を積んできれいなアーチ型になっている。
ここから先で3号線に合流する道があり、その手前に「十五里木跡」が立っている。
そこには赤松太郎峠へ0.5kmと書かれている。いよいよ三太郎峠と呼ばれる三つの峠の最初の峠を登るのだ。
そのまま3号線を歩き、最初に右へ下る道があるのでここを歩いていく。左手に住宅が立っており、古い石垣が積まれている。右手は林だ。
「赤松第一号眼鏡橋」がある。長さ12.3m、幅3.8m、高さ4.7mで嘉永5年(1852)頃に架けられたと説明されている。
このあたりは山間部で棚田がきれいだ。
更に「太平眼鏡橋」がある。長さ4.1m、幅2.5m、高さ3.7m、これも嘉永5年(1852)頃とある。このあたりの橋は同じ時期にまとまって架けられたようだ。この太平眼鏡橋がいくつかある橋の中で最も小さい橋だった。
坂を下ったところに「御籠据所跡入口」と書かれた碑が立っている。
薩摩街道のうち二見が属していた江戸時代の田ノ浦手永には塩釜坂、白鳥坂、君が淵坂、赤松太郎坂などの大小の坂があり、道行く人が汗をかきながらこれらを越えていった。坂や峠の頂上には参勤交代の行列を休ませる「御籠据所」と呼ばれる場所があった。ここにも「御籠据所」は30m先と書かれていたので探してみたが、どこがその場所かわからなかった。
ここから先、道が三本に分かれている。資料を見るとその真ん中の道、旧国道を通るほうが無難と書かれていたが、左手の道の先のほうに表示板のようなものが見えたのでその道を行ってみた。
表示板には「小藪眼鏡橋」と書かれており、嘉永5年(1852)頃に架けられたとなっていた。
この橋があるということはこの道が旧街道なのだろうと思い先へ進んでいると、地元の方がおられたので道を聞いてみた。そうすると旧国道を歩いたほうが分かりやすいが、この先にもう一つ橋があり、旧国道を歩くとその橋を通ることはできない。その橋へ行くには前方に見える竹林の先から右に下る道がある。立派な家が一軒立っているのですぐ分かると思う。その先に橋があり、更にその先に栗畑の中を通る道がある。ただこの道は地元の人間でないと分かりにくいよと教えていただいた。
3号線を歩いていると右に下る道があり、二軒の家が立っていた。一瞬迷ったが一軒家と聞いていたのでそのまま進むと、また右へ下る道があったのでこれを下っていった。
確かに家が一軒立っており、その先に「須田眼鏡橋」があった。
この橋は嘉永2年(1849)頃に架けられたということで、これまでの橋よりも少しだけ古い橋だが全て同じ造りだ。
ここから先に棚田がある。その田の先に上の方に登る道がかすかにあるように見えた。上を見ると旧国道らしい道が見える。棚田の後ろに回り、そこから上に登る道を探したがよくわからない。ただ、なんとなく人が歩いたような感じがある、道とは呼べないような道がついているのでそれを登る。かなり急坂だが、とにかく上に登れば旧国道に出そうだ。栗の木が植わっているのでこの場所で間違いはないようだと思いながら登ると大きな電柱の下にでて、そこが旧国道だった。
ここから旧国道を歩いたが、この道はほとんど使われていないようで、途中出会った車は二台だけだった。もちろん人は誰も通っていなかった。所々に木陰があるものの、舗装されているので照り返しがきつい。
左手に採石場があり、犬がいてえらく吠えられてしまった。この犬、しつこくて、いつまでも後ろをついてきて吠えかかるのでうんざりしてしまった。
そのすぐ先で前方に海が見えた。ずっと山の中を歩いてきて、急に海が見えたのでちょっと感動した。
その先に「薩摩街道」の標識が立っていた。この道で間違っていないと思ってそのまま旧国道を歩いていったが、後で聞くと、ここから旧道に入るそうで、その目印として立てたということだった。
ただ、記憶があいまいなのだが、木が繁っていて旧道と分かるような道はなかったように思う。単に私が気がつかなかっただけかな?
旧道があるということは知っていたので、これ以降も旧道を探しながら歩く。先ほどの標識から約20分ほど歩いたところで、左に下る道があったので、これが旧道かなと思っていってみたが違っていた。更にその先で入口に「みかん口」とコンクリートに刻まれた道があったのでここも行ってみたが、これも違っていた。
そのまま旧国道を下っていると車が一台下ってきたので、旧道のことを聞いてみたが知らないようだった。ここで別れてものの20mも行かないうちに、その車が急ブレーキをかけて停まり、乗っていた二人が車から降りてきた。どうしたのだろうと思っていると「まむし」がいるという。見ると車輪で尻尾の部分を轢かれたらしい「まむし」がもがいていた。これまで随分山道を歩いてきたが「まむし」と出会うのは初めてだ。これは殺さなければいけないということで、一人の方が枯れ枝を持ってきて、三角形の頭をゴツンとつぶして殺した。この方々は山仕事をされているようで手馴れたものだったが、それにしても車の中からよく気がついたものだ。もし気がつかなければ、私ともろにご対面していたはずだ。クワバラ、クワバラ。
やがて田ノ浦の町へ出て昼食。13時に今回色々と教えていただいた芦北町教育委員会を訪問し、お話を聞かせていただく。ここで先ほどの標識が赤松太郎峠の旧道の入口だったことを知った。
これから先、歩く予定の佐敷峠等の話を約一時間ほどして退出したが、この話の途中で身体に異変が起きた。
なんとなく頭がフラつくのだ。昼食を食べるまでなんともなかったのだし、庁舎の中は涼しいので体調は回復するはずなのに、逆におかしくなってきた。話が終わって外に出ると、午後2時ごろの猛烈な暑さが身体を包む。歩き始めたが日陰は全くなく、暑さは強烈だ。これはちょっとやばいぞと思いながら、それでも歩いていった。1.5kmほど先にあるJR肥後田ノ浦駅まできても頭のフラフラが治まらないため、これはやめたほうがよさそうだと思い、歩きを中止することにする。
ここも列車が少なく、次の列車まで約40分ほどあったので自販機で冷たい水を買い、頭や首筋を冷やして列車を待つ。
大分落ち着いてきたころ、15時10分のJRが来たのでこれに乗って帰途に着き、18時24分小倉に帰着した。
今週に入って、梅雨明けと同時に一気に暑さが本格化。昨今の暑さは尋常ではないので、今日で歩きは一旦中断し、涼しくなってから再開することにする。
当初の予定では夏までに薩摩街道を踏破しようと思っていたが、資料の収集に思った以上に時間がかかってしまい、スタートが遅れたため少し残ってしまった。残念だがやむをえないことだ。
本日の歩行時間 5時間25分
本日の歩数&距離 29098歩、14.6km。
旅の地図
記録
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2008年06月30日(月)
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2008年07月01日(火)
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2008年07月07日(月)
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2008年09月23日(火)
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2008年09月24日(水)
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2008年09月25日(木)
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2008年11月26日(水)
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2008年11月27日(木)
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2008年11月28日(金)
プロフィール
歩人
かっちゃん